09 ◆ ふさがらない傷
その夏から秋にかけては、私にとって地獄のような日々だった。すでに人相が変わるほど痩せていた上に、さらなる食欲不振と嘔吐で生理も戻らず、ついには母に心療内科に連れて行かれる始末。
その悲惨な状況を救ってくれたのが、アメリカから帰国したチヨである。彼女は帰国後、私の状況を知るなり何日もうちに泊まり込み、とことん話し相手になってくれた。そのお陰でようやくまともに食事ができるようになったのだが、そうなると体力の回復とともに思考も回復するもので、10月の声を聞く頃には、遅れていた就職活動にも何とか復帰する事が出来た。
とは言え、いまだ内面では塞がらない傷が生々しい痛みを訴えているのも事実だ。これだけは時間をかけて治して行くしかないだろう。取りあえず表面的には普段の生活を取り戻した、それだけでも良しとせねばなるまい。
あの後、圭吾は2回私にコンタクトを取ってきた。
一回目は別れた翌週。マンションの入口でウロウロしている所を出勤前の母が見つけた。母には具体的な事は言っていなかったが、私の憔悴した様子から何があったかを察知したのだろう、今の私は心も体も限界状態にあるため、そっとしておいてくれと頼んだのだそうだ。本人の母親にそう言われてしまえば、それ以上どうしようもない。
「話がしたい、と伝えてください」
圭吾はそれだけ言い残して帰っていった。2回目はその一ヵ月後、今度は思い切ってエントランスからインターフォンを鳴らしたようだが、驚いた事に弟の崇史が追い返してしまった。表面では無関係な顔をしながらも、やつれ切った姉を心配してくれていたようだ。正直まだその頃は精神状態が不安定だったので、会わなくて正解だったと思う。
それ以来、圭吾からは何の連絡もない。もしかすると何度も電話したかもしれないが、別れた直後に携帯番号を変えてしまったので、今となってはそれも不明だ。
しかし会いたかったのは圭吾だけではない。私だって寂しさに耐え切れず何度も電話しようとしたし、一度は本気で東京に行こうと荷物まで用意した。だけど、その度に頭の中に圭吾と溝端さんが抱き合う姿が思い浮かび、嫉妬と屈辱で気が狂いそうになるのだ。
圭吾への想いを断ち切る事もできず、かと言って全てを水に流せる度量もない。いったい私が何をして、こんなに傷つけられなければならないのか。ひたすら私は、自分を不幸の底に突き落とした溝端さんと圭吾を恨み続けた。
そんな鬱々とした私の元へ、またその傷口をいじくる人物が現れた。彼の名は小林君という。圭吾の親友で、小学校から高校まで一緒にバスケをしていた仲間だ。私も何度か一緒に遊んだ事がある。
「言っとくけど、羽根田から頼まれて来たんじゃないから」
「そう」
今日、授業が終わって専門学校の玄関ホールに出たら、彼が私を待っていた。その姿を見た瞬間、体が硬直してしまった。圭吾の事で話しに来たのは間違いないだろうが、いったい今ごろどうして。頭の中をあれこれと至らぬ想像が駆け巡る。
思ったとおりに小林君は「ちょっと話あるんだけど」と、近くのカフェに私を促した。断ろうかとも思ったのだが、先延ばしにして再び訪ねてこられるのも困る。どうせ落ち込みついでだ。私は力なく頷くと、まるで連行されるがごとく小林君の後をついてカフェへと向かった。
小林君は「俺の勝手なお節介なんだけど」と、断った上で
「ぶっちゃけ、もうだめなわけ」
と、話を切り出した。彼がそう言っているという事は、圭吾にはまだやり直す意志があるという事か。あれからすでに3ヶ月。しかも彼には新しい恋人がいるはずだ。それを言うと小林君は、
「そうじゃなかったら、やり直せたりする?」
「ごめん、意味わかんないんだけど」
「だからさ、あいつと例の女が付き合ってないとしたら」
「……無理」
「どうして。羽根田、めちゃくちゃ反省してんぞ」
小林君の言葉から、現在の圭吾の様子が垣間見えた。結局、あれから圭吾は溝端さんと交際には至らず、傍目にもわかるほど落ち込んで過ごしているらしい。そういう圭吾の姿を想像すると、手を差し伸べたい衝動に駆られたが、やはりそれより傷つけられた痛みの方が大きい。私はもう一度「無理」と言いながら首を横に振った。
「もう元には戻れないよ、もし万が一やり直したとしても、圭吾のことずっと疑い続けると思うんだ。相手を信用できない付き合いじゃ、お互い辛いばっかりだよ」
すると、小林君はしばらく私の言葉を噛みしめる様に黙って腕組みをし、
「ま、仕方がないよな、今度の事はあいつが100%悪いんだし。地元で待ってる彼女を裏切るなんて、俺も最低だと思う」
「……」
「千夏子ちゃんがそういう考えなら、きっぱり片つけて、お互いリセットした方がいいかもな」
そう言いきられてしまうと、かえって後ろ髪を引かれる思いがする。最低っていうのは、ちょっと言い過ぎじゃないかなんて、圭吾を弁護しそうになる自分に気付き、また哀しくなった。
私はまだ圭吾の事が好きなのだ。あんなに傷ついて辛い思いをしたのに、彼を手放したことを心のどこかで後悔している。それなのに私のキャパは小さすぎて、彼がした事をどうやっても許せない。もう何度この矛盾に突き当たっては振り出しに戻ったか知れない。しかし最後には失う後悔より、自分の身を守る方を優先してしまうのだ。
私は根性がない人間なのだろうか。高須さんなんか、何度もこの痛みをやり過ごしたというのに。それとも私とは痛みの種類が違うのだろうか。答えはやはり見えない。
「圭吾によろしくね」
「そんなの言ってどうすんの、戻る気ないんでしょ」
「……だね」
手を振って小林君を見送った途端、久しぶりに人前で涙が出た。圭吾と別れた直後は、電車やバスの中でも泣き出して周囲をびっくりさせた事もあったが、最近は心の中だけで処理できていたのに。
たぶん小林君は、圭吾の様子を見かねて私に会いに来たのだ。やり直させるためではなく、圭吾に未練を吹っ切らせるために。私は彼の目にどう映っただろうか。少なくとも言葉の上では、内面の激しい揺れは気取られなかったはずだ。
そして、小林君から私に全く戻る気がないと伝えられた圭吾は、それをどう受け止めるのだろう。だらりと傷眉毛を下げた哀しげな顔が目に浮かぶ。折りしも来週は圭吾の21歳の誕生日である事を思い出し、再び私はみっともなく泣いた。




