11◆ バトル
その話を聞いたとき、はじめは意味がわからなかった。ミキサーで引っ掻き回して作る「千夏子特製チーズケーキ」を土産に、先月生まれたばかりの紗江さんの赤ちゃんに会いに射手矢家を訪れた私は、初めて間近で見るちっちゃい天使に夢中になり、彼女たちの話に生返事を繰り返していた。
「でね、いつチカに話そうかと思ってて―」
「うん、うん」
「チカ、聞いてないでしょ」
「聞いてまちゅよー、うりうりー」
「羽根田君も絡んでる話なんだけどな」
赤ちゃんをあやしていた手が止まる。「羽根田君」というキーワードでいまだに私は別世界に飛べるのだ。ゆっくり顔を上げると紗江さんと由佳里ちゃんが、黙ってこちらを見ている。どうやら世間話と思っていた彼女たちのお喋りは、思いのほかシリアスな内容らしい。
私はいい加減に返事をした事に「ごめん」と小さく謝って、ベビーベッドの前できちんと正座をし直した。
「あのね、去年の暮れの話なんだけど」
紗江さんが順を追って話してくれた内容によると、光太郎がバイトをしていた居酒屋に、正月休みで帰省していた圭吾がやって来たのが事の発端だったらしい。
圭吾は高校のバスケ部の仲間数人と一緒だったため、高2まで部に所属していた光太郎が、先輩達に礼儀を通して彼らのテーブルに挨拶に行った。そこまでは良かったのだが、問題は光太郎が「チカは元気にしてますか」と圭吾に聞いてしまった事だ。
私は、圭吾と別れた事を光太郎はじめ射手矢家の面々には伝えていなかった。何となく言い出しにくかったのは、光太郎の反応が怖かったせいだ。
理由が理由だけに、あいつがキレるのは目に見えている。もう少し時間が経って昔話になってから言おう、そう思っていた私の計算がこういう形で裏目に出るとは。事実を知った瞬間の、光太郎のアンドロイド顔が目に浮かぶ。
「あいつから、何も聞いてないの」
「は、どういう事っすか?」
固まってしまった場の空気に何かを察知した光太郎が、圭吾を店の外に出るように促した。普通ならあり得ない。自分が働いている店で、客に「ツラ貸せ」など許されるわけがないのだ。それなのに圭吾も言われるまま外に出てしまったから、話はいよいよややこしくなる。紗江さんが肩を竦めて溜息を吐いた。
「羽根田君、別れた理由を正直に言ったんだって」
「はぁあ、それ聞いたら光太郎が」
「うん、ブチ切れて、あとは殆ど覚えてないってさ」
最初に光太郎が圭吾を殴り、私を裏切った事を嵐のように責めたてた。しばらく圭吾はその罵倒を大人しく聞いていたようだが、そのうち腹に据えかねたのだろう。「お前に何がわかる」と反撃を開始し、あとはもうグチャグチャの殴り合いになった。
心配して様子を見に来た圭吾の友人が、驚いて止めに入ったのだが、運悪くそこに通行人から通報を受けた警官が到着してしまい、二人とも所轄の警察に連行され調書を取られたというから笑い事では済まない。もちろん光太郎はそのまま居酒屋をクビになった。
「信じらんない、何で教えてくんなかったのよ」
「それって、こっちの台詞なんじゃないの!」
さっきまで黙っていた由佳里ちゃんが、大きな目を吊り上げて私を睨みつけていた。怒っている。当然だろう。彼女や紗江さんにとっても、身内のように付き合ってきた私に隠し事をされて、愉快であったはずがない。
しかも、それが原因で弟が事件を起こした。たとえそれが本人に100%非があるとしても、私が黙っていた事に起因しているのは紛れもない事実であり、彼らを傷つけ心配させた事に、私は申し訳なく思った。
「光太郎がチカの事、好きだったの知ってるでしょ!今だってきっと好きだよ、すごい大事な存在なの、わかる?」
いつだったか、あゆみに詰問され「チカは特別」と言い切った光太郎。文化祭の準備で遅くなった帰り道で、私への想いは心に封印して「別格なスタンスで付き合っていきたい」と言ってくれた事を思い出し、本当に申し訳ない気持になった。それだけ大事にされているというのに、どうして私は光太郎に正直になりきれないんだろう。
いや、大事にされているのを知っているからこそ、私は彼に向かい合うのが怖かったのだ。別れの理由を伝えれば、光太郎は本気で怒り、本気で悲しむ。そんな光太郎の姿を見たくなかった。何も言い返せず俯く私の耳に、由佳里ちゃんが決定的な追い討ちの言葉を投げつけた。
「光太郎がどんな女と付き合ってもうまくいかないの、いったい誰のせいだと思ってんのよ!」
「由佳里、やめなさい」
紗江さんが、静かだが有無を言わせない声で由佳里ちゃんを嗜めた。気の短い由佳里ちゃんに比べて小さな頃から紗江さんは大人しく、滅多に怒る事はなかったが、それだけにいざ感情を露わにする時は誰よりも怖い。紗江さんは私の方を大きな瞳でまっすぐ見つめると、抑えた声で話し始めた。
「私たちも、すぐに知らせようと思ったの。でもね、その頃のチカ、まともな状態じゃなかったっていうから」
母から私の衰弱ぶりを聞いての判断だったそうだ。彼氏と別れて勝手に落ち込んで、そのせいで周りの人間に気を使わせて。それなのに何で教えなかったのか、なんて。自分の弱さや考えのなさが恥ずかしく、そして同時にあり難かった。もしも数ヶ月前にその事を知らされていたら、私は間違いなく精神をやられていただろう。
「さっきは由佳里が余計なことを言っちゃったけど、光太郎の事は、チカが気にすることじゃないからね。それはあいつ本人の問題だから」
「うん」
「それより、羽根田君との事はちゃんと終わってるの?」
「どういうこと?」
「光太郎に何か言われて喧嘩になっちゃうって事は、彼まだチカに気持が残ってるような気がするんだけど」
心の奥がズキッと痛んだ。ここしばらく、誰からも圭吾の様子は聞かないので知る由もないが、双方納得の上という別れ方ではなかっただけに、いまだに気にかかっているのは否定できない。しかしそれは圭吾の話を聞こうともせず、ただ頑なに見限った狭量な自分を省みているからであって、未練や復縁の意志があるわけではない。
「あっちは知らないけど、私は完全に吹っ切れたから」
「そう、それならいいんだけど」




