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おくぶたえ  作者: 水上栞
第四章
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6◆ 変化の足音

 


 圭吾の腕は、まだ私を離してはくれない。何か不安があるのだろうかと、明るい話題を選んでみた。



「圭吾がちゃんと単位取って、無事に4年になったら、しばらくこっちに帰れるんでしょ」



 そう言いながら私も、実は二人の関係の変化を感じていた。



 こうして逢っている時は熱烈にテンションが上昇する私たちだが、逢わない日々が苦悶に満ちているかと言えばそうでもない。東京に帰ってしまえば圭吾もそれなりに大学生活をエンジョイするだろうし、私にしたって見送りで涙ぐんだ数分後に駅ビルの本屋で立ち読みができるほど図太くなった。


 それがイコール恋愛温度の低下を示すとは思わないが、同じ制服を着ていた頃とは少しずつスタンスの取り方が変化してきているのは否めない。時を経るごとにさらに考えが変わっていくだろう。どんな目が出るかは、賽を振ってみなければわからない。



「なんか、私たちギャンブラーみたいだね」


「なんだ、それ」



 結局その後は許される時間ギリギリまで圭吾の部屋でいちゃついて、翌日は駅でしょっぱいお見送りをした。それら毎度のお約束で頭がいっぱいだった私が、来春引越しする事を言い忘れたと気付いたのは、圭吾が帰って2日も経った頃だった。






 いつも行くスーパーで、ばったり紗枝さんに会ったのは11月の終わり。私はお気に入りのコートにこの冬初めて袖を通し、ちょっと嬉しい気分で今夜の夕飯の材料を選んでいる最中だった。このところ我が家の食事は毎日私が作っている。父が亡くなった後、母が体調を崩してしまったため、部活が終わって時間のある私が家事の大半を引き受けているのだ。


 母はしきりに申し訳なさそうにするのだが、もとから料理は好きだし苦ではない。むしろ、圭吾がいない寂しさを紛らわせられるので、忙しい方が都合がいいくらいだ。グータラだった弟も、さすがに最近では掃除や洗濯をすすんでやるようになったし、これを機会に母が回復した後もみんなで家事分担をしようと思っている。



「ねえねえ、引越しするんだって?」



 紗江さんは清楚な美人顔に、哀しげな表情を浮かべて私に尋ねた。マロンブラウンのロングヘアが肩から絹のようにこぼれる。私も卒業したら茶髪のロンストにしようと、うっとりしながら頷いた。



「来年の春だけど。叔父さんのマンションに移ることになって」


「寂しくなるなあ。たまには遊びに来てよね」


「呼んでください、紗江さんがカレー作ってる日は必ず」


「あはは、じゃあ夏までに呼ばなきゃね」


「夏?」


「うん、実は結婚が決まったの」



 紗江さんがきれいな頬を薄紅色に染める。私はあまりの嬉しさに、思わず紗江さんの手を取って上下に激しくシェイクしてしまった。



「うわー、ほんとに!紗江さん、おめでとう!」


「ありがとう、でもお互い小牧台から離れちゃうの寂しいね。結婚式には呼ぶから来てよね、光太郎がいじけないように」


「なんで光太郎がいじけるの」


「大変だったんだよ、チカが引っ越すって聞いた時。御飯も食べないで部屋に閉じこもっちゃったんだから」






 スーパーからの帰り道、私は光太郎に引越しの件を自分の口から言わなかった事を反省した。ここ数ヶ月は色んな事がありすぎて、奴のことを気にかける余裕がなかったと言えばそうなのだが、それにしてもお互い幼稚園前から家族のように育ってきた仲である。


 人伝で引越しを知らされるなんて、私が逆の立場だったら水くさいと思う。私はお詫びのつもりで光太郎の好きなブラマンジェを作って、射手矢家に持って行く事にした。



「光太郎、いるー」


「いるけど」



 相変わらず愛想のない声がドアの内側から聞こえた。ノックをしたし呼んだのだから入っていいよね、と判断して私は光太郎の部屋のドアを開け、戸の隙間から顔を覗かせた。


 部屋の内部は私が知っている頃とは趣が違っていて、全体に黒っぽい色合いになっている。あゆみの言っていた「私の写真」を探してキョロキョロしていると、勉強していたらしい光太郎が机から顔を上げ、不機嫌そうな声で用件を促した。



「なんか用」


「ブラマンジェ作ったから持ってきたんだけど――」


「今、腹いっぱい。冷蔵庫に入れといて」



 取り付く島も無いのはいつもの事だが、今日は負い目があるだけ切り込みにくい。私は腹を括ってストレートに用件を伝える事にした。



「あのさ、光太郎。引越しの事、言いそびれててごめん」


「はぁ、なんで謝んの」



 光太郎はキョトンとした顔でこっちを見ている。その表情には微塵の怒りも感じられない。変だ、紗江さんの言ってた話と違うではないか。



「え、だって……、私が言わなかったの怒ってたんじゃないの」


「別に」


「だって、部屋に閉じこもったって」


「あー、あれは」



 そう言うと光太郎は持っていたシャーペンの先で頭を掻きながら、バツが悪そうな顔をした。



「怒ってたんじゃなくて、まあ……けっこうショックだったっつうか?とにかく俺側の事情だから、お前には何の責任もない」



 それを聞いて、ちょっと安心した。普段は挨拶さえもろくによこさない横着で無愛想な幼馴染だが、それでもやはり私は彼にとって特別な存在であるらしい。もちろん私にとっても彼は特別だ。圭吾とはまた違った意味で大切にしたいと思う。


 私は「了解」と言って光太郎の部屋を出ると、勝手知ったる冷蔵庫にブラマンジェを突っ込み、射手矢家を後にした。小牧台にいる間、この家に私はあと何回来るのだろう。玄関脇にあるポストに小学生のころ光太郎と二人で貼ったシールがまだ残っているのを見て、急に泣きそうな気分になった。




 自分が思っていたよりはるかに、私はこの街が好きだったようだ。坂が多くて難儀する駅への道も、雑草だらけの児童公園も、そして射手矢家の面々も。みんな、みんな、私の大切な宝物なんだと思った。



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