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おくぶたえ  作者: 水上栞
第三章
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2◆ シャツ越しのハートビート

 


 今度は羽根田さんが目を丸くする番だ。頭を拭いていたタオルを乱暴に跳ね除けると、膝で私の方に擦り寄ってきた。



「え、今なんて」


「もう言わない」


「いや待て、よく聞こえなかった、もう一回」


「お利巧さんにしてたらそのうちね」


「がーっ、お前かわい過ぎ、このやろっ!」



 がぶりと鼻を噛まれてしまい、私は悲鳴をあげながら笑い転げる。初恋の秋山くんの時には感じたことのない、体の中からゾクゾクするような「好き」を私は知ってしまった。少女の殻を脱ぎ捨てるのも恐らく時間の問題だろう。目の前でふざけた顔をしてはしゃぐ、ひとつ年上の彼が私のはじめての相手になるのかと思うと、ついまた顔に血が上ってしまう。



「おー、またピンクになった」


「やだ、見ないでよ」


「だって可愛いじゃん、もしかして風呂上りは全身ピンクとか?」


「どすけべ」


「うん、すけべだよ。でも待てるから、俺」



 キュッ、と抱き締められてしまった。彼のシャツからふわりと洗剤の匂いがして、それだけで胸がせつなくなる。気持がよくて目を閉じたままじっとしていると、やがて頭の上から羽根田さんのハスキーボイスが響いてきた。



「ねえ、千夏子」



 私は彼の胸に頭を預けたまま、小さく頷いた。シャツの向うに心臓の音が聞こえる。その優しい鼓動が聞けるのは、彼女だけが持つ特権だ。



「俺も男だから、千夏子が欲しくないと言えば嘘になる。むしろ、早く自分のものにしたくてたまんないけど、それより千夏子を傷つけたくない方が大きい」



 私は彼のシャツの裾をきつく握り締めた。イエスの気持が伝わるだろうか。鼓動に揺られながら、私は涙腺が膨らんでくるのを感じていた。



「千夏子がいやがることはしないから、安心して」



 頬を押し付けているシャツに涙が滲んでいく。決して自惚れているわけではないが、私に出会ったことで彼が変われたのなら、こんなに誇らしい事はない。それは私たちの歴史の記念すべき第一歩だ。


 私はシャツを握っていた手を彼の背中に回して、力の限り抱き締めた。見た目は細いが、こうしてみると意外なほど背中が広い。男の子なんだなあと改めて思う。


「圭吾は優しいね」


「千夏子」


「あんまり優しすぎると、私ばっかりわがままになっちゃう」


 羽根田さんの大きな手が宥めるように私の髪を撫でる。それだけでまた鼻の奥がツンツンするけれど、私はそれをぐっと堪えて笑顔で彼を見上げた。



「もっとわがまま言っていいんだよ、け……圭吾も」


「んにゃろっ」



 これでもかという位、ぎゅうぎゅうに抱きしめられた。ほっぺたにシャツのボタンの跡がついてしまいそうだ。



「そんな可愛いこと言っちゃうと、俺バカだから期待するよ?いいわけ、俺が本気で千夏子に迫っても」


「いいよ、圭吾なら」



 シャツに押し付けられたまま私がくぐもった声でそう言うと、羽根田さんは数秒固まった後「やられた」と私から腕を離して仰向けに倒れてしまった。失われた体温が少し寂しい。そのまま彼は目を手で塞いで何か考えている様子だったが、急に体を起こすと再び私の腰に腕を回して引き寄せた。



「じゃあさ、お願いしていい?千夏子がいやならソッコー断って構わないから」


「うん」


「あのさ、連休に東京まで二人で遊びに行かない?1日か2日、向こうに泊まることになるけど」



 甘えるように私の肩におでこを乗せて囁かれたその言葉は、いつも私に合わせて精一杯の痩せ我慢をしている彼の、飾らない本音の部分なのだと思う。首筋に触れる体温が心なしか熱い。きっと今シャツの胸に手のひらを当てたら、早鐘のような鼓動が伝わってくるだろう。



「いいよ」



 腰を抱いている羽根田さんの指先がぴくりと動いた。肩に乗せていたおでこがゆっくり持ち上がり、私の目を覗きこむ。



「いいの、本当に」


「うん、アリバイうまく作んなきゃね」



 その答えが何を意味するかは、もちろん私だって覚悟の上だ。女の子卒業まで猶予はあと1ヶ月。その間、思いっきり無邪気な少女時代を楽しんで、最後にうんと素敵な卒業式を東京で迎えるのだ。


 そう決めてしまうと、やけに晴れ晴れとした気分になった。私はもう何も怖くない。羽根田圭吾が好きだ、もっとこの人の近くに行きたいと心からそう思う。





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