9◆ 他の人にはわからない
まもなく午後3時を迎えるやわらかな光が、カーテンの隙間から注いでいる。今日の早朝、チヨは自らに宿った小さな命を失った。彼女が母親であった期間はおよそ11週間。生理が来なくなって吐き気が続いたため、何度も迷ってようやく妊娠検査薬で確かめたらしい。
日本の法律では、中絶の方法が妊娠12週を境に変わる。避妊を怠った結果とはいえ、18歳の少女が迫られるには、あまりにも重い決断であっただろう。いくらチヨが気丈であっても、精神的にやられてしまうのは仕方ないことだ。
病院での処置が終わって自宅に戻り、安心したのか薬が効いたのか、糸が切れるように眠ってしまったチヨが目覚めて私の名を呼んだ。さっきまでチヨのお母さんが半べそをかきながら看病していたが、今は私と交代して二人きりである。
「ごめんね、千夏子に迷惑かけた」
「なにいってんの、気分悪くない?なんか食べる?」
食欲がないというチヨにスポーツ飲料を飲ませ、ベッド脇の椅子に腰かけた。チヨはふーっと息を吐き出し、これに至る経緯をぽつりぽつりと話してくれた。
「彼ね、うちの高校の教師なの」
チヨが私に彼を紹介できなかったのはそのためだ。卒業するまで誰にも言うまいと二人で約束していたらしい。
出会いは入学直後。副担任としてチヨの両親の離婚問題の相談をするうちに、いつしか男女の感情が芽生えたという。決して甘いだけの恋ではなかっただろうが、それでも互いに手を離さなかったのは、彼らが年齢や立場を超えて本当にお互いを必要としていたからだ。
「はじめは、堕ろせって言われるかと思って、なかなか言えなかったの」
「でも、喜んでくれたんだね」
「うん、ありがとうって言われた」
チヨの目から涙が一筋すっと零れて、枕に吸い込まれる。さっきその相手である森脇さんという男性が来た。朝一番で連絡をしようとした私をチヨが「授業に影響するから」と押しとどめ、夕刻を待って電話を入れたのだ。
真っ青な顔をして駆けつけたその人は、教師というより大学生のような風体で、ジャージにサンダル履きの野暮先生を想像していた私の予想は見事に覆された。こういう爽やか系の教師が女子高にいれば、色気づいた女生徒共が放っておくはずはない。そういう意味でもチヨはこの数年、色んな苦労をしてきたのではないだろうか。
森脇先生はベッドに歩み寄ると、まずチヨのお母さんに「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。さっきまではお母さんも私も「一発殴ってやろう」と言っていたのだが、チヨが彼の姿を見るなり子供のように声を上げて泣き出したのを見て、黙って席を外した。
病院に運び込まれてから半日以上、チヨがどんな気持で彼の到着を待っていたのか。それを考えると、私はこみ上げる涙をこらえ切れなかった。
「チヨちゃん、落ち着いた?」
「うん、相手の人が来たから帰ってきた」
家に帰ると母がサンドイッチを作って待っていてくれた。最近ようやく調子を取り戻してきた母は、少しずつ家事を始めている。明け方、チヨを病院に運ぶ手筈を整えてくれたのは他でもない母である。
破水したショックと腹痛、やがて出血が起こって興奮状態のチヨを、どうする事もできずに私がうろたえていると、騒ぎに気付いて2階に上がってきた母が、状態を見るなり「チヨちゃん、妊娠してるね」と見破った。チヨが頷くと母はすぐさま脈や呼吸を確認し、搬送の手配と同時に勤務先の緊急外来に電話で指示を出した。休職中とはいえ流石にベテラン看護師だけあり、その手際は我が母親ながら天晴れの一言に尽きる。
しかし職業から一歩離れてしまえば、やはりそこは親である。娘の友人が流産したとあっては、気が気でないのも当然だろう。病院へ付き添い、チヨの母親に連絡を取ってくれたのも母だった。
「チヨのおばちゃん、ショック受けてたね」
「そりゃそうよ、離れて暮らしてる娘がそんなことになったんだもの」
「あそこの家、いろいろ複雑だしね」
チヨは頑なに父親へは連絡しないでくれと繰り返した。連絡を聞いて駆けつけてきたお母さんと妹も、同じことを言っていた。家族にしかわからない事情があるのだろう。
「お母さん、あんたが流産したら羽根田くんを呪うわよ」
「何でよ、妊娠は男だけの責任じゃないでしょ」
「でも、傷つくのは女の体だからね」
そう言うと母は私の肩に手を置き、「疲れた、ちょっと寝る」と寝室に入ってしまった。私は母の言葉を反芻しながら、ある意味では納得した。今回の事にしたって、チヨと森脇さんではダメージの度合いは明らかに違う。実際、私も「チヨばっかり苦しんで」と森脇さんが憎かった。
産む事は辛く、それ以上に幸せな事だというが、チヨの場合は辛いばかりの出来事であっただろう。願わくば私の大切な親友がこの試練を乗り越え、再び心から笑える日が来ますように。
チヨならきっと頑張れる。色んな事情はあるにせよ、あの彼氏さんにもしっかりチヨを支えてもらわねば。来週にはもう彼らは教師と生徒ではなくなるのだから。




