16◆ カミングアウト
「彼女と別れた」
まるで世間話をするようにサラリと紡がれたその言葉は、私の全身にゆっくり沁みこみ、収まったはずの心臓をさっきとは違うビートで揺さぶり始める。
以前なら「自分には関係ない」と切り捨てられもしただろうが、今の私は羽根田圭吾という一見お気楽な人物が、実は臆病で脆い人間だという事に気付き始めている。
そのせいか一見クレイジーとも思える無鉄砲の向こうに、彼の本気が透けて見えてしまうのだ。ちゃんと話を聞くべきだと思ったので、黙って次の言葉を待った。
「あの後、色々考えてるうちに面倒くさくなって、女は他にもいっぱいいるし、千夏子ちゃんじゃなくてもいいじゃんかって、開き直って他の女の子とデートしてみたりもしたんだけど」
胸に嫌な痛みが走る。この気持は知っている、嫉妬だ。付き合う気なんてないくせに、それでも余所に手を出されると悔しいなんて、何て私は身勝手なのだろう。そのまま黙っていると、羽根田さんはなおも続けた。
「やっぱ無理なの、全然楽しくなくてイライラして。かえって千夏子ちゃんの事ばっかり考えちゃって。だから俺、どうにかしてそれを伝えなきゃって思って」
「それでフェンスに登ったんですか」
「だって電話にも出ないし」
「バカじゃないの、てゆーかバカだし!!」
拳を握り締める私の前で、羽根田さんは気をつけの姿勢を取った。
「千夏子ちゃんが好きです」
反則だ、すべてが反則ばっかりだ、この男は。弱くなったり開き直ったり。もしそれが私を惑わせるための作戦だとしたら、とんでもない手練で悪党だ。
「私のこと、好きかどうかわかんないって言ってたくせに」
「それ、実際よく考えてみたら違った。好きかどうかわかんない、じゃなくて何で好きかわかんないだった」
「何それ」
「今までは、見た目がかわいいとかオッパイでけえとか、いいなと思う基準がハッキリあったんだけど、千夏子ちゃんに関しては当てはまらない」
「けっこう失礼ですけど、それ」
「いやいや、千夏子ちゃんなら何がどうでもいいから好き、存在自体が好き」
かなり熱烈なカミングアウトに、聞いているほうが恥ずかしくなってきた。耐え切れず私が俯くと、羽根田さんが息を吐き出す音がする。彼も彼なりに緊張しているのだろう。今までの女性との付き合い方を考えれば、おそらくこういった形の告白は彼にとって初めての経験に違いない。
「なんか、俺の言いたいことばっかり言っちゃったけど」
私が顔を上げると、片八重歯が少しのぞいていた。苦笑いとも違う、アンニュイな笑顔だ。こういう彼の表情は初めて見たような気がする。
「だけど、今ので千夏子ちゃんがプレッシャー感じる必要全然ないから。もちろん答が欲しくないわけじゃないけど、俺のことをよく知ってほしい。その上でやっぱダメだって言われりゃ諦めつくから」
「一生考え中かもしれませんよ」
「ちょ、勘弁して」
ははは、と笑いが出て、ようやく緊張が解けた。羽根田さんはポケットからスマホを取り出すと、私に見えるように彼女と思しきアカウントを削除した。
「彼女とは本当に別れたし、正真正銘のフリーになったんで、せめて電話とかメッセージくらいさせて」
私はゆっくりと頷いた。まだ頭の中が混乱しているが、ゆっくりと考えて答えを出していこうと思う。
「今まで確かに俺、いいかげんな人間だったと思う。でも、頑張って千夏子ちゃんに相応しい男になるよう努力する。これからの俺を見てて」
そういうと羽根田さんは私の横を通り過ぎ、後ろ手に手を振って行ってしまった。緊張から解き放たれた私は軽いめまいを感じたが、そのクラクラの原因が告白されたドキドキのせいではなく、実はたこ焼きを求める動物的本能である事に気づいたのは、それから数十秒間のインターバルの後だった。