花火のそばで、君と。
サークル仲間の家で宅飲みをしていたら、なんとなくの流れで、みんなで花火をする事になった。
閉店間際のスーパーで花火を買い込んで、向かったのは僕たちの通う大学。
最近は『花火禁止』を掲げている公園が多くなったせいだろう。許可とも禁止とも言わない大学構内で花火を楽しむ学生グループの姿は、すっかり夏の風物詩になっていた。
工学部の裏の小さな教員用駐車場は、花火をする時のちょっとした穴場だ。停まっている車はほとんどなく、比較的虫も少ない。水道が近いというのも、地味に大きな利点だった。
ロウソクと水を張ったバケツを用意して、虫除けスプレーを身体に吹きかける。誰かが最初の一本に火を灯したら、僕達の小規模な花火大会の始まりだ。しゅわっと勢いよく吹き出す炎の音と、みんなの笑い声で、あたりはたちまち賑やかになる。
月のない深い闇の中、色とりどりに咲く光の花。それを僕は、少し離れた場所にあるベンチに座って眺めていた。
八月の夜の空気は、昼間に比べればいくらかひんやりとしている。けれど湿り気が強いせいか、不快指数はやや高い。じわりと汗が滲むのを感じながら、僕はさっきのスーパーで買ったサイダーを開栓し、中身を喉に流し込む。口の中をちくちくと刺す炭酸の冷たい刺激が、不思議と心地良かった。
ざり――その時、砂利を踏みしめる小さな音が聞こえて、僕は背後を振り返る。
視界に飛び込んでくるのは、街灯のない闇の向こうから歩み寄る友人の姿。
彼は、花火をしていると決まって顔を見せる。今日も来てくれた事を嬉しく思いながら、僕は笑顔を向けた。
「よう」
僕の隣に音もなく腰掛けた彼が、くだけた挨拶をする。
「お前、花火の時はいつも現れるよな」
またサイダーを飲んだ僕の口から、ふとそんな言葉が漏れた。そこに返ってきたのは「そうだなぁ」なんて、ちょっとのんびりした答え。
「やっぱ、好きなんだよな。あの光とか、火薬の匂いとか。だから無意識に引き寄せられるのかも」
「……とか言うわりに、この間の市の花火大会の時は、顔出さなかったけど」
「花火大会、行きたかったんだけどなぁ……なんでか、行けなかったんだよな」
僕の指摘に独り言のようにそうこぼすと、彼は一つ嘆息する。悪い、と謝罪の言葉が投げかけられたけれど、僕は静かにかぶりを振ってそれに答えた。
それから僕は、隣に座る彼の姿を横目で見やりながら、かねてより抱いていた疑問を投げかける。
「お前さ……いつまでここにいるの?」
「……さあ、いつまでかな」
その質問に返ってきたのは、妙に他人事のような、曖昧な答え。
とはいえ、そうなるのも無理からぬ事なのだろう――僕は頭の片隅でそう考えながら、もう一口サイダーを飲む。それでも、『これが最後だ』などと言われなかった事に、少しだけ安心していた。
突発的に始まった花火大会は、徐々に盛り上がりを見せている。
調子に乗って二本同時に火を点けてふざける男子に、「何馬鹿な事してんのよ」と呆れ顔で言う女子のグループ。
その中の一人、はしゃぐ男子に苦笑を向けながら自分の花火を楽しんでいる女の子に、彼はじっと視線を向ける。双眸をかすかに細め、温かく柔らかな眼差しを注いでいたと思うと――
「いつまで……か」
唐突に、ぽつりとつぶやきを漏らした。
「アイツが、幸せになるのを見届けるまで……とか?」
それは多分、冗談のつもりで発せられた言葉だったのだろう。けれどその声は、いやに抑揚なく僕の耳に届いた。
「……ベタな少女漫画のヒーローみたい」
だから僕は、冗談めかした答えを返す。
できるだけ明るい声で、呆れを含んだ言葉を投げかけると、彼はからからと笑い声を上げた。
「まあ……クサいのは否定しねえよ」
けれど、こちらを横目で見ながら答えた声にはやはり、どこか寂しげな気配が滲んでいる。
その時、ひときわ大きな歓声が上がって、僕と彼は同時にその方向を見た。夏の夜のぬるい風が、花火特有の火薬の匂いをベンチのそばまで運んで来る。
どうやら、誰かが大きな噴出花火に点火したらしい。僕らの身長よりも高い場所まで吹き上がった黄金色の火花が、ばちばちばち、と派手な音を立てながら爆ぜていた。
黄金色だった輝きが、次第に橙色、そして赤色へと変わっていく――刻々と移り変わるその光が、花火を見上げる彼女の姿を明るく照らし出した。
緩くウェーブのかかった、ショートボブの黒髪に飾られた横顔。その瞳は花火を映してきらきらと輝いていて、口元には楽しそうな笑みが浮かんでいる。
一番仲の良いサークル仲間の女の子と何やら言葉を交わし、声を上げて笑う彼女。その様子を、僕らはしばし、無言で見つめていたけれど――やがて隣に座る彼が「良かった」と、独り言を漏らした。
「アイツ……また、笑えるようになって」
「うん……良く笑うようになった」
ほっとしたような嘆息とともに吐き出された言葉に、僕は一つうなずいてから答える。
「良く笑うようになったし……そういえばあれ、作ってもらった」
「……あれ?」
「唐揚げ。ニンニクがめちゃくちゃ効いてるやつ」
『二年ぶりくらいに作ったから、上手くできなかったかも』――そんな事を言って、はにかんだ彼女の顔。その様子を思い出しながら僕が説明すると、彼は「ああ、あれか」と合点がいったようにつぶやいて、にやっと笑った。
「あれ、うまいだろ?」
「うん、おいしかった」
かけられた問いに、僕は素直に同意する。
鶏もも肉を時間をかけて漬け込み、薄く衣をつけて、ジューシーさを損なわない絶妙な火加減で揚げた唐揚げ。確かにあれは、店で出てきてもおかしくないと思えるほどの逸品だったけれど――同時に、それゆえの問題点を抱えている品でもあった。
「おいしすぎたせいで……ものすごくビールが進んで、次の日二日酔いになった」
ぼそりとつぶやきながら、僕は苦笑をこぼす。ついでに、ニンニクが効きすぎているために、翌日まで強烈な臭いが残ってしまうのも難点だった。
大変だったその時の事を思い出し、無意識に渋面を作った僕の顔を見て、彼にも思うところがあったらしい。
「そうなんだよなぁ。あの唐揚げ、酒に合いすぎて、つい飲みすぎるんだよな」
そう返す顔にもまた、困ったような苦笑が浮かんでいた。
再びばしゅっ、と大きな音が響いて、噴出花火が派手な炎を吹き上げる。目に痛いほどの強烈な青緑色の光が、取り囲むみんなを、そして彼女を、青白く照らし出した。
けれどその光は、僕と彼を照らしてはくれない。闇のわだかまるベンチに並んで腰を下ろし、僕らは遠いその光を――それを見上げる彼女の背中を、ぼんやりと眺めていた。
「唐揚げ……うまかったな」
ふいにぽつりと独りごちて、彼がぎゅっと目を細める。
「ほんとに……うまかった。また、食いたいな……」
続くその言葉がかすかに震えているように聞こえたのは、おそらく気のせいではない。その静かで哀しい声音がつきりと僕の胸を刺して、じわじわと鋭い痛みを広げていった。
「……じゃあ」
この痛みを感じているのは、きっと僕だけじゃない。互いのそれを少しでも和らげたくて、花火から視線をそらし、僕は隣を振り返る。
「今度、持っていこうか?」
『にやり』という形容詞が似合いそうな、何か悪だくみをしているように見える笑いを浮かべながら問いかけると――途端に彼は「なんだって?」と言いながら、呆気にとられた顔をした。
「彼女に頼んで、たくさん作ってもらって……それで、タッパに詰めてお前のところに置いてやる」
「……それはやめろ」
僕が続けた言葉でその光景を想像したのだろう。彼の眉間にむ、と皺が寄り、低い声で否を返される。
「俺は嬉しいけど……周りの皆さんに『ニンニク臭い』ってめちゃくちゃ怒られるから、絶対」
少し早口で焦ったように返された答えは、妙に真に迫っていた。
どうやら彼は過去に、向こうで何かやらかして怒られた事があるらしい。正座でしょんぼりとする彼の姿を何故か想像してしまい、僕は思わず押し殺した笑い声を漏らす。
「笑うなよ……怒られるの、地味に怖いんだからな」
くつくつ笑う僕に、ちくりと棘をはらんだ視線を投げかけつつも――彼はなんとも複雑な顔で、それでも小さく笑ってくれた。
「それなら……持っていくのは普通のものにするよ。お菓子とかお花とか」
「……そうしてくれ」
「ああ、でも……ニンニク控えめで作ってもらえば、なんとかなるかな」
「確かに、それならなんとか……」
それならばと、多少現実的な事を提案してみると、彼はほんの少しだけ心動かされるようなそぶりを見せる――しかしすぐに「って、いや待て」などとつぶやきながら、ぶんぶんとかぶりを振った。
「タッパに入れた唐揚げ供えるって発想が、そもそもおかしいだろ。運動会の弁当じゃあるまいし」
言いながら、じとっとした視線をこちらに注いでくる。その瞳にも、声にももう、寂しげな気配はない――それに気づいて僕は、心の中でほっと息をついた。
いつの間にか胸の奥から、あの痛みは消えている。彼もそうだといいなと思いながら、僕はまた口を開いた。
「おにぎりと卵焼きも、用意する?」
「だから、そうじゃねえんだよ……」
呆れたつぶやきとともに、彼がはぁ、と重たいため息をこぼして――それから僕らは、声を上げて笑いあった。
気づけばあれだけたくさん買ってきたというのに、花火はほとんどなくなりかけている。
残ったのは線香花火。女の子達が輪になってしゃがみ、一本ずつ手にしたそれに火を点け始めていた。
さっきまでの派手な花火の音は絶え、みんなの話す声も心なしか潜めたものになっている。周囲に立ち込めていた火薬の匂いは、すっかり薄くなっていて――線香花火の光も音も匂いも、僕達のところまでは届かなかった。
最後に一度、みんなの姿をぐるりと見渡すと――座った時と同様、彼は音もなくベンチから立ち上がる。
「……俺、そろそろ行くわ」
「うん」
どこか名残惜しげに発せられた別れの言葉に、僕は小さくうなずき、少しぬるくなったサイダーを飲んだ。彼の姿が視界に映らないよう、あえて顔を背け、花火を楽しむ一団に目を向ける。
一旦は静かになった胸の奥底から、焼けつくような痛みをともなう感情がこみ上げた。それを懸命に押し殺しながら、僕は唇を開く。
「また、花火するから。そしたら来いよ」
それが果たされる保証なんて、どこにもないけれど――それでも、約束を口にせずにはいられなかった。
「……おう」
答える彼の声は短い。しかしそこに、かすかに嬉しそうな気配が滲んだのを、僕は聞き逃さなかった。
「アイツの事、幸せにしてくれよ」
そして、少し離れた所から聞こえてくる、彼の声。
「俺がバカやったせいで、散々泣かせたから」
発せられた声は淡々としていたけれど――その奥に秘められた、深い悔悟の念。それが寂寥に襲われる僕の心を、ひときわ強く揺さぶった。
「……当たり前だろ」
堪えきれずあふれた感情が、目の奥をじわりと熱くする。喉の奥が氷の塊でも詰め込まれたように苦しくなって、声が震えそうになった。
「絶対、幸せにする」
だけど、それをどうしても悟られたくなくて――僕は精一杯抑えた、けれどはっきりとした声で、彼に答えてみせる。
その言葉に対する返答は、しばしやって来なかった。
だが――十数秒の沈黙ののち、背後から小さく、ふ、と笑みがこぼされる気配が伝わってくる。
「……ありがとな」
そして聞こえる、深い安堵をはらんだ感謝の言葉。
同時に、ざり、と砂利を踏む音が、僕の鼓膜をかすかに震わせた。
――それからどれくらい、そうして座っていただろうか。
「……ねえ、何してるの?」
唐突にかけられた声に僕ははっと我に返り、いつの間にかうつむけていた顔を上げる。花火を楽しむ仲間達の輪から外れた彼女が、ベンチの前に立って、僕を見下ろしていた。
「君が提案した花火なのに、全然参加してないじゃん」
「……ごめん」
少々咎めるような響きを帯びて落とされた言葉に、僕は苦笑いを返す。
「でも、こうやってみんなが花火してるのを見てるの、結構楽しくて」
――本当の事は、言えない。
だから、半分嘘で半分本当のような理由を、僕は口にする。
彼女は「ふうん」と空気の抜けるような相槌を打ったきり、しばし黙り込んでいたが――やがてふと、不思議そうな表情を向けてきた。
「ねえ……さっき、誰かと話してた?」
聞くべきか悩むように少し逡巡したのち、かくりと首をかしげてみせる。予想外のその質問に、僕は思わず心臓をどきりと跳ねさせた。
「……なんで?」
反射的に聞き返してしまったけれど、その声はみっともなくうわずったものになってしまう。背中を冷や汗がたらり、と伝い落ちていくのが、自分でも分かった。
しかし幸い、僕の動揺に彼女は気づかなかったらしい。
「気のせい、だとは思うんだけど」
なんて事を言いながら小さく眉根を寄せ、ぱちぱちとまばたきする。
「君の笑い声が聞こえたような気がしたから……他に、誰かいたの?」
戸惑いを宿すその視線が、きょろきょろと周囲に巡らされた。その仕草に釣られるように、僕も背後を振り返ったけれど。
「……別に、誰もいないよ」
そこにあるのは、一面の漆黒――花火の輝きも、街灯の光も届かない、暗く深い闇だけ。彼の姿は、もうどこにも見えなかった。
それでも彼女はしばし、その闇の向こうを見通そうとするかのように、じっと目を凝らしていたが――やがて「まあ、いっか」と独り言をこぼした。
「それより……ほらこれ」
その視線が僕の顔へと向けられ、明るい声とともに右手が差し出される。そこに数本握られているのは、細いこよりのような形をした線香花火だ。
「残り、あとちょっとになっちゃったけど……一緒にやろ」
「……うん」
僕はうなずいて、ベンチから立ち上がる。それを見て、彼女は嬉しそうににっこりと笑ってくれた。
白くほっそりした手が僕の腕を取り、「こっちこっち」と花火に興じるみんなの元へ導いていく。
大半のメンバーは、まだ線香花火を楽しんでいるようだった。けれど飽きた一部が「これからどっか行く?」「酒飲んでるから、車は出せねえぞ」なんて話をしているのが、かすかに耳に届く。
「そういえば」
歩きながら、ふと思い出したように彼女が口を開いた。
「あいつも花火、好きだったな……」
どこか遠い目をして発せられたその言葉に、僕は「そうだね」と小さく首肯する。
「火を点けた花火、ぐるぐる振り回したり、打ち上げ花火を何本か同時に点火したり……小学生みたいな事ばっかりして」
「やってたやってた」
相槌を打ちながら僕は、もう二年以上前の事になってしまったその記憶を脳裏に蘇らせた。
あの頃は、『花火をやろう』と音頭を取るのはいつも彼。そして毎回馬鹿な事をして、周囲を呆れさせ、笑わせていた。
その時の彼の、子供のように屈託のない笑顔とみんなの笑い声は、今も鮮明に思い出す事ができる。
「……楽しかったよね」
同じくその時の事を思い出しているのだろう。彼女が優しく微笑みながら、しみじみとそうつぶやく。
「……うん」
静かに発せられたその言葉に、僕はこくりとうなずき返した。
「あいつ、どこかで見てるかな」
花火を楽しむ輪の中に入れてもらい、線香花火の一本をロウソクに近づけながら、ふと彼女がそんな事を言う。
おそらく隣に寄り添う僕にしか聞こえないくらい、小さく漏らされた言葉。そこには未だに、強い寂寥や悲哀が滲んでいるけれど――同時に、どこか昔を懐かしむような響きを宿してもいた。
彼女の手で、線香花火が燃え始める。しゅうしゅう、ぱちぱち――深い橙色の炎の玉を中心に、ひそやかな音を立てて咲く、細く儚い光の花。
僕は彼女からもらった線香花火の先端を、その光に近づける。ほどなくして僕の手でも、鮮やかな橙色の花がぱっと咲いた。途端に立ちのぼった火薬の匂いが、鼻の奥をつんと刺激する。
「見てるよ……絶対」
二人の手の中で競い合うように燃える、線香花火のあえかな光。朱く照らしだされた横顔を見つめながら、僕もまた、彼女にしか聞こえない声でつぶやいた。
長い間、記憶に蓋をして、笑顔を忘れて、泣いてばかりいた彼女が、彼の事を口にした。寂しさや悲しさは消えなくとも、その気持ちを抱きしめながら前を向き、歩き出そうとしている――そんな彼女の姿に、僕はひどく安堵していた。
「だから、またやろう。あいつもきっと喜ぶから」
僕の言葉に彼女が、花火を見下ろしていた顔をゆっくりと上げる。つぶらな双眸が、こちらの顔をじっと見返して来た。
橙色の淡い光を宿してきらめくその瞳が、その時少しだけ潤んだように見えたけれど――
「……うん、そうだね」
やがて彼女は嬉しそうに目を細め、こくんとうなずいてくれる。
穏やかに微笑みを交わし合う、僕達の後ろで――ざり、と砂利を踏む音が、聞こえたような気がした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。