1◆ 光太郎氏、失恋するの巻
東京から帰ると駆け足で年末がやってきて、佐藤家は新しい家で初めての正月を迎えた。今年は弟の崇史が受験準備に入るので、例年に増して質素に過ごした。私も圭吾と初詣に行ったくらいで、あとは特に取り立ててやる事もない。
そこで、学校が始まるまでの暫しの休暇を持て余した私は、久しぶりに街へ買物に出てみる事にした。最近はバイト代も東京行きの交通費に回す事が多いため、殆ど服を新調していない。花の乙女がこれではいかんと私はバーゲンで何枚か服を漁り、帰りに途中下車して光太郎のバイト先に立ち寄ってみた。その気まぐれが思いもかけず彼の近況を私に教えることになった。
「射手矢くんは先月末で辞めましたけど」
光太郎が店内に見当たらなかったので、休みかと思ってレジのお兄さんに尋ねてみると、そんな答が返ってきて私は目を丸くした。あんなにオネーサンにご執心だったのに何故。そう言えば彼女も店にはいないようだ。私はさらにレジのお兄さんに聞いてみた。
「あの、前にここにいた茶髪で美人の女子大生の人…」
「あー、玉野さん?」
そう言われて初めて彼女の名前を知ったが、怪しまれないように私は知り合いのふりをする事にした。
「そうそう、玉野さん。あの人はまだいるんですか」
「辞めましたよ、コトブキで」
コトブキ、いわゆる寿退職という事は、彼女が結婚したという事だ。相手は誰だ、店長か。いや、店長には奥さんがいる。だとしたら不倫略奪か、それともまさか光太郎か!私は買い物もそっちのけで、慌てて店を飛び出し、気を落ち着かせてから当の本人に電話をかけてみた。
「なんか用?」
電話口の不機嫌な声は、私に新年の挨拶さえもさせてはくれないらしい。声の背後から車の音が聞こえてくるという事は、光太郎も私と同じく屋外にいるのだろう。私は前置きはすっ飛ばして、要点のみを伝える事にした。
「あのさ、今あんたのバイト先に行ってみたんだけど」
「辞めた」
「知ってるって、レジの人に聞いたから。それよか何で辞めたの、もしかしてオネーサンが結婚するから?」
光太郎が黙り込む。不躾なことを聞いているとはわかっていたが、私はさらに突っこまずにはいられなかった。
「あのさ、結婚相手が光太郎ってことはないよね」
「アホか」
「じゃあ店長?」
「店長でもねーよ。同じ大学の先輩だってさ。夏に子供が生まれるらしい」
今度は私が絶句した。淡々とした口調は、恐らく光太郎の心の傷をカモフラージュする鎧に過ぎない。奴は昔からそうだった。感情が顔に出ないのと同じで、しんどい時でも滅多に弱音を吐かないのだ。そのため、その意地っ張りが見えてしまう身内の人間にはかえって辛い。今の私もそうだ。手を差し伸べてやりたいのに、何の助けにもならない自分が歯痒くてならない。
「私で良かったら、話くらい聞くけど」
「いらね。俺、今から連れと飲みに行く約束だし、それともチカがなぐさめてくれる?」
「えっ」
「冗談だよ、じゃあな」
光太郎らしからぬジョークに戸惑う私の耳に、ツーツーという音が聞こえてきた。そのまま電話を切ってしまったらしい。
駅への道を辿りながら、さっきのは冗談なんかじゃなく、光太郎の精一杯の痩せ我慢だと感じた。奴は相当ダメージを受けている。そしていつものように、その傷を人知れず癒そうともがいているのだ。私はバッグからもう一度携帯を取り出し、意地っ張りの幼馴染にメッセージを送った。
――飲み過ぎるんじゃねーよ、ばかやろう
最初は私、二度目はあゆみ、そして三度目は玉野オネーサン。思いや状況は違うにしろ、そのたびに恋に決着を付けてきた光太郎が少しだけ大人に思えた。私もいつか圭吾を失う痛みを経験するのだろうか。今は想像もつかないし、想像したくもない事だ。私は大きなショップ袋を肩にかけ直すと、ホームに入ってきた電車に揺られて、ひどく重たい気分で家路に着いた。
悲劇の序章は2月の初め。私たち遠距離カップルの頼みの綱であった圭吾の車がオシャカになった。駐車場から発進しようとして、そのまま息を引き取ったらしい。もともと走行距離がけっこういっていたものを手入れして乗っていたので、公道でご臨終されずに済んでラッキーだったと言えるが、これでまた私たちは片道2時間半+お高い新幹線との戦いを強いられる事になる。
さらに厳しいことに、圭吾は年明けから酒類販売の勉強に加えて単位の追い込みとバスケ、しかも再び車を買うために例の警備員のバイトに復活する事になった。そうなると、月に1回程度しか休みのない彼と会うためには、私が東京まで通わなくてはならない。
しかしその私も今年は専門学校の後期にあたり、資格試験だの就職活動だのでバイトする暇がないため、交通費の捻出が危うい状態だ。万事休す。一度車という便利なツールを味わっているだけに、その落差は非常に辛い。人間、楽をすると二度と元には戻れないというのが身にしみてわかった。
「春休みに、取りあえず1回は東京に行くから」
「何日くらい泊まれる?」
「わかんない、2泊くらいじゃないかな。それ以上だとお母さんの手前、ちょっと気まずいし」
母は近ごろ私が「外泊する」と告げても、細かいことを訊ねてこなくなった。たぶん圭吾と一緒だという事に、気付いて知らぬふりをしてくれているのだ。それだけ彼が信頼されているという証しだが、だからこそ反対にだらしない付き合いになるのは避けたいと思う。私は学校の授業もきちんとこなし、一度も遅刻・欠席のない優等生として初年度を終えようとしていた。
「わかった、じゃあ俺もなるべく帰れるように頑張るから」
極端に会う機会が減る事には、圭吾も危機感を持っているらしい。車がダメになってからというもの、以前よりせっせと連絡をくれるようになった。部屋の飾り物と化していたパソコンもチャット用に大活躍で、やはり顔を見て会話ができるのはうれしいものだ。そんな圭吾の様子に、いつもの陽気さとはまた違う一種の「焦燥感」があったと気付いたのは、それからずいぶんと長い時間が経ってからの事だった。




