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ロダンが老人に自分の考えを話し終えた時、どこにいたのか楠に隠れていた蝉が一斉に鳴きだした。この時、ロダンは今季節が夏なのだと思った。不思議とよくよく考えれば、今年は蝉が鳴くのを聞いていない気がした。いや、鳴いては居た筈だが、自分が余程劇の稽古に夢中だったのか、耳に入ることが無かったのかもしれない。セミの鳴き声が段々と大きくなると、今度は一斉に止まって鳴き止んだ。泣き止むと、木陰の中を風が吹いて、それが老人の白い髪を巻き上げて、ロダンの髪を撫でた。
「そうなんです。あの日も蝉が沢山鳴いていた暑い日でした」
老人は杖に寄りかかち、僅かに首を下げた。
「三室魔鵬の窯のあたりも森が深く、木々が生い茂り、そりゃもう…蝉なんてうるさくてしょうがない。いや蝉だけじゃない、夜になればあちらこちらでウシガエルが無く次第」
そこで老人は顔を上げて夫人を見た。夫人は車椅子の中で転寝をしている。
「彼女も、それはずいぶん嫌がっていました。都会の娘ですからねぇ、それが私の都合で急遽石川の山奥へと行くことになったのですから」
「それは気の毒でしたね。奥様は;どちらのかたですか?」
ロダンが首筋を流れる汗を手の甲で拭く。
「アレとは私が東京の美術学校から帰ってきて、当時ここから先に有った中之島洋画研究所に通っていた頃知り合いましてね。元々は道修町にあった有名薬屋のひとり娘なんです」
「お嬢様ですか。そりゃ、石川の山奥で蛙やら蝉やらは嫌だったでしょうね」
「ええ、勿論。それらも嫌でしたが、特に三室魔鵬の事は毛嫌いしていましたよ。三室魔鵬…いや、先生の事を醜悪で疣が沢山あるウシガエルの親分みたいだと言っていました」
ロダンが苦笑する。
「奥様のお言葉、言い当てて妙ですね。僕も図書館で三室魔鵬の写真を見たことがありますが、晩年は若い頃の美青年がどこに行ったのやらの、まさに醜悪なウシガエルの親分みたいです」
老人も苦笑する。
「妻もそりゃ、大事な先生ですから表面は静かによそよそしく振る舞っていましたが、その内面はそりゃもう見るのも嫌だという感じでした」
ロダンが汗を拭った手で、今度は首を撫でる。吸い付くような汗が肌の上に滲み出ていた。
「それが…、思わぬところとはいえ、三室魔鵬から好かれてしまった、それも好かれると言うもんじゃなく、年老いた男の執念ともいうような情熱的な恋」
深く老人が息を吐く。困惑と焦燥と、しかしその中に侮蔑のようなものがまじりあった深い溜息だった。
「先生は常々僕に言っていましたがね…『創作に措いて一番大事なのは恋、それこそがプラトンも言っている真善美の内の美とつながる恋なんだ』と…」
そこで老人はポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭いた。拭いてから離れて止まる白い車を見る。
車の中にいるサングラスの男は先程迄こちらを凝視していたが、あちらも座席を少し倒して、陽を避けるようにしている。もしかしたら夫人と同様に転寝をしているのかもしれない。
「…まぁ、ほとんどの事は今あなたがおっしゃった通りです。先生が急性くも膜下出血で手が動かなくなったのは妻が押し倒して来た先生を『三つ鏡』で激しく殴打したことが原因です。その原因も含め、いまあなたが想像の内に話した通りでほぼ間違いないですよ」
ロダンは頷く。
「僕も雑誌とか色んなもので三室魔鵬の事は知っていたのですが、しかしながら彼は余程『女』というものが大事で終生、そのかかわりが大きく色んな所で出て来るんですね」
老人も頷く。
「『三つ鏡』は先生の傑作で私も好きでした。それに当時は彫刻の仕事も無く、あいつの誘いで先生の所に言ったのです。その頃の先生は若い頃のような血気盛んさ…も消え失せ、作品に打ち込んでおられ、これ以外にも沢山の名品を世に出されていました。だから女性を同伴させても特に差しさわりは無いだろうと」
老人はあいつというところで僅かに白い車を振り返った。ロダンはそれを僅かに目で追いながら話を聞いていた。
あいつ…?
ロダンの心に疑問の炎が灯る。
「あいつは私の専属美術商です。いや、そうではあるが、実際のあいつは蛭のような男です。若い頃から私に蛭のように吸い付き、そして彫刻を売りさばいて財を成した。まるで血を吸ってブクブクと太る蛭と変わりない」
蛭のような男、
ロダンが頭を掻きむしる。
一段と疑問の炎が燃え上がる。
「しかしながら、あいつがあの時、あの現場に私と駆け込んだことで、『三つ鏡』を細工することを持ちかけ、先生を脅したことで以後、犯罪者として私達夫婦も生きなくても良かったことを思えば、…役に立ったと言えるかもしれません」
あっ、そうか!!
ロダンの頭を掻く手が止まり、思わず首を叩いた。
「成程、あの事件の時、壊れた『三つ鏡』をあなたに模造品として作らせ、三室魔鵬に脅しをかけたのは、彼でしたか!!」




