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おくぶたえ  作者: 水上栞
第五章
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05◆ 向かい合うべき現実



 遠距離恋愛をしていて、初めて「良かった」と思えたこと。それは考える時間がたっぷりと与えられる事だ。あれ以来また圭吾とは会えない日々が続いていたが、そのお陰で彼に余計な心配をかけずに済んだ。


 あまりに考えに耽るあまり、私は半月も経つ頃には3キロ体重が落ち、目の下には立派なクマをこしらえていた。何かあったのかと心配する母親には、卒業に向けて課題が多いのだと誤魔化したが、果たして騙しおおせたかどうか。


 それでも誰にも頼りたくなかった。もしチヨやあゆみが側にいても、決して私は相談をしなかっただろう。今度の事は私と圭吾で決断しなければいけない問題だ。そしてその切欠を作るのは、おそらく私の役目である。






 何十回、何百回の逡巡の挙句、私がようやく覚悟を決めたのは、7月の初旬。あれからほぼ1ヶ月経った頃だった。


 その日は数日前から上空に居座っていた梅雨前線が気まぐれを起こし、朝から爽やかな陽射しが降り注いでいた。私はその日、学校の都合で午前中だけの授業だったので、帰りに友人たちと買物に行こうと約束していたのだが、突然何かに背中を押されるように行動に出てしまった。



「ごめん、私ちょっと今日キャンセルしていい?」


「えー、なんでよ、夏物買うんじゃなかったの」


「行くとこできちゃって、ほんとごめん」



 私はそのままランチもせずに駅へ向かうと、ATMでお金を下ろし東京までの切符を買った。


 バイトを減らしているのでもう貯金も残り僅かだ。泊まりの用意もせず、家にも連絡せず、普段着のTシャツとロールアップジーンズで新幹線に揺られているのが、何だか夢の中の出来事のように思えてくる。きっと夜にはまた同じ線路を逆向きに戻っているだろう。


 私はもう何が起こるのか、半ば見当がついていた。もし私の予想した答えが見つからない場合は、圭吾の口からそれを聞かされるまでだ。最悪のシナリオではあるが、結果に変わりはない。あの電話があった時にはあれほど取り乱したくせに、どうして今こんなに冷静でいられるのか。自分でも不思議だなと思いながら、私はしばし車窓の風景に現実を忘れた。






 圭吾のマンションは最後に来た時と何も変わらない佇まいで私を迎えてくれた。そう言えばあの時も抜き打ちだったが、今回は全く目的が違う。今日の私は彼の留守に家捜しをするという、最低の女である。そうでもしなければ、決心ができないほど弱虫な自分が情けない。



 しかし、積み重ねた3年半の月日を一刀両断に出来るほど、私はまだ人間が練れてはいなかった。鍵をあけると、むっとした空気が押し出されてくる。この時間に圭吾がいないのは知っていたが、用心のため部屋の中の気配を窺ってみた。いくら覚悟を決めてきたとはいえ、誰かと鉢合わせなど勘弁だ。玄関で部屋が静まり返っているのを確認し、私は意を決して部屋にあがった。



 ――今日うち来た?



 圭吾からのメッセージが入ったのは、その日の深夜。恐らくバイトに行く前に部屋に帰り、片付いているのに気がついたのだろう。その言葉から判断するに、まだ私以外に彼の留守中に出入りする人間はいないようだ。



 しかしもう、そんな事はどうでも良かった。圭吾の部屋には、私の予想を上回る痕跡が残されていた。まずはキッチンにある食器の配列がいつもと全く違う事に頭がクラクラし、洗面台のキャビネットから開封済みのコンタクト洗浄液が出てきた時には、指の先が冷たくなるのを感じた。圭吾も私も視力はいい。誰か視力の悪い人間が泊まったのでなければ、そんな物が家にあるはずがないのだ。


 しかし何より衝撃だったのは、青いグラスだ。ベッド横のたんすの上に飾ってあるので、ほこりがたまっているだろうと布巾で拭こうとして、縁にピンクベージュのグロスがついているのを発見し、ああもうお終いだと思った。



 私は思わず窓を開けた。昨夜ではないにしろ、数日中に彼らがこの部屋で過ごした。おそらく男女の行為もあっただろう。その空気をこれ以上吸い込みたくなかったのだ。


 多分、大雑把な圭吾は食器や洗面台の中身を気にする事はないだろう。それを承知の誰かによって、恐らくは故意に仕組まれた物的証拠の中から、私はネームタグのついた生理用品のポーチを発見し、彼女の名前が「リエ」であることを知った。




 何時間も部屋にいたような気がしたが、実際には1時間もいなかったらしい。帰りの新幹線の時刻を見て、ようやく時間の感覚が戻ってきた。長い髪が散らばったシーツを見たときには、走って部屋から逃げ出したい衝動に駆られたが、それでも私は部屋を片付け、きちんと鍵をかけて圭吾の部屋を後にした。


 こういう時、怒りにまかせて彼氏に詰め寄る事のできる人間なら、私はきっともう少し楽に世渡りができるだろう。しかし今の私の中には怒りではなく、大切なものを失った寂しさだけが渦巻いている。部屋の掃除をしたのもそのせいだ。圭吾との思い出がいっぱい詰まっているあの部屋にも、この先二度と訪れる事はないだろう。ならばせめて私の手で綺麗にして出て行きたかった。



 それに、最終的な目的を遂行するためには、圭吾に私が来た事を知らせる必要がある。ドアを閉めたとき、鍵をポストに入れておこうかとも思ったが、それは呆けた頭が冷静になってからでも遅くない。私はその時、自分が正気かどうかさえわからない状態だったのだ。




 ――ごめん、しばらく電話に出られないけど、そのうち連絡する



 私はそれだけ送信すると、圭吾のナンバーを着信拒否に設定した。圭吾にしてみれば、思い当たるところがあるだけに、焦って会おうとするだろう。しかし、ありったけの力を振り絞って事実に対面した今の私には、彼に向かい合うエネルギーが残されていない。


 どっちみち同じ結論に行き着く事になったとしても、しばらくは納得のいくまで自問自答を繰り返す時間が必要だ。自宅に電話がかかってきても、取り次がないで欲しいと母に頼むと、無言で抱きしめられて涙が出た。やはり母は何もかもわかっていたのだ。いつかこの事が昔話になるまで、彼女は私と同じ時間、いやもしかしたらもっと長い間、娘のために心を痛めることになる。


「ごめんね」と言ったら、「バカ娘」と返された。それだけでも私の心は、ずいぶん軽くなった。そんな母のためにも、自分のためにも、後悔しない結論を出さねばならない。私はさらに自問自答を繰り返した。



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