08◆ 最後のキス
圭吾が息をのむのがわかった。しばらくそのまま圭吾は私を見つめていたが、やがて咽喉の奥からくぐもった声を搾り出した。
「嫌、だ」
いきなり圭吾が私の手を掴んで自分の方へ引き寄せる。いつもならそういう彼の強引な態度は嫌いではなかったのだが、今日ばかりはそれが傲慢に思えてムカついた。理屈で許してもらえないならスキンシップで懐柔しようなんて、例え無意識にしても人をバカにしている。しかし圭吾は抵抗する私の腕をさらに引っ張った。
「嫌だ、俺は千夏子と別れる気なんかない!そんなかんたんに別れるとか言うなよ!」
「触らないでよ!」
抱き寄せようとした圭吾の胸板を私は思い切り突き飛ばした。ベンチの脚部がずれて、ガシャンと金属の音がする。呆気に取られた顔でこちらを見ている圭吾に、私は今まで出した事がないような大声を張り上げていた。
「私に触らないで!他の女の子を触った手で触らないで!」
「千夏子」
「かんたんだなんて冗談じゃないよ、私がどんなに悩んだか、圭吾は全然わかってない!」
肩で大きく息をしながら、私は圭吾を睨みつけた。私の受けたショックと、その後に続いた耐えがたいほどのダメージを、まるで過剰に受け止め過ぎているように言われた事に、腹の底から怒りが湧き出る。
私は再び圭吾から少し離れた場所に腰を下ろしたが、もう彼は私を引きよせようとはしなかった。私はしばらく興奮を落ち着かせると、どうにか平静を装い話の先を促した。
「本当のこと、話して」
「……ごめん」
「認めるんだね」
こくりと圭吾が頷くのを見て、心臓をナイフで突かれるような思いがした。わかっていたはずなのに心が痛い。圭吾が事の成り行きを語るのが、まるでテレビの中の出来事のように聞こえる。でもこれは残酷な現実である。
圭吾が語ったところによると、バスケの仲間が例のごとく圭吾の部屋で飲み会をして、酒の飲めない圭吾はウーロン茶で参加していたはずなのだが、誰かがわずかにグラスにアルコールを入れたようで、ひどい頭痛と吐き気に見舞われた。それを介抱したのが溝端さんらしい。おそらく、例のシャワーの音の電話の日だ。
「言い訳になるけど、その時のことはあんまり記憶がない。すごく気分が悪くて、風呂に入って、ベッドにもぐりこんで寝たはずなんだけど……」
気がついたら、溝端さんが裸で抱きついてきたという。そして自分も全裸だった。
いつもの癖でシャワーからベッドに直行したのだろう。酒で朦朧として気づかなかっただろうが、そのとき溝端さんは圭吾のスマホから私に宣戦布告をしていたのだ。そして、チャンス到来とばかり獲物に食いついた。
何度口説かれても落ちなかった圭吾だが、酒で理性がゆるんでいたせいもあり、とうとう捨て身の色仕掛けに制御が外れた。それ以来、溝端さんは週に何度も来るようになったそうだ。それはそうだろう、彼女は口説き落としたと思っているのだから。
言葉を失う私に、圭吾は意味のない弁解を付け加えようとした。
「でも、本気じゃない」
「遊びなら許してもらえると思ってんの」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。圭吾がもう一度「ごめん」と俯く。
「何度も断ったのに諦めてくれなくて、彼女がいてもいいからって――」
「相手のせいにしないでよ!」
圭吾がハッとした表情でこちらを向いた。それほど私の声は辛辣だったのだろう。実際、私は頭から火が出そうなほど腹が立っていた。
「何度も言ったよね、隙があるって。圭吾は女にゆるいんだよ、私、何度も何度も言ったよ。でも、わかってくれなかったでしょ。その結果がこれだよ」
反論の余地はない。圭吾はとうとう頭を抱え込んでしまった。
「……俺、どうしたらいい」
うんざりだった。やはり圭吾は何も変わってはいない。私と付き合い始めて浮気性が治ったなんて嘘だ。私がずっとそばにいて付け入る隙がなかったからで、私と離れて隙が出来れば、また元の「来る者拒まず、去るもの追わず」の本質が顔を出して来るのだ。私は高校時代、煮え切らない彼に投げつけた言葉を、もう一度この期に及んで繰り返す事になった。
「また私に聞くの」
言葉の意味がわからなかったのだろう。圭吾が眉間にしわをよせた。
「高須さんと別れるとき、私言わなかったっけ。相手に答えをゆだねるなんて、卑怯だって言ったはずだけど」
圭吾の眉毛がだらりと下がる。この顔が好きだったなあなんて、今思ってしまったら辛くなるだけなのに。それでも刻々と迫るタイムリミットを感じて、私は彼の姿の全てを脳裏に刻みつけようとしていた。
「謝ったら、また元に戻れるって思ってた?お生憎様だけど、私はあの人と勝負する気なんてないから」
「なんだよ、勝負って」
そこでやっと私は電話でシャワーの音を聞かされた事や、部屋に巧みに女性の気配が配されていた事などを圭吾に説明した。彼女のやった事は、好きをこじらせた暴走なのだろうが、それでも同情の余地など全くない。圭吾はそのからくりを聞いて、いかに自分が甘かったかをようやく理解したようだ。全身から後悔の念が滲み出ていたが、今となってはもう遅い。
「いっそ風俗とか、誰とでもやっちゃう女の方がマシだった。でも、溝端さんは最初っから本気で圭吾を好きだったよね。そんな人を受け入れたんだから、もう付き合えない」
「待って、千夏子、ほんとに別れる気かよ。俺たち、今まで長いことうまくやってきただろ」
「もう、無理だよ」
「溝端とはもう会わない、千夏子以外の誰も好きにならない」
「そんな問題じゃないの、わかってるでしょ」
「……千夏子は俺のこと、もう好きじゃないの」
途中から潤み始めた声が、とうとう泣き声に変わった。圭吾の吊りあがった目尻から大粒の涙がぼろぼろ零れるのを見て、私もあっけなくリミッターが振り切れた。もう精神的に限界だ。情に流されて苦しみの泥沼に引きずり込まれる前に、彼の前から消えなければ。
「好きだよ」
彼を本当に好きだった。たぶん、これからもずっと。もう二度とこんな恋はできないんじゃないかと思うほど、好きだ。でも、一生くすぶり続ける恨みをなだめながら、この先一緒にいることはできない。その真意が彼に理解されるかどうかはわからないが、何日も考えて精一杯選んだ答えは、潔く二人の道を分かつ事だった。
「圭吾が好きだから耐えられないんだよ、これ以上。本当は今までも圭吾が他の女の子に甘いのが辛かった。でも、私のことは裏切らないって信じてた」
涙があごを伝って、ワンピースの衿もとに染み込むのを感じた。せっかくメイクしたのに、きっとひどい顔になっているだろう。最後くらいもっときれいな顔で別れたかったと思いながら、私は声を絞り出した。
「でも、もうだめ。このまま付き合っても、ずっと圭吾のこと疑い続ける。そんな自分が嫌なの、もうこんなしんどい気持ちから解放されたい」
やっとの思いでそれだけ言うと、私は呆然としている圭吾の濡れた頬に、ありったけの気持ちをこめて、最後のキスをした。
「さよなら、圭吾」
踵を返す私の背後から「千夏子」と圭吾が私の名を呼ぶ声が聞こえたが、私はそのまま自宅に向かって走り続けた。圭吾は追ってこない。きっと今ごろは赤いベンチに座ったままで、自分がしでかした事の重さを反芻しているに違いない。
私は自宅に帰ってベッドに倒れこみ、弟に聞こえるのも構わずに大声で夜通し泣き続けた。
まるで身体の一部が毟り取られたように苦しくて、何度も公園に引き返して圭吾に縋ろうかと思ったが、そうすれば一瞬の安堵と引きかえに、またあの気が狂うような苦しみが蘇るのは目に見えている。何日もの逡巡によって導き出された答を、今は信じるしかないのだ。
シーツに顔を埋めてひたすら泣いた私は、やがて訪れた朝陽の眩しさと、いつの間にか帰って来ていた母の作る味噌汁の匂いで現実に引き戻された。
私が失恋しようが悲観にくれようが、地球は回り続ける。そんな普通な事が私に勇気を与えてくれた。落ち込んでいる暇はない。カラ元気でも痩せ我慢でも総動員して、このヘビーな気分を一日でも早く蹴散らしてしまいたいと思った。じゃないと、別れた意味がない。
こうして意外なほどあっけなく、私たちの3年半にわたる恋は終わりを迎えた。しばらくは傷口の痛みに悶え苦しむ日々が続くだろう。それでも私は一人になりたかった。羽根田圭吾のいない世界で、ただの佐藤千夏子として歩き出したい。
間もなく迎える二十歳を意気揚揚と迎えるためにも、手放した恋を後悔しないためにも、一回りも二回りもイイ女になろう。私は自分自身にエイッと力強く喝を入れた。これからが青春だ、と無理やり心に言い聞かせながら。




