序章 森の方舟と流れる歌
何が起こっているのか、流歌にはよくわからなかった。
いつも優しかった叔父さんと叔母さんの手で車に乗せられ、あの鳥籠みたいな場所から出してもらった。でもなんで? ぼくらはどこに行くの? なんで追いかけられてるの? なんで逃げてるの? なんで? なんでかなぁ? よくわかんない。
不安になり、二人に尋ねる。
「ねぇ…」
「なんだ?」
「どこに行くの?」
「そうだね、どこがいいかな……。考えときな」
「はぁい」
男勝りで乱暴な口調の叔母は振り返って答えた。にっこりと笑った彼女の思ったより優しい声音に、流歌は安心する。椅子に身を任せて揺れるまま、流歌は楽しい想像で胸を膨らませた。行ったことのない場所はたくさんある。見たことのない場所もたくさん。
ガタガタ揺れる車。走っているのは森の中。どこか遠くから獣の鳴き声が聞こえる。
ふと気になって流歌は窓の外を見た。木を避けながら車を追いかけてくるのは狼。正確には人狼という種族である。彼らは警察機関やSPとして働く者が多い。伝承にあるとおり満月の夜になると彼らは真の力を発揮する。しかし今夜は新月から三日目。逃げ切れる可能性は十分にあった。
一人の人狼が車の前に躍り出た。叔父は舌打ちし、ハンドルを切る。叔母が魔法を使って木を動かす。前を走っていた人狼は木に跳ね飛ばされ車の前から消えた。しかし倒したのは一人で、他の人狼との距離は変わらない。流歌はシートの上で膝を抱えた。とても怖かった。さっきまでの楽しい想像なんて一瞬でなくなってしまうくらいに。
(もし捕まったら、またあのカゴに逆戻り。あの白い闇の中で、ひとり、孤独に──)
「どうすんだ? このままじゃ……」
「あぁ、わかってる」
焦りを見せる叔母に対して叔父はとても冷静に返事をした。二人が言い争ったあと、車内に重たく沈黙がのし掛かる。しばらく走っている内に人狼たちは姿を消した。狼の本能で獲物を狩る彼らはおそらく誘っているのだろう。しかしあえてその隙に車を停める。なぜ止まるのか。このままでは追いつかれてしまう。呆然と外を見た。突然、叔父の能力で流歌は外に弾き出される。慌てて車に駆け寄るが、扉は閉められ鍵までかけられてしまった。ドアを叩くが、二人はこちらを見ようとはしない。
「流歌、お前は足手纏いだ」
「っ、ぼくもたたかえるっ!」
「子どもはそんなことしなくていいっ!」
「でもっ、」
目も合わせずに言う。悲しくなって叔母を見れば先ほどよりも優しい声で叔母は諭した。
「流歌、いいか? 私たちが帰らなければ、お前は一人で生きなきゃならない」
「そんなの、やだぁ……」
「流歌……」
「いっしょがいいよぉ」
悲しくて哀しくて、涙が溢れる。二人はとても悲しそうに流歌を見た。叔母は掌で顔を覆ってしまった。叔父は先ほどの言葉が嘘のように、窓を開け、流歌の頭を優しく撫でる。その大きな手で撫でられるのが大好きだった。
「……絶対に戻る。いい子で待ってろ」
真剣な瞳に、流歌は頷いた。頷くしかなかった。
「行くぞ」
「あぁ」
叔父は窓を閉めると勢い良く車を出し、森の中へ。すぐに車は見えなくなって、不安と恐怖が胸を支配する。置いていかれた。頭にあるのはその事実だけ。約束した言葉が頭の中をぐるぐると回る。生きなければならない。その言葉だけ。他には何も考えられず呆然と立ち尽くしていると、雨が降ってきた。
ここに立っていてもしょうがないと、森の奥へ足を進めた。しばらく行くと小さな掘立小屋を見つけた。コンコンと扉をたたいて小屋へ入る。そこには小さなベッドと古ぼけた暖炉があった。中には誰もいない。誰かがいた形跡もない。長い間使われていなかったのであろうベッドから毛布を引っ張り、掌を暖炉に向けて、魔法で薪に火をつける。長い間人がいなかった様子だが、毛布も薪も湿ってはいなかった。少しの埃っぽさなんて今は気にもならない。小さく丸まってその火をぼーっと見つめる。
「これからどうしよう」
呟いた声が思ったより響いて、なんだか寂しくなる。流歌はひとり、膝を抱えて小さくなった。一人の空間は広くて寒い。だからその日は暖炉の側で眠った。
世界が大きすぎて、どこへも行けない。何日も、何日待った。何日待っても二人が戻ってくることは無かった。