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おくぶたえ  作者: 水上栞
第四章
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8◆ チヨを追い詰めるもの



 家に帰って爪を磨きつつ考えた。あゆみにしろ、光太郎にしろ、例のオネーサンにしろ、周囲の人間たちは今をフル回転で生きている。彼らは欲しいものがハッキリしていて、それを決して諦めない。


 私の場合はどうだろうか。目的もなければそれに邁進するエネルギーもない。まるでぬるま湯に浸かっている様な有り様だ。かと言って、そこから脱出するするきっかけもなく、何となく置いてけぼりを食わされたような気がしてならない。そう思っていたら、思いがけず日常を揺るがす事件が立て続けに私に降りかかってきた。






「佐藤ってさ、地元の専門学校いくんだろ」


「うん、そうだけど」



 人もまばらな放課後の教室で、声をかけてきたのは同じクラスの小西君だ。たしか陸上部で短距離をやっていて、細身で優しげな顔立ちが下級生の女の子に人気があるとあゆみが言っていた。しかし私自身はクラスが同じでも殆ど喋った事がない。その小西君にいきなり進学先を聞かれて、私は多少戸惑いを隠せなかった。



「という事は、東京に行った先輩とは終わってるの」


「えっ、終わってるって、なにそれ」


「単刀直入に言うけど、付き合わない、俺と」



 これは紛れもなく告白というやつだ。卒業間際になると、滑り込み告白が増えるとは聞いていたが、まさか私自身に起こるとは。咄嗟に何と答えていいかまごまごしていると、小西君がたたみかけるように言葉を続けた。



「俺、佐藤のこと、けっこう前からいいなと思ってたんだけど、一年上に彼氏がいるって聞いてたから、遠慮してた」


「いや、まだ続いてるんだけど」



 小西君は「そうなの?」と言うと、眉間にしわを寄せて考えるような顔をしたが、再び柔和なスマイルを湛えて私のほうに身を乗りだしてきた。ちょっと圧迫感を感じるほど顔が近い。私は思わず半歩後退した。



「でもさ、佐藤がこっちの学校ならずっと遠距離なわけじゃん。それって辛くない?会いたい時に会えなきゃ意味ないでしょ」


「でも、私たちなりにうまくやってるし」


「そうかな。彼氏、絶対あっちで遊んでるって」



 それを聞いて私は頭に血が上った。全く大きなお世話もいいところだ。だいたい、会った事もない人の彼氏を浮気者と決め付け、それを交渉の道具にしようなど手口がセコすぎる。


 私が睨みつけると、さすがに小西君も失言だと気付いたのか焦った様子で弁解しようと口を開きかけたが、今さら何を言おうと許さない。私は「サイテー」と捨て台詞を残すと鞄を掴んで教室から飛び出した。




 昇降口で靴を履く時、怒りで手が震えているのに気付いた。圭吾を愚弄した小西君に対してはもちろんだが、「絶対そんな事はない」と言い切れなかった自分にも腹が立つ。圭吾が大学に入ったら自由にさせてやろうとか、寛大になろうとか、格好いいことを言っていたのに、こんなに簡単に揺れてしまうなんて情けない。



 わかっているのだ、私が今日のことを圭吾に報告する気がないように、彼もまた私の目に触れさせない事があることくらい。それはお互いを思いやる優しさであり、圭吾が地元の大学に行っていたとしても同じ事だろう。それなのに、今の私は遠距離を言い訳に果てしなく醜い想像を膨らませ、疑心暗鬼になっている。


 私は弱い、おまけにずるい。圭吾が側にいないという事を、全ての言い訳にすり替えている。






 チヨが突然「泊まりに来ていい?」と電話してきたのは、それから2日後。チヨの学校も卒業式まで残すところ約1週間となり、登校の必要がないので暇を持て余しているようだ。こちらも引越し準備をする以外はブラブラしている身なので、二つ返事で彼女の来訪を歓迎した。


 ところが久しぶりに我が家を訪れたチヨは、何だか前にも増して痩せ細り、顔色も血色が殆どない。どこか具合でも悪いのかと尋ねてみたが、「うーん別に」と曖昧な返事で流されてしまった。



「夕飯、お鍋にしようかと思うんだけど」



 せっかくチヨが来たのだから、家族も交えて水炊きでもしようと葱を切っていると、チヨはキッチンの椅子から立ち上がり、カウンターで料理をしている私の後ろに来て「ごめん」と謝った。


 何の事かと振り向いてみると、驚いたことに彼女は涙を零している。私は一瞬どうしたものかと思ったが、取り合えず包丁を置いてチヨをもう一度キッチン椅子に促した。手がネギ臭いのに気付いたが、構ってなどいられない。私はチヨの顔を覗き込んで「どうした?」と尋ねた。



「ごめんね、食欲がないの。夕飯いらないや」


「それはいいけど、どうしたの。チヨがそんな事で泣くわけないでしょ」


「ごめんね、千夏子」


「謝んなくていい、ちゃんと話して」



 チヨは黙って俯いている。長いこと友達づきあいをしているが、彼女のこんな様子は初めて見る。よっぽど精神的に大きなダメージを受けているのだろう。とにかく落ち着かせるのが先決だ。私は弟に夕食は出前か何かで適当に食べるように言いつけ、チヨを連れて2階の自室に戻った。



「例の、彼氏さん関係?」



 お茶のペットボトルを手渡すと、チヨはそれを一口飲んで、大きな口で「ははは」と笑った。楽しいというよりはむしろ、嘲笑と言うにふさわしい乾いた響きだ。



「もう、笑っちゃうよ、大失敗」


「だから、なにが」


「妊娠してるの、私」



 声も出ないとはこの事だ。はっきり言って予想だにしなかった。チヨは笑いを顔に貼り付けてはいるものの、細かく肩が震えている。


 私は妊娠という言葉に強いショックを受けた以上に、親友の精神状態が尋常でない事に恐怖を覚えた。例え予期せぬ出来事であったにせよ、命の祝福を受けた身体であるべき彼女が、こんなに怯えているのはただ事ではない。


 私は相手の彼を知らないが、チヨをここまで追い詰めた事に対して、猛烈な怒りを感じずにはいられなかった。



「相手の人は何て言ってるの?」


「……入籍して、産んでくれって」


「チヨはどうしたいの」



 チヨの細い指がシャツの裾を握りしめ「わかんない」と長い髪が揺れた。精神的に追い詰められているのだろう。まずは落ち着かせないと話にならない。



「今はうまく言えない……、何だかわかんなくなっちゃって、それで千夏子んとこ逃げてきた。ごめんね、迷惑かけて」


「迷惑なんかじゃないよ、私、何かできることある?」


「ありがと、でも大丈夫。千夏子に言っちゃったら楽になった。悪いけど今日はもう寝る、ごめんね、何だか体調が悪くって」




 そのままチヨは青い顔をして横になり、やがて私のベッドで眠ってしまった。いつもは「溌剌」という言葉が似合う彼女が、今日はまるで手負いのうさぎのようだ。さっきは感情が昂ぶっていたようだが、また明日になれば落ち着いて話もできるだろう。そう思ってベッド下に布団を敷いて寝た私が、チヨの異変に気付いたのは翌朝、陽が昇る寸前の事だった。


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