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おくぶたえ  作者: 水上栞
第四章
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10◆ 卒業式



 卒業式の朝、私は最後の制服姿で鏡の前に立ち、高校生の佐藤千夏子をまぶたに焼き付けた。3年の間、伸びた背丈はわずか1.2センチ。一度も丈を直していない制服は袖口とボタンホールが少しくたびれ、高校生活の歴史を物語っている。


 恋をして、絵を描いて、もちろん勉強もして。自分なりに精一杯やってきた3年間だったと思う。父に卒業証書を見てもらえなかったのが唯一の心残りだが、大切な思い出と友情を胸に抱き、母校と小牧台に別れを告げようと思う。




 式が進むうちに体育館に並んだ列のあちこちから、すすり泣く声が漏れてきた。泣かない覚悟をしていた私も、斜め後ろであゆみが大泣きしているお陰で鼻の奥が痛くなってくる。思えばこの体育館で、圭吾を初めて見た。蒸し暑い6月の土曜日。あの時の緑色の傘は今も私のお気に入りだ。



 自分が思っていたよりはるかに多くの思い出を、この学校からもらって旅立つのだと感慨に耽るうち、いつしか私は泣いていた。仰げば尊しの歌詞が胸に沁みる。まさに、いざさらばの瞬間の中に私は置かれている。やがて証書の授与が済み教室で最後のHRを終えると、私たちはそれぞれ校内に散らばり友人たちと記念写真を撮った。




「チカ!」



 同じクラスの友人と中庭で写真を撮っていた私を、誰かが呼んだ。声のほうを振り向くと、光太郎が植え込みの向うで手を振っている。これから友人たちと打ち上げにでも行くのだろう。奴はすでに帰り支度を整え、校門に向かう人並みの中にいる。私は友人の輪から抜け出し、光太郎の方へ駆け寄った。



「お前、引越しいつだっけ?」


「明後日、たぶん昼ごろには出発する」



 光太郎は「そっか」と言うと、心持ち照れた素振りで私に右手を差し出した。



「バイトで見送りしてやれないけど、元気でな」


「ありがと、光太郎もね」



 私も手を差し出し、ぎゅっと光太郎の手を握った。ご近所で、同級生で、その他諸々。約15年、私たちは良くも悪くも沢山の思い出を共有してきた。今後は家も学校も離れてしまうが、きっと音信が途絶える事はないだろう。「いい男になれよ」と心の中で励ましながら、私は光太郎の手をもう一度ぎゅっと握った。






 校門から公道に下っていく坂道には、桜並木が続いている。今はまだ固い蕾が枝に見られる程度だが、毎年4月には薄ピンクの花びらが舞うプロムナードと化し、通学する生徒の目を楽しませてくれる。



 母は式が終わると仕事に行ってしまったので、この後は圭吾と待ち合わせをしている。卒業生や在校生、その家族でごったがえす坂道を下っていくと、公道との境目のあたりに黒い軽自動車が見えた。誰かのお迎えかなと思ってチラリと目をやると、見慣れたジャケットを着た圭吾が車に寄りかかっている。それを見て、思わず足が止まってしまった。


 免許を取ったとは言っていたが、まさか車で迎えに来るとは。というより、誰の車を借りてきたのだろう。眺めていても仕方がないので、私はそろそろと圭吾の方へ歩み寄った。



「圭吾?」


「おう、卒業おめでとう」



 圭吾は寄りかかっていた身体を起こし、私の荷物を奪って後部座席に放り込んだ。そして助手席のドアを開けると執事よろしく「どうぞお嬢様」と乗車を促す。もしやこれは彼の言っていた「ビッグなサプライズ」なのだろうか。ならばこっちも乗っかってやるしかあるまい。私はわざと高慢な口調で「お迎えご苦労」と言うと、助手席に身体を滑り込ませた。



「ね、ね、ビックリした?」



 シートベルトをつけながら、圭吾が得意気にニヤニヤしている。私は「まあね」と頷き、取りあえずこの車の出所を尋ねてみた。



「じゃじゃーん、俺の車!」


「はぁ、買ったの?聞いてないし」


「せっかくの卒業式だし。ビックリさせようと思って秘密にしてたから。つっても、納品されたの先週だけどな」


「なんで急に車なんか買う気になったの」



 私が尋ねると、圭吾は「急にじゃねえよ」とハンドルを切った。運動神経のいい圭吾だけあって、初心者とは思えない滑らかな運転だ。ちょっと格好いいじゃないか、とまんざらでもない私に、圭吾が車購入に至った理由を教えてくれた。



「友達の兄貴が、これそろそろ乗り換えようかって言ってて、だったら頑張って金作るから、俺に安く売ってくれって頼んだの」


「安くって言ったって車だよ、簡単に買えるもんじゃないでしょ」


「でも車がありゃ近くなるじゃん、俺たち」



 確かにそうだ。私たちの街から東京までは、電車だと乗り継ぎが面倒で2時間以上かかってしまうが、車ならば1時間ちょっとで着く。


 だからと言って、まさか彼が車を買うなど思いもしなかった。時給の高い夜間のバイトを詰め込んだのも、教習所と車の資金のためらしい。私に会いに来る車を買うため、疲れた体を引きずって働く圭吾の姿を想像すると、かなり胸にくるものがあった。



「そのせいで千夏子にはちょっと寂しい思いさせたけど、今度からは夜中に呼ばれたって帰ってきてやれるから」


「そんなこと言ったら本当に呼ぶからね、夜中に」


「いいよ」


「バカ、圭吾、ありがと」


「どっちだよ」



 卒業して環境が変わることに少しの不安を覚えていたが、少しだけ圭吾が近くなったことで心が軽くなった気がする。いつもより真面目な顔をしてハンドルを握る横顔に、ちょっと惚れ直したことはだまっておこう。



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