2◆ 圭吾の暮らす部屋
いかにも男子学生専用といった外観のワンルームマンションは、圭吾の大学から2駅の所にあった。写メで何度か見ていた建物なのに、圭吾がそこで暮らしている実感がわいてこない。
ブザーを押す段階になって、私は大事な事に気付いた。驚かせたかったので来ることは伝えていなかったのだが、もしも外出中だったらどうしよう。しかしここまで来たらもう引き返せない。
時刻は午前9時30分。今日は学校が休みだし前夜は夜勤のバイトも入っていない。きっと圭吾は寝ているはずだ。どうか家にいてくれと祈りながら押したブザーの数秒後、ドアの向こうから聞きなれた掠れ声が若干不機嫌そうに「はい?」と応えた。
「本物?」
「私のコピーロボットがいたら見てみたいよ」
ドアを開けるなり固まった圭吾は明らかに寝起きの様子で、くしゃくしゃのTシャツに下はボクサーパンツ一枚。クーラーをつけっ放しで寝たのだろう、冷え切った室内には彼の大好きなThe Chainsmokersが流れている。初めてお邪魔する圭吾の新居は最初こそ違和感のかたまりだったが、小さなテーブルの上に青い琉球ガラスがあるのを見て、私はほっと救われた気分になった。
「どしたの、急に」
小さなビルトインの冷蔵庫から2L ボトルの緑茶を出し、圭吾がコップに注いで私に手渡す。それを一気に飲み下すと、ようやく戸外の熱が放出されたようで、ほっと心が落ち着いた。
「やだった?急に来たら」
「んなことない、かなり嬉しい」
「会いたかったんだよ」
「俺も」
圭吾が寝癖をつけた頭のまま、私に背後から負いかぶさってきた。嗅ぎなれた洗剤と汗の匂いがシャツからふわりと立ちのぼり、圭吾の存在を私の細胞の隅々に伝達する。
何も彼は変わっていない。甘えるときの癖も、私を抱く腕も、青い琉球ガラスも。取り越し苦労だった事がわかった途端、急に世界が色彩を帯びてくるから現金なものだ。幸せな気分で回された腕に小さなキスを落とすと、圭吾の体がびくっと震えた。
「あー、もうたまんね」
「圭吾?」
「会うなりサカるのもどうかと我慢してたのに、千夏子が悪い」
言うなり圭吾が私のTシャツを勢いよく捲り上げた。さっきのキスはこちらとしては親愛の情を表現したつもりだったのだが、彼のオトコノコの部分が朝っぱらから不埒な反応を示したらしい。こうなったら圭吾が止まらない事は私も経験上知っているので、大人しくベッドに押し倒された。
いつもより動きが性急で荒々しい。彼も私に飢えていたのだと思うとそれだけで嬉しくなった。やがていよいよという段になり、圭吾が枕元を探り始める。実家では巧妙に隠していたコンドームの置き場所が、こんなにわかりやすい場所になっているなんて。私は頭によぎったモヤモヤを口に出さずにはいられなかった。
「なんか、いつも使ってますって感じ」
「なに、何のこと」
ごそごそと準備に忙しい圭吾は私の話を半分も聞いていない様子だ。
「この部屋でもう何度もそれ、使ったとかじゃないよね」
「はあ、何言ってんの」
「だっておかしいじゃん、私いきなり来たのに。ちゃんと用意されてるの、なんだか変じゃない?」
「なに、他の女を連れ込んでるって言いたいわけ」
その後は返事などできない状況に追い込まれたので、一時議論はお預け状態になった。ごまかされているのかもと思ったが、戦闘終了後に圭吾が自分から話を蒸し返した。疑われた事が心外だったようで、ちょっと目つきが怒気を含んでいる。
「初めて独り暮らしする男だったら当然、彼女呼んだときのことシュミレーションすんだろ」
「そうなの?」
「そうだよ、だから千夏子がいつ来てもいいように用意してたんだよ」
「そうなんだ」
「千夏子にそんなことで疑われると、俺かなり辛いんだけど」
「ごめん」
その後、あっけなく仲直りした私たちは掃除をして買い物に行き、私が作った昼ごはんを一緒に食べた。一口しかない電気コンロは使いにくいことこの上なかったが、小さなお鍋でミネストローネもどきを作っていると、まるで一緒に暮らしているような錯覚に陥る。ちょっと気恥ずかしいが悪くない気分だ。
「こんな風に飯食ったの初めてだな」
「そうだね、いつも外食かコンビニだもんね」
「なんか新婚夫婦みたい」
圭吾も似たような事を考えていたようだ。一年半も付き合っているのに、環境が変わるだけで人間関係のバランスは別バージョンになってしまう。それは時に新鮮に感じたり、不安になったり。私たちの場合は距離がそれを増幅させているように思う。
ライ麦パンのサンドイッチを無邪気に頬張る圭吾を見ていると、しっかり心を持つべきは旅立った彼より残された自分なのだとしみじみ思った。
帰りは圭吾が新幹線の駅まで送ってくれたが、彼はそこで大人気ない駄々をこねた。初めて見送る立場になり、喪失感に耐えられなかったのだろう。今夜は泊まれとさんざん私を困らせたが、嫁入り前の娘、ましてや受験生たるものそんな放蕩が許されるわけもない。
やがて発車のベルが鳴ると、圭吾は動き出した列車の後を捨てられた子犬のような顔をして追っかけてきた。まるで昔の青春ドラマのようなクサい展開だが、私の涙腺を決壊させるには充分だ。まったく可愛い奴だと思う。
どうかこの遠距離のもどかしさが、私たちの恋を燃え上がらせこそすれ鎮火させませんようにと願いながら、私は日常が待ついつもの街へと時速220kmの流線型で運ばれていった。




