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おくぶたえ  作者: 水上栞
第三章
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4◆ この世界に二人だけ

 


 そのうち圭吾が何度か路地を曲がり、その度に景色に鮮やかな電飾看板が数を増やす。下調べしていたのだろう、歩みに迷いがない。わざと上を見ずに歩いていたが、私だって気付いている、彼がどこに向かっているかぐらい。やがて圭吾が見た目はシンプルだがラブホテルと思しき建物の前で足を止め、私の腰を強く引き寄せた。



「千夏子、最後のチャンス。今ならまだストップできる」



 ゆっくりと圭吾を見上げた。その瞳に鮮やかなイルミネーションが反射している。



「大丈夫」



 にっこりと微笑む。それに促されるように圭吾が一歩踏み出し、静かにスモークの自動ドアが開いた。


 ここから先は私の知らない世界だ。膝が震えそうな私の横で、馴れた仕草で部屋ボタンを操作する彼が憎らしくて仕方ない。拳で肩を殴ってやると、その手を掴んでエレベーターに引きずり込まれ、呼吸が止まるようなキスをされた。



「ああもう、部屋まで待てない」



 耳元で囁く彼の呼吸が荒い。エレベーターが階に着き部屋のキーを性急に空けると、圭吾は私をボストンバッグごとベッドに押し倒した。早くも片手が私のTシャツを押し上げようとしている。入り口から数歩、ちらりと見たインテリアの派手さと、いきなりの圭吾の豹変に私の頭はパニックに陥った。



「ちょ、圭吾!やだっ!」



 圭吾の動きがぴたりと止まり、数秒じっとしていたかと思うと大きな息を吐き出して、どさりと私の上に倒れこんで動かなくなってしまった。



「最悪」



 私の右肩辺りで圭吾の声が聞こえる。どうしていいかわからず彼のリアクションを待っていると、ゆっくりと起き上がり正座して私に深々と頭を下げた。



「ごめんなさい、我慢しすぎてケダモノになりました」


「はあ?」


「ここんとこずっとその事で頭がいっぱいで」



 焦らなくてもあと僅かで手に入るものを。どんなに心待ちにしてくれていたのだろう。しょんぼり正座した姿が可愛く思えて、小さな笑いが零れた。圭吾はそれをお許しと受け取ったようで、安心した表情になるとベッドから下りて「風呂入ってくる」と言い残しバスルームに消えた。



 圭吾がいなくなったベッドに私はどさりと倒れこんだ。今日は色んな事がありすぎて、頭がくらくらする。自分が今、東京の繁華街のラブホテルにいるなんて、まるで夢の中の出来事みたいだ。しかしそのうち聞こえてきたシャワーの音が、これが現実であることを突きつける。


 あと何分、私は少女でいられるのだろう。この日のために新調した下着を出そうとバッグを開けると、鍵束に光太郎のくれたお守りがついているのが見えた。私は慌ててそれをバッグのいちばん奥に押し込む。何となく光太郎に観察されているようで恥ずかしかった。




「あがった」



 バスルームから出てきた圭吾はタオルを腰に巻いただけで、初めて目にする彼の裸体が思っていたより筋肉質な事に戸惑った。私は急に暴れだした心臓を宥めるべく足早にバスルームに向かったが、鏡に映る自分の表情がすっかり怖気づいている事に気付いて情けなくなった。


 決してセックスに抵抗があるのではない。しかし、異性に体を見られるのは恥ずかしい。とりわけ、きれいな女性をたくさん知っているであろう圭吾が、私の貧弱な体で満足できるか不安でならない。


 彼のことだからがっかりしても絶対口には出さないだろうが、多少なりとも気持は醒めるだろう。しかし考えてもどうしようもないので、私はなるべく念入りにシャワーを浴びると寝巻き代わりの綿のスリップドレスに着替えて圭吾の待つ部屋へと戻った。



「可愛いの着ちゃって」



 圭吾はベッドに横になってテレビを見ていたが、私が戻ってくると自分の左側の布団をめくって場所を空けてくれた。いきなりですかと思わないでもなかったが、ぐずぐずしても気まずい時間が長引くだけだ。私は覚悟を決めて彼の隣に滑り込んだ。途端にキスが降って来る。さっきまで飲んでいたらしいジンジャーエールの味が舌を刺激して、思わず体が強張るのを感じた。



「千夏子、俺のこと好き?」



 覆い被さる格好で、圭吾が私に問いかけた。まだ濡れている前髪が、はらりと落ちてなまめかしく輪郭を縁取る。なぜ今さらそんな事を聞くのかと思っていたら、声がだんだん切ない響きに潤み始めた。



「俺ばっかり好きってことないよな」



 そう言えば、圭吾からは何度も繰り返しもらったその言葉を、私からあげた事は一度もなかった。きっと彼なりに不安だったのだろう。私は彼の首にしがみつき、その耳たぶに私のありったけの想いを刻みつけた。



「好きだよ、じゃなきゃここにいないよ」



 その言葉を最後に、私たちの会話は途切れた。




 圭吾は私の体中、眼球以外のほぼ全ての場所にキスを落とした。私がそこだけはやめてと言っても容赦なかった。それは貪られるようでもあり、慈しまれるようでもあり、激しい羞恥とともにかつて体験した事のない不思議な高揚感を私に与えた。


 やがて裂かれるような痛みの向うに、私の少女時代が幕を閉じた。




 翌朝、アラームよりちょっとだけ早く目覚めた私は、昨夜バスルームで悩んだ事がどんなに下らない取り越し苦労であったかを噛みしめていた。傍らで子供のように眠る彼は、あるがままの私を求めていることを、これでもかというくらいに思い知らせてくれた。


 寝息で上下する裸の胸に耳を当てると、大好きな優しい鼓動が聞こえてくる。そこには二人を隔てていたシャツはもうない。私たちはお互い世界でいちばん近い存在になったのだ。あまりにも幸せだと泣けてくるのだということを、この日私は生まれて初めて経験した。




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