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おくぶたえ  作者: 水上栞
第五章
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02◆ バカ圭吾、バカ圭吾



 忙しい日々の中、気がつけば2月も終わりに差し掛かり、私はもうすぐ迎える春休みの事で頭が一杯になっていた。今年のバレンタインは手作りチョコとプレゼントを郵送する、という最終手段で涙を呑んでしまったので、せめてホワイトデーくらいは一緒に過ごしたい。そう思って時間と交通費の捻出に躍起になっていた私のもとへ、珍しく光太郎からメッセージが届いた。



 ――アジアに行く。帰国は4月



 いかにも光太郎らしい簡潔すぎて意味不明な文面に、「わけわかんねー」と突っ込みを返信してみると、今度は電話がかかってきた。おそらく説明する文面を考える段階で挫折したに違いない。文字文化に馴染めない我が幼馴染は、いつもの無愛想な声で、青年海外支援団体としてボランティアを行うのだと私に説明をくれた。



「ボランティア、あんたが?」


「悪ぃかよ」


「いや、悪くないさ、むしろ立派さ。でも、なんでそんな急にお利巧さんになっちゃったのよ」


「しばらく日本出たいと思ったから」



 ちょっと心がズキンとした。彼なりに傷心から立ち直るチャンスを手探りしているのだろう。動機が不純と言えなくもないが、少なくとも前向きである事に安堵した。


 春休みを含む約2ヶ月、光太郎はアジア諸国のキャンプを回り、農園を耕したり工事をしたり、汗まみれになって働きながら自分をリセットして来るという。素直にがんばれとエールを送りたい。そんな一生懸命な光太郎に惚れてくれる女は、この先いくらでも現れるはずだ。






 3月に入ってようやく時間と交通費の調整がつき、あと数日で圭吾に会えるという夜、打ち合わせておく事があったのでこちらから圭吾に電話をかけてみると、何やら背後が騒がしい。いったいどこにいるのかと聞くと「家、家!」と張り上げるような声が耳元から聞こえてきた。



「家で宴会してる、バスケの連中と!」


「連中って、その狭い部屋に何人いるのよ!」



 かなり大勢で騒いでいるようで、電話が聞き取りにくい。仕方がないので、こちらも負けじと声を張り上げた。



「7人、もう足の踏み場もないっ」



 友達と一緒だとえらくテンションが高いのがムカつく。それでも平静を装って私が用件を切り出そうとすると、誰かに邪魔をされているようで「やめろよ」と言う圭吾の声の後に、甲高い女の子の笑い声が響いてきた。刹那、何やら黒いモヤモヤが胸の奥から湧き上がる。さっき確かバスケの仲間と言っていた。という事は、もしかして。



「ねえ、そこにあの人もいるの?」


「え、何?」


「マネージャーも来てんの?」



 何秒か圭吾が沈黙し、音声がしばらく背後の喧騒だけになった。その中にはハッキリと女性の声で「羽根田くーん!」という、聞き覚えのある声が混じっている。私はそのまま電話を切った。


 仲間同士で飲んでいるだけだと言われればそうなのだろうが、自分にアプローチしている女を一人暮らしの部屋に入れるなんて、デリカシーがなさ過ぎる。私に知られなければいいとでも思っているのだろうか。度量が狭いと思われてもいい、腹が立つものは立つのだ。



「バカ圭吾、バカ圭吾、バカ圭吾」



 私は東京に向かい呪文のように繰り返した。バスケの飲み会が圭吾の部屋で開かれるのは今日が初めてではない。という事は今まで私が知らないうちに、私が揃えた食器を溝端さんが洗ったり拭いたりしている可能性だってあるのだ。私は再び携帯の電源を入れて圭吾に短いメッセージを送り、すぐに電源をオフにした。



 ――青いグラス、あの人に触らせたら殺す。



 翌朝私が電源を入れなおした時、納得できる返事が入っていなければ、今度の東京行きは取りやめる、と心に決めた。もう一度言う、バカ圭吾。自分の彼女がこんなに警戒している女を、どうして遠ざけようとしないのだ。


 彼らはまだ何も始まっていないかもしれないが、完全なる友人というわけではない。いや、絶対に友人にはなれない。なぜならお互いに異性として興味があるからだ。私がいなければ、圭吾は間違いなく突っ走っている。悔しいけれど長年彼を見てきた私にはそれがわかるのだ。




 ――グラスは死守した。食器も全部俺が洗ったし、みんな終電までには帰った。男オンリーの飲み会だったのに、途中で誰かが溝端たちを呼び出した。俺もそれなりに努力してるので、取りあえず機嫌直して?



 圭吾にしては長い文面を読んで、「今回は許す」とだけ返信した。3年を超える圭吾との付き合いの中で、安泰と呼べたのは彼が卒業するまでの一年ほどで、あとはずっと大小の波に揺られ続けている気がする。特に最近はその幅が激しい。


 もしかすると私たちにとって、今が試され時なのか。ならば圭吾に何かを求めるばかりでなく、私も少し冷静になって考えてみよう。私はいつも行き詰まったらそうするように、圭吾の受験の前に「こうなりたい」と思っていた理想の彼女像を思い起こしてみた。



「目いっぱい遊ばせよう、コンパくらいは目をつぶろう、彼の大学生活は、イコール私の我慢大会である……」



 あと半年で20歳を迎える現在よりも、高校2年の私の方が太っ腹であるのが情けないが、現実と理想はそれほどギャップがあるという事だ。きっとそれは将来もあらゆるステージにおいて対峙する試練だろうし、圭吾が卒業して遠恋が終わったとしても問題が発生しないとは限らない。


 要するにずっとこの先、温い湯につかる事はできないという事だ。大人になるのは、しんどい。経験を重ねれば重ねるほど、足元の暗さを知る事になる。無邪気に今だけを生きていた制服の頃が懐かしくて、なんだか涙が出そうになった。


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