07◆ 公園の灯りの下で
私がようやく圭吾と話をしたのは、東京に行ってから21日目。間もなく8月になろうかという、蒸し暑い夜だった。彼はあの後、自宅への電話はもちろん私の友人やバイト先に至るまで、あらゆるルートから私に連絡を取ろうとしたようだが、私は徹底的に居留守を使ってそれを回避した。
そして、ようやくもう何度考えても同じ答しか出ないと私が結論を固めた頃、業を煮やした圭吾が家まで訪ねてきたのだ。
「姉ちゃん、羽根田さんが来てる」
たまたまその日は母が家にいない日で、インターフォンに弟が応対する声がリビングにまで聞こえてきた。彼も私たちに何かあった事は薄々感づいているらしく、神妙な面持ちをしている。私は精一杯の明るい風を装って、弟に外出する旨を伝えた。
「わかった、ちょっと着替えるから待っててもらって」
「姉ちゃん大丈夫か、何かあったら電話しろよな」
「大丈夫だって、ただ話するだけなんだから」
私はそう言って、自室に入って身支度を整えた。いつもの私なら普段着にサンダル履きで出かけるところだが、今日はちゃんとお化粧をして服もかわいいものを身につけたかった。
冷静になれ、冷静になれと心の中で呪文のように唱えながら、ウォータープルーフのマスカラを丁寧に塗り、顔色が悪いのをカバーするためにオレンジ系の頬紅を丸くふんわり入れる。服は最近いちばん気に入っているカーキベージュのシャツワンピに決めた。
時間にして約15分。ようやく支度の出来た私は、深呼吸して玄関のドアを開けた。そこには思いつめたような表情の圭吾が立っていて、マンションの廊下の蛍光灯に照らされた顔色が、いつもの彼とは思えないほど青白く感じられた。
「千夏子」
懐かしい掠れ声が私の名を呼ぶ。それだけで私は泣き崩れてしまいそうだったが、なんとか踏ん張って笑顔を作った。
「ここじゃ何だからさ、近くの公園かどこかで話しよ?」
圭吾は私の姿を見て何か言いたそうだったが、私がさっさと歩き出すのを見ると黙って後ろからついてきた。私たちはそのまま無言でエレベーターに乗り、マンションから歩いて5分くらいの公園に行くことにした。
どこか店に入ろうかとも思ったが、人に聞かれたくない話になりそうだし、誰かがいる所では腹を割って話ができるとは思えない。歩きながら圭吾が私の方を見て、ひとこと「痩せたな」と呟いた。
「ちょっとだけね、足が細くなって嬉しいよ」
私はへへ、と笑ってそう答えた。しかし実際には、ちょっとなんてものじゃない。この間、一気に3キロ痩せたのに加えて、東京から帰ってきてさらに5キロも痩せてしまった。原因はわかっている。思い悩むせいで食欲がないし、無理して食べると吐いてしまうからだ。私はどうやら精神的に追い詰められると消化器官に影響が出る体質らしい。
おまけに激痩せのせいで生理までぴったり止まってしまい、看護士である母親が見かねて、栄養失調の治療に使う高カロリーパウチを持って帰ってきてくれた。それがなければきっと今ごろは倒れていただろう。病名は恋煩いなんてシャレにもならない。それでも、そのくらい私は大きなダメージを受けていたのだ。
「それって、俺のせい?」
またひとこと圭吾が呟く。今度は私も笑顔を返せなかった。こうして並んで歩いていると、ついこの間までの私たちと何ら変わらないように思えるのに、気持ちの距離はとても遠い。
ひょろりと細長い圭吾の影が月明かりに揺れる。ちょっと固くてもさもさした髪の毛や、傷のある眉毛、アンバランスな吊り目、笑うと覗く片八重歯。夜だというのに蒸し暑い空気のせいか、初めて会った雨の日の体育館でゼッケン11番が飛び跳ねる姿を思い出し、私はまた歯を喰いしばらなければいけなかった。
やがて公園の入り口が見えてきた。手のひらにびっしょりと汗をかいているのがわかる。怖い。圭吾の口から聞きたくない事実を知らされるのが。そして、それに対して私が悩んだ末に決断した答えを出すのが怖くてならない。
しかし、もうどうやっても後戻りはできない。圭吾はともかく、私の中では現実はとっくに全貌を曝け出している。それでもまだ最後の1%の部分で、どうか自分の勘違いであって欲しいと願っている馬鹿な私がいた。
私たちは児童公園の入り口を抜け、赤いペンキで塗られた鉄製のベンチに腰掛けた。夕方までは雨が降っていたが、気温が高いのでなんとか座面は乾いている。自動販売機を指差して「何か飲む?」と聞くと、圭吾はゆるゆると首を横に振って、待ちかねたように切り込んできた。
「なんで電話に出てくれなかったの」
私が突然東京に現れ、その後ぷっつりと連絡を絶ってしまった事に対して、彼なりにあらゆる可能性を考えただろう。その中には今から話す事も含まれているかもしれない。私も遠回りする気はさらさらなかったので、勇気を出して単刀直入に本題に入った。
「圭吾、溝端さんと付き合ってるよね」
「なっ」
なんで、と言いたかったのだろうが、私がその先を塞いだ。
「部屋に行った時ね、彼女いっぱい忘れ物してた。圭吾に見つからなくて、私に見つかる場所に、いっぱい」
圭吾は目を見開き、黙り込んでしまった。思い切りテンパっているのがわかる。うまい言い訳を探しているのだろうが、そうそう出てくるはずもない。圭吾が髪をかきあげ、私が贈ったブレスレットが街灯の光できらりと光った。それを見てまた胸が痛くなったが、ここで挫けては話が進まない。私は毅然とした表情で圭吾の目を見据えた。
「本当の事が聞きたい」
圭吾が息を呑んで、深く吐き出す。無言のニュアンスが肯定を含んでいる。
「……家には何度か来た、黙っててごめん」
「圭吾、それじゃ答えになってないよ。それはバスケの仲間としてじゃなく、って意味なのかな」
「千夏子が想像してるような付き合いじゃない」
「だったら聞くけど」
圭吾は曖昧に話を流そうとしているようだが、そんな事で済むわけがない。私がどこまで事実を把握しているか、きっと内心ではハラハラしている事だろう。私もあまり話が長くなると冷静でいられる自信がなかったので、辛かったが淡々とありのままの事実を彼の前に並べる事にした。
「コンタクトの洗浄液とか、生理用品が置いてあった。それ、彼女が圭吾の部屋に泊まったって事だよね」
圭吾が表情を固くする。唾を飲み込んで、咽喉仏が上下するのを見ながら、私はさらにたたみ掛けた。
「あの青いグラスに口紅がついてた。彼女、あれ使ったんだね」
いよいよ圭吾が黙り込んだ。顔色が灰色がかって見えるのは気のせいではないはずだ。私も心臓が張り裂けそうなほど鼓動が激しい。言葉が震えるのは気付いていたが、私は拳を固く握り締めて決断の言葉を口にした。
「別れよう、圭吾」




