03◆ 無言の挑戦状
悲劇の第2弾は、知らないうちに背後に迫っていたらしい。オセロで言えば気付かぬうちにコーナーを取られていたという感じだろうか。私はすっかり油断していた。
先日のホワイトデーでの東京デートがあまりに楽しく、浮かれていたせいかもしれない。それほど圭吾は優しく、理想的な恋人としてふるまってくれた。最近は会えないせいで不安になる事も多かったが、圭吾の思いやりに触れて改めて彼が好きなことを再認識させられた。
圭吾が私に内緒で予約していた東京湾クルーズの船のデッキで、きらきらと光るイルミネーションを見ながら、潮風にまぎれて耳に届いた掠れ声。照れくさそうな響きの中に、他人には決して見せない彼の誠実な心が一杯詰まっていた。
「4年目もよろしくな」
となりにある圭吾の肩にもたれて無言で頷くと、おでこに小さなキスが降ってきた。イルミネーションが滲んで見えるのは、背伸びしてオーダーしたシャンパンのせいだけではないはずだ。
どんなに揺さぶられても、私たちは大丈夫。気持さえしっかり繋がれていれば、少しくらい悩んだりする事はあっても流されてしまう事はない。その時は心の底からそう信じられたのに。その確信に亀裂が入ったのは、5月の末。圭吾から入った一本の電話がきっかけだった。
あれ以来圭吾とは、彼が親戚の法事でこっちに帰ってきた時に慌しくデートしたきりで、またチャットとメッセージの日々が続いていた。なので、その時もチャットのお誘いか何かだろうと思い、呑気な調子で電話を取ったのだ。
「もしもーし」
しかし電話からは一向に圭吾の声がしない。かわりに何の音だかわからない雑音が聞こえてくるばかりだ。「圭吾?」と呼んでみたが、それでもやはり返事がない。電波の調子が悪いのかなと耳をすますと、雑音がますます強くなった。ザーザーと、まるで激しい雨の音のようにも聞こえる。
私はもう一度彼の名前を読んでみたが、返事がないので終了ボタンを押した。しばらくして電波が良くなった頃にかけ直してみよう。そう思って私は鼻歌を歌いながら浴室へと向かった。後で考えると私が楽しい気分でいられたのは、この時がたぶん最後であったように思う。
脱衣所で服を脱ぎ、浴室に入った私はシャワーのハンドルをひねった。40度に設定したお湯が、勢いよくノズルから噴き出してくる。シャンプーをするために髪を濡らそうと頭にシャワーのお湯を当てた。その時だ、目の前で何かがフラッシュするようにひとつの答が導き出されたのは。
手から滑り落ちたシャワーノズルが水圧で床をくるくると回る。それを呆然と眺めながら、私はザーザーという水音を耳に刻みつけていた。
あれがシャワーの音だとしたら、それが圭吾の携帯から私にかかってきたのは何故だろう。服を脱ぐとき通話ボタンを押したのに気付かず、そのままシャワーを浴びてしまったのだろうか。それとも、圭吾が何かいたずら心を出したのか。もしかすると本当に通話状態が悪くて雑音が入ったのかもしれない。
俯いてひたすら考えを巡らせる私の髪から、中途半端に濡らした髪の雫がぽたぽたと垂れる。私は大きく首を振ってシャワーを止めた。嘘だ。さっき頭に浮かんだのは、そんな都合のいい話なんかじゃない。圭吾がシャワーを使っている事を、その場に一緒にいる誰かが私に知らせたかったのだ。
「ぐっ…うえっ…」
突然、吐き気が込み上げてきて、私は浴室の床に胃の中のものを吐き出した。まだ事の真偽さえ確かめていないというのに、想像するだけでも神経が耐え切れなかったらしい。今まで誤魔化しつづけてきた不安の塊が、身体の奥から湧き出てくるようで、私は震えながら吐き続けた。
こうして私が浴室で嘔吐しているこの瞬間にも、彼らがキスしたり抱き合っているかもしれないと思うと、ショックでどうにかなりそうだ。溝端さんのバンビのような顔が思い浮かび、私はさらに嘔吐した。
その夜はまんじりともせず、圭吾から再び電話があるのを待ち続けた。何でもいい、私の想像を蹴散らす言葉を聞きたかった。かと言って、こちらから確かめる勇気など持ち合わせてはいない。最悪の場合、誰かの気配を電話の向うから感じ取ってしまう可能性だってあるのだ。そうなったら私は平然と話をする自信がなかった。
しかし圭吾からはとうとう連絡がなく、翌朝、私は重たい頭と胃を抱えて学校へ出かけた。それでも授業を受けているうちに多少は気がまぎれ、夕方頃には「やはりちゃんと確かめよう」と思えるくらいには気持が回復した。それなのに、その晩圭吾用の着信音が鳴った瞬間、私は怯えて竦みあがってしまった。
「今話せる?」
本来なら願ってもないチャンスである。さらっと聞いてスッキリしてしまえばいいのだ。だいたいあれがシャワーの音だなんて、単なる私の想像に過ぎない。ドラマの修羅場じゃあるまいし、そうでない可能性の方がうんと勝っているはずだ。
しかし私は逃げを選んだ。正体不明の「勘」のようなものが、彼と向かい合うには少しだけ時間を置けと私に訴えている。私は差し障りのない言い訳を見繕った。
「ごめん、昨日徹夜したからもう寝てた」
嘘ではない、実際に昨夜は一睡もしていない。圭吾はそれを学校の課題か何かが理由と思ったようで、あっさり引き下がってくれた。
「了解。起こしてごめん、ゆっくり寝ろ」
その声からは、いつもと変わらない圭吾の優しさが伝わってくる。なのに、何故私はこんなに彼を疑っているのだろう。離れている事への不安だって圭吾はちゃんと拭ってくれるし、一緒にいても思いやりある態度で接してくれる。
男は浮気に関しては平気で嘘を吐くと言うけれど、圭吾は必ず態度に出る。実際、高須さんの時も毎回バレては痴話喧嘩に発展したのだ。こういう時、離れているのがもどかしい。顔を見て触れ合えば、それだけで彼の変化を見抜けるはずなのに。
数日後、再び圭吾から電話があった時には、かなりショックからは回復していた。開き直った、という方が正しいかもしれない。圭吾が何も言わないのだから、きっと何もなかったのだ。私は彼を信じることに決めた。
そうすると心も軽くなるもので、翌週圭吾が帰って来たらどこに遊びに行こうかという計画で私たちは大いに盛り上がった。もちろん全面的にスッキリという訳にはいかず、棘がささったままではいたが、瑣末な事で今の平穏な関係を壊すのは避けたい。後で振り返って「取り越し苦労だった」と笑えるような、自分に都合のいいシナリオを私は無理やり記憶に上書きした。




