14◆ 薔薇と幼なじみ
それからしばらくして、あゆみの結婚披露パーティーが旦那さんの経営するレストランで行われた。
それほど広くないが随所に装飾を凝らした店内には、身の丈ほどもある薔薇のアレンジメントが飾られている。それらは園芸好きなあゆみの母親が丹精込めて育てたもので、私も何回かお庭から切花にして頂いた事があった。あゆみがこよなく愛するその甘い芳香は、彼女がこの店のマダムである事を雄弁に物語るものでもある。
しかし何より圧巻だったのは、中央のテーブルに設えられたスクエア型の巨大なウエディングケーキだ。アイボリーホワイトのクリームにたくさんの種類のベリーが散りばめられ、金箔の入った花の形の飴細工が、葉を模したマジパンとともにデコレーションされている。そのケーキが会場に運ばれた瞬間、女性陣から悲鳴に近い感嘆の声があがった。もちろん私もその中のひとりだ。
「さすが、オーナーシェフ!」
スマホのシャッターを切りながら、思わず声が出てしまう。それを背後で聞いていた私の幼馴染が「結局、食い気かよ」とほざく。
あゆみは豪胆にも、自分の結婚パーティーに初体験の相手を招待してしまったらしい。彼女らしいと言えばそうなのだが、来る方も相当な肝の持ち主だ。「あんた何で来たの」と聞けば「暇だったから」だそうで、リクルート用としか思えないスーツに身を包んだ光太郎は、以前に紗江さんの結婚式で見た時よりはナンボか大人になってはいたものの、お洒落な店内ではかなり浮いた存在だ。
そのうち店内が暗くなり、ピンスポットでシャンパンタワーがきらきらと輝く中、今日の主役二人が登場した。
あゆみはケーキと同じアイボリーホワイトのウエディングドレス姿で、少し膨らんだお腹をカバーするような、ふんわりドレープの入ったデザインが彼女の可愛らしさをさらに際立たせている。一斉に焚かれるフラッシュに応えて、にっこりと微笑むあゆみは神々しいほどに輝いていた。
花嫁姿は女が一生のうちで最も美しい瞬間と言われているが、今まさにあゆみは、山城あゆみから秋吉あゆみとなり、女の人生の花を咲かそうとしている。そんな彼女の手に握られている、オレンジ色の薔薇の花言葉は「絆」であるらしい。嫁ぐ娘へ贈る、母親からの愛情の集約であるに違いないブーケが、私には薬指の宝石よりもまぶしく感じられた。
一通りの挨拶やら乾杯やらが終わった後は、いよいよお待ちかねのお食事タイムだ。あゆみは夫と腕を組んで会場のあちこちを回っている。聞いていた年齢よりも少し若く見える、優しそうな人で安心した。私はビュッフェで適当にオードブルを見繕い、白ワインを片手に知り合いはいないかとうろうろしていたが、テラスにだらしなく座っている光太郎を見つけて歩み寄った。
天井まで届く大きな掃き出し窓を開けると、そこは緑あふれるテラスになっていて、開放的な空間に夏の夜風が爽やかに満ちている。光太郎はスプモーニらしきものをちびちび飲りつつ、山のように盛られた肉類をつついていた。
案の定、ネクタイはすでに緩められている。ちゃんとすれば見られないルックスじゃないのに、小気味よいほどダサい。私はそのダサ男の正面に、わざと大仰な身振りで腰を下ろした。
「よう、どうかね、元カノが結婚する気分は」
「別に」
相変わらずのぶっきらぼうな物言いに、かえって心が和む。例の圭吾との一件を射手矢シスターズから聞いた後、何度か電話しようと思ったができなかった。冗談めかして話しかけたのは、今がお互いのわだかまりを解いておくチャンスだと思ったからだ。
今回の事は、誰が悪いだとかそういう問題ではなく、ただ偽りのない腹の底を晒すことが必要な気がする。まずはこちらからだ。私が圭吾と別れた経緯を、私の口から光太郎に説明せねば奴は納得しないだろう。
「聞いた、年末のこと」
そのままストレートに話を振った。光太郎は一瞬眉間にシワを寄せたが「そう」と言ってまた肉に戻ってしまった。続きがあるならどうぞという構えだ。だったらこちらも遠慮せずに、言いたいことをぶっちゃけさせて頂こう。
「私が光太郎に言ってなかったのが、悪かったね」
「なんで」
何で別れたのか、というより何で言わなかったのかという意味だろう。私は正直に、光太郎が怒ると思って怖かった事を伝え、さらには圭吾との別れに至ったシナリオを、なるべく自分の感情を交えず淡々と事実のみ語った。光太郎はそれを黙って聞いていたが、やがて頬張っていたローストビーフを飲み下すと、しばらく考えて重たげに口を開いた。
「あん時はめちゃくちゃ腹が立った、羽根田さんにも、お前にも。でも、後ですっげえ反省した、あれは俺のエゴだ」
そこまでひと息に言うと、光太郎は氷が溶けて薄まったスプモーニを一気に飲み干した。少し酔っているのかもしれない。珍しく饒舌なまま、次の句を継ぐ。
「お前が自分で選んだ男とどうなろうが、お前の勝手だし、俺には何の権利もない」
グラスの底で溶け残った氷がチリンと鳴った。
「外野がでしゃばる話じゃなかった」
鼻の奥がツンとした。この男は何でこんなに不器用で、どうしようもなく優しいのだろう。暴力に訴えたことは決して許されない行為だが、そうまでして私のために腹を立ててくれる人間がいる事が単純に嬉しかった。だからだろうか、つい不用意な言葉が口をついて出てしまったのだ。
「ははっ、バカだね私。光太郎を選んでたらよかったのにね」
コンマ一秒の空白の後、光太郎の血相が変わり、押し殺したような、しかし強い意志を含んだ声に、テーブルの向い側から戒められた。
「冗談じゃない」
「え」
「吹っ切るまでは、けっこうしんどい時期もあったんだよ。そんな簡単に、笑い話にすんな」
「……ごめん」
刹那、激しい後悔が押し寄せる。また無神経な私は光太郎を傷つけてしまった。どう謝ろうかと思っているうちに、あゆみ夫婦がテラスに挨拶に回ってきて、私たちの会話はそこで途切れた。
「千夏子」
お色直しをしたあゆみが、アンティークレースのグローブに包まれた手を、そっと私に差し出す。その仄かな暖かさに触れた途端、「おめでとう」を言おうとして私は、我慢できずに泣き出してしまった。喜びや、懐かしさや、後悔や色んな想いが溢れ出して、花嫁姿のあゆみを滲ませていく。どうやら今日は感情の振幅が激しすぎて、リミッターが弾け飛んでしまったらしい。
5年前、日に焼けた肌で私の病室に見舞いに来てくれた幼い恋人同士が、今日は大人の顔をして祝福する側とされる側になり、恋のはじまりに胸を震わせていた私は、その恋を失くして空ろな時間を持て余している。あの青く眩しい季節は、いつの間にか思い出の宝箱の中に仕舞いこまれてしまった。
私を酔わせたのは薔薇の甘い香りか、それともシャルドネのワインか。緩やかに流れるスタンダードジャズの調べに目を閉じ、この夜、私はひとつの季節を見送った。何も言わず、しかし決して立ち去ろうとはせず、我慢強くウーロン茶で酔っ払い女に付き合ってくれる幼馴染に、心の中で感謝の言葉を呟きながら。
「アリガトウ、キミガイテクレテヨカッタ」




