3◆ 予期せぬ悲しみ
東京おしのび行脚から約1ヶ月。夏休みの終了間際に私の誕生日がやってきた。去年は圭吾がロマンチックな演出で私をお姫様に仕立ててくれたけれど、今年はかぼちゃの馬車はやってこないらしい。バイトとバスケの試合が重なって、月末まで私の王子様は諸事に忙殺されている。
「埋め合わせ、絶対するから。ごめんな」
「いいって、そんなの」
別に誕生日だから何がして欲しいというものではない。特別な日というのは普段一緒にいられるからこその贅沢であり、離れている私たちにはまず会うことが先決だ。それも叶わないならいっそ考えない方が潔い。
私は一昨年までそうしてきたように自分でケーキを焼き、腕をふるった料理をテーブルに並べる事にした。今日のメインはタンドリーチキンで、スパイスを混ぜたヨーグルトを鶏肉に塗りつける作業はグロかったが、仕上がりは思った以上に美味かった。クミンを擂鉢で挽いて使ったのが良かったのかもしれない。
今年は射手矢家からの参加者はなかったので、家族4人で鶏一羽ぶんを平らげた。作って食べてプレゼントをもらって。そんな平凡で穏やかな時間のすぐ後に、私の18年間の人生でいちばん悲しい出来事が待っていようとは。鶏の骨にしゃぶりついているまさにこの時、佐藤家は運命の別れ道に立たされていたのだ。
その時が訪れたのは、新学期が始まって数日後の蒸し暑い午後。退屈な古典の授業に欠伸をかみ殺しながら、もうすぐ来る圭吾の誕生日に何を贈ろうかぼんやり考えていると、突然教室の戸が開いて事務の先生が顔を出した。何か緊急事態が起こったらしい。ざわめく生徒を残して教師が外に出ていくのを、他人事のように眺めていた私にやがて
「佐藤さん、ちょっと廊下に出てください」
再び教室に姿を現した教師がそう告げた。背中に冷たい汗が大量に噴出する。席を立って廊下に出ようとすると、事務の先生に「荷物も」と言われた。すなわち今日はもう学校には戻って来られないという事だ。
心の準備ができないまま緊張で強張った手で荷物をまとめ、教室を出ようとした時にあゆみと目が合った。怯えた表情をしている。私はもっとひどい顔だろう。少なくとも良い話であるわけがない。身内のだれかが怪我をしたか倒れたか、それとも―。家族の顔が交互に浮かび、私は呼吸が荒くなるのを感じていた。
「佐藤さん、落ち着いて聞いてね」
校門前に呼んであったタクシーに乗り込むと、事務の先生はある大学病院の名を告げた。教室から車に向かう途中、何が起こったのかを説明されたが、そんな事を聞いて落ち着けという方が無理な話だ。
朝は元気に出勤した父が、仕事中に昏倒して意識不明に陥った。診断は「くも膜下出血」。私にはそれがどういう病気なのかわからないが、父が死にかかっているという事だけは理解できる。私と先生は車回しに滑り込んだタクシーから飛び出すと、母の待つ集中治療室へと病院内で許される全速力で駆けつけた。
薄暗く長い廊下の先に「ICU」という表示があり、壁際の長椅子に母がうな垂れて座っているのが目に入った。職場から慌てて出てきたのだろう。服こそ私服に着替えているが、足元は白いナースシューズを履いている。
いつも気丈な母が青い顔をしている姿は異様としか言いようがない。母は私を見るや立ち上がり、力任せに縋り付いてきた。膝に置いていた面会用の滅菌ガウンが足元に落ちパサリと乾いた音をたてる。
「千夏子…っ、お父さんが…」
こんな母は見た事がない。母が取り乱すのを見て父の容態は聞くまでもない事がわかった。そうしているうちに弟と祖父母が到着したが、私たちの様子を見て瞬時に状況を悟ったようだ。泣き崩れた祖母を祖父がベンチに座らせるのが目の端に見えた。やがて処置室のスライドドアが開き、担当医が出てきて私たちに一礼をした。
「佐藤哲郎さんのご家族ですね」
医師の話では、父はすでに病院に搬送された時点で脳死状態であり、家族が全員来るまで心肺停止にならないよう手を尽くしたが間に合わなかったのだそうだ。みんなより一足早く病院に着いた母だけ面会が叶ったが、枕元の装置を見るなり泣き出してしまったらしい。看護士だけに、事実が克明に見えてしまったのだろう。何とも残酷な話である。
その後、私がようやく父に会えたのは、霊安室に移されてからだった。父は見ただけでは眠っているようにしか見えなかったが、触るとぞくりとするほど冷たくて涙が零れた。
「お父さん…」
私の呼びかけに、もう二度と父が応えてくれることはない。照れ屋で無口だが、優しかった父。私が骨折した時、仕事そこのけで病院に駆けつけ「食べたいものはないか」と言ってくれた父。まだ40代の坂を越えたばかりで、家のローンも残ったままで、さぞ心残りだっただろうと胸が痛む。
生きている間にもっと父にしてやれる事があったに違いない。花嫁姿も見せてあげたかった。私は自分にそっくりと言われる父の頬を撫で「お父さん」と再び呟いた。はたしてこの人にとって私は良い娘であったのだろうか。今となっては聞く術もない。
その後は思いのほか慌しかった。遺族がいつまでも泣いているわけにはいかないという事を、私は初めて知った。ショックから立ち直れない精神状態のまま、私たち家族は何とか相談しながら棺桶や祭壇を手配し、父を葬儀会社の搬送車に乗せて家に戻った。
夕方ごろ、会社の人が父の荷物を持って来てくれて、その中に朝持って行った弁当箱が入っていたので洗おうと蓋を開けると、隅に二粒グリーンピースが転がっていた。シュウマイに乗っていたのを残したのだろう。父はグリーンピースが嫌いだった。私はその小さな緑色が目の前で滲んでいくのを止められず、流しでスポンジをつかんだままぽろぽろと泣いた。
父の最後の自己主張を、とても洗い流してしまう気になどなれない。何だか父の面影まで流れてしまいそうで、私はいつまでもキッチンで弁当箱を持ったまま泣き続けた。




