22◆ 鳴らない電話
一日千秋の思いで待っていた通知には「補欠」という文字が記されていた。
「補欠合格って、合格じゃないの?」
「合格した奴が辞退したら、繰り上げになる」
「微妙だね」
「微妙だな」
圭吾の受けた大学は補欠の順位が発表されないため、候補者は繰り上げの連絡をただじっと待つしかない。合格者の入学受付期限が10日間なので、その間私たちは生殺し状態だ。
そして昨日がその締め切り日。今日以降、繰り上げ該当者には午後5時までに連絡が来るようになっている。現在時刻は午後4時15分。私たちは圭吾の部屋で汗ばんだ手を繋ぎ合わせ、無言で時計を見つめていた。
圭吾がもう何杯目かのコーヒーに手を伸ばす。イライラしているのだろう、私だってそうだ。こんな追い詰められた気持ちになったことなんて、今まで経験した事がない。
私たちの運命の分れ目まであと45分。繋いだ手にぎゅっと力を入れて圭吾を見上げると、眉毛の傷がだらりと下がって泣きそうな顔になっていた。わかっているのだ、この時間まで連絡がないという事はほぼアウトを意味する。それでも奇跡を信じていた私たちの願いはやがて、無惨にも時間切れという形で粉々に打ち砕かれた。
「ごめん、ごめんな、千夏子」
「何で圭吾が謝るの、一生懸命やったんなら仕方ないよ」
「俺が悪い、俺の力が足りなかった」
「謝んないで、お願いだから」
「離れたくない、千夏子」
とうとう圭吾が泣き出して、私も我慢できずに大声で泣いた。きっと東京の大学に行けと行った圭吾のお父さんは、私たちがこんなに落ち込むとは思ってもいないだろう。私は抜け殻みたいになった圭吾を部屋に残し、彼の両親が店から帰ってくる前に羽根田家を後にした。
「羽根田くん、駄目だったの」
私の腫れぼったい目に気付いた母が見かねて訊ねる。私はもう隠そうとも思わなかった。彼氏が受験に失敗して来月から遠距離になるのに、悲しくない女がいるはずがない。
私は「駄目だった」とだけ言って自分の部屋に上がろうとしたが、珍しく母が私を呼び止めた。椅子を指で指している。何か話でもあるらしい。私は脱力しきった体を言われるまま椅子に預けた。
「もしかして自分も東京に行きたい、って思ってる?」
ドキッとした。圭吾の合格が危うくなった頃から胸の中に芽生えた企みを、もしや母は見透かしているのか。圭吾との遠恋生活をシュミレーションするたび「絶対無理」という結論に達した私は、東京の大学に行かせてもらえるよう親に頼んでみてはとか、奨学金をもらったらどうだろうとか、はたまた上京して就職してしまおうかとか、一緒にいられる手立てをあれこれ考えては悶々としていたのだ。
今日、圭吾の東京行きが決定した事で、いよいよその気持は強くなった。どうやってそれを親に認めさせようと思っていた所だったので、これは考えようによってはいいチャンスなのかもしれない。しかしきっぱりと母は言い切った。
「目指す進路が東京にあるならいざ知らず、そうでないなら行かせてあげられないわよ。お金の問題じゃなくて、千夏子のためにならない」
「なんで、東京でも勉強はできるじゃない」
お願いする前にバッサリ切られて、頭にカッと血が上る。お金の問題ではないなら、娘の幸せのために行かせてくれても良さそうなものだ。ひょっとしてあゆみの親と同じように一人娘を手放すのが寂しいという理由なら、それは親のエゴだ。私は唇を尖らせた。
「好きな人と一緒にいたい気持はわからなくもないけど、それで千夏子の人生が変わるとしたら問題でしょう」
「変わってもいいもん」
「じゃあ、逆の立場で考えてみてごらん」
母の声は穏やかだが、目は真剣だ。今まで何度か彼女のこんな表情を見た事がある。幼い私が人間として間違ったことをしでかすたび、決して声を荒げず、しかし絶対に譲らない毅然とした態度で母は私を諌めてくれた。
普段は放任主義の極みのような彼女が、ここぞという時に与える教訓。それはいつも私の目からウロコを落とす。でも今回だけは諭されるのが怖い。駄々をこねてでも圭吾を追いかけて行きたいのだ。たとえ馬鹿娘と罵られようとも。
「もし千夏子が受験に失敗して遠くの大学に行くとして、羽根田くんがあんたのために進路変えるって言ったら?」
とんでもない。そんな事をさせたら、圭吾にも彼の家族にも申し訳が立たない。それと同様に、もし私が東京に進路を変えたら、圭吾は困ってしまうだろう。
俯いていると、母が私の手を取った。ちょっとカサカサした、暖かい手だ。
「あなたたちは、大事なひとり立ちの時期よ。まずは羽根田くんのために、じゃなくて自分のために、だよ。じゃないと彼に重い責任を負わせることになるでしょ」
母に手を握られたまま、私はぽろぽろ涙を落とした。今日は合計何時間泣いただろうか。理屈ではわかっているのだ。私たちは親の庇護下にあって社会的に無力な存在だ。そんな二人が本当に手を取り合って歩き出すには、自分の始末を自分でつけられる大人になる必要がある。
「うんといい女になって、4年後に彼を迎えてあげよう」
私は嗚咽をこらえながら頷いた。さっきはショックで頭が沸いていたせいもあるが、冷静に考えてみれば生きる目的が彼氏だなんていただけない。自分が最も嫌悪するタイプの女に、私は自ら成り下がろうとしていた。
私は母に感謝しながらベッドに横たわって目を閉じた。明日からは根性試しの日が続く。しっかり眠って体力を温存しよう。
この日、私は将来のビジョンを確立する必要性を痛烈に実感した。私がしっかりしない限り、圭吾だって明日へ羽ばたけないのだ。




