17◆ マネージャーの溝端です
「休憩―!」
コーチらしい人の掛け声で、メンバーがそれぞれ自分の荷物の場所に散らばる。圭吾もベンチに座り、がしがしとタオルで汗を拭いていたが、そこへ女の子がやってきて、手にしたバケツからペットボトルを取り出し圭吾の首筋に押し当てた。
その瞬間、何とも形容しがたい痛みが胸の奥で弾けた。やられた圭吾がそのボトルで反撃しようとして彼女を追い掛け回しているのを見て、私は思わず目を逸らしたくなった。きっと彼女はマネージャーか何かで、ただふざけているに過ぎないのだと思い込みたかったが、不協和音はどんどん大きくなっていく。
彼らの周りの空気には、明らかに他とは違う甘さがある。それでも恐々目を戻してみると、圭吾が私にちょっかいを出し始めた頃のような顔をして笑っていた。間違いない、圭吾はあの子に興味がある。恐らく彼女も同様だろう。
いちばん胸が痛かったのは、圭吾が私を見つけたときの表情だ。練習が終わって玄関ホールに出てきた所で声をかけると、「しまった」という顔でこちらを振り向いた。見られて都合が悪いことでもあるのか、と詰め寄りたくなったのをぐっとこらえて、私は極めて何気ない風を装い、圭吾のいる方に歩み寄った。
「えっ、なんでいるの」
「なんでって、来ちゃだめだった?」
「いや、いいけどさ、電話しろって、来るなら」
「鍵くれた時、いつでも来いって言ってたじゃん」
そんな私たちの探りあいに割り込んだのは、「羽根田く~ん」という女の子の声だった。2人同時にそっちを向くと、さっきの彼女が体育館の出口で手を振っていて、私の姿を認めた途端「あっ」というような表情になった。
「送ってく約束したんだよ、取りあえず車いこ」
圭吾はそう言うとスポーツバッグを持って出口の方に歩き出し、やがて彼女の側まで来ると、私の方をアゴで指し示し
「一緒に乗せてくから」
とだけ言って、さっさと自分だけ車のほうへ歩き出した。おい、紹介はどうしたよ。そこで「俺の彼女」と説明するのが筋だろう。その態度にムカムカしていたら、背後からお声がかかってしまった。
「あの~、羽根田くんの彼女さんですか?」
「あ、そうですけど」
「こんにちは、私、マネージャーの溝端です」
「佐藤です、圭吾がいつもお世話になってます」
満面の笑みで「圭吾が」を強調した私は、傍から見ればきっと底意地が悪いのだろう。目の前の溝端さんは背が小さくてバンビ系とでも言おうか。セミロングのストレートヘアを軽いレイヤーにしていて、杢グレイのナイキのパンツをはいている。
要するに普通の可愛い系女子なのだが、かえってそれが脅威に思えた。遊んでいるイケイケ女なら土俵の外だが、溝端さんは私と同じカテゴリーだ。ハマったらえらい事になる、と本能が警鐘を鳴らしている。さっきの不協和音の正体はこれだったのだ。私は背中に暑さ以外の汗が流れるのを感じた。
駐車場に着いていつものように車に乗ろうとしたら、助手席に荷物が置いてあった。
「あ、すいません」
慌てて溝口さんがそれを取って、後部座席に乗り込む。次いで私も助手席に乗り込んだが、何となく座席の位置に違和感があった。これは取りも直さず、行きも溝口さんを送って来たという事だろう。しかし圭吾はずっと黙ったままで、説明する気も場を取り持つ気もないらしい。これはいつもの彼にあるまじき事だ。大抵はこういう場合、私と自分の友人を仲良くさせようと張り切るお祭男のはずなのだ。
溝端さんが車を下りたのは圭吾の家とは大学から間逆にある立派なマンションだった。二人の家が近くない事と、彼女が実家住まいらしい事に、私は少しだけ安堵を覚えた。圭吾はまだ黙っている。いよいよおかしい。私は思い切ってこちらから仕掛ける事にした。
「可愛い子だね」
しれっとした顔をして、ハンドルを握る手に一瞬力が入ったのを私は見逃さなかった。探った腹に痛いものがあるのだ。私はとことん突っ込む体勢になった。
「ああ、人気あるみたいよ、メンバーに」
「なんか圭吾に懐いてるっぽかったけど」
「んなこたねーよ」
「いつも送り迎えすんの、圭吾が」
「今日はたまたまだよ」
圭吾が水のボトルに手を伸ばす。テンパっているのがよくわかる。付き合いの長い彼女をなめるな。私はとどめの一発をお見舞いした。
「何かあったでしょ、あの人と」
直球、ど真ん中に放り投げた。さあ、どんな風に打ち返す。圭吾はまだ黙ったまま、ハンドルを握り締めている。逃がすものかと私は追撃弾を撃ちこんだ。
「本当のこと言って」
数秒の沈黙の後、圭吾が白旗を揚げた。
「告られた……っていうか、でも断ったから、ほんとに」
「部屋にあった香水も彼女から?」
「彼女いるから、って言ったよ、ちゃんと」
「違うでしょ、彼女いるからじゃなくて、違うでしょ、それ。ちゃんと好きじゃないって言わなきゃ、また誤解されちゃうよ」
「わかりました、って言ってたし」
「私と別れるのを待つ、って事かもしれないね」
今度こそ圭吾は黙り込んでしまった。私に下心を見抜かれている事に怯えている。叩けばまだまだ埃が出そうだが、私もあまりみっともない痴話喧嘩はしたくない。こめかみに筋が立つほどの怒りをこらえ、今後の予防線のため私は優柔不断な相方に最後通牒を突きつけた。
「私、キープがいるような男と付き合う気ないから」
その夜、私たちはセックスをしなかった。先にシャワーを浴びた私が、圭吾が入浴している間にさっさと寝たふりをしたのだ。圭吾も無理に私を起こさなかった。いつもなら夜中だって構わず襲い掛かってくる男なのに。
圭吾と一緒のベッドで眠って何もなしというのは始めてだ。隣でやはり寝たふりをしている男に愛想が尽きたかと言えば、それは悔しいがNOと言わざるを得ない。しかし、もし私が彼に見切りをつけるとすれば、きっと今日のような優柔不断な行いが理由になるだろう。思えば高須さんの時もそうだった。その優柔不断な性格のお陰で私たちの付き合いが始まったのも、また一方で痛い事実ではあるのだが。




