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おくぶたえ  作者: 水上栞
第二章
22/118

3◆ 足の小指と心が痛い



 うっかりしていたとしか言いようがない。そのバイクがこちらへ向かってくるのは見えていたのに、何故か立ち止まれなかった。


 買ったばかりのスケッチブックが空に向かって跳ね上がり、青い空をバックに真っ白いページが捲れていく様子を、ああきれいだなと思いながら私は地面に叩きつけられた。骨折がこんなに痛いものだとは知らなかった。たかが足の小指の分際で。



 私が事故にあったのは、夏休みもあと2日で終わるという日の午後。前日の晩に新学期の用意を整えていて、スケッチブックがもう数枚でなくなる事に私は気付いた。


 美術部は夏休みに決まった活動がない代わりに自由制作が課題となっていて、その絵を家で描きまくっていたせいだ。ついでに新しい絵筆も買おうと母から小遣いをせしめた私は、乗換駅の近くにある画材屋へ買い出しに行き、その帰りに配達のバイクにぶつかってしまった。



「どんくさ」



 見舞いに来たチヨが呆れている。バイクにぶつけた腰には大アザができただけで済んだのだが、運悪く転んだ拍子にサンダルの足が歩道の柵にかすったらしく、小指の骨を折ってしまった。


 通常ならギプスで固定して帰宅できるはずが、お医者さんいわく折れた部分に「転位」というのがあったらしく、手術した方が格段に治りが早いという。仕方がないので手術して2日だけ入院することになったが、そのせいで始業式には登校できない。


 看護士である母親は娘の怪我がさほど心配ない事を職業的に判断し、入院手続きを済ませるとさっさと仕事に戻ってしまった。ところがそれとは対照的に慌てふためいたのが父親だ。会社を早退し、真っ青な顔をして病院に飛んで来たのを見て、いつも無口なこの人が、実はけっこうな子煩悩である事を知った。



「何か食べたいものないか」



 手持ち無沙汰に病室のパイプ椅子に座っていた父は、結局しゃべったのはその一言だけで、それも私が首を横に振ると無言で頷いて帰ってしまった。その直後にチヨがやってきて現在に至る。


 痛み止めが効いているとはいえ足の痺れは半端ではなく、骨の髄がじんじんと鈍い熱を放っている。そのため気を紛らわせる相手がいてくれるのは有難かった。面会時間はあと30分しかないが、ギリギリまで粘って欲しいと思っていた時、病室のドアが開いてあゆみが顔を覗かせた。



「千夏子ぉ!」



 あゆみは白いキャミソールの上にペールグリーンのボレロを羽織っていて、それが少し日に焼けた肌によく似合っている。あゆみはどうやら私と違って夏を満喫した様子だ。そんな彼女の後ろから、くたびれたデニムのシャツが入ってきた。


 チヨが「おう射手矢」と声をかけると露骨に困った顔をしている。まさか彼女とのツーショットを、こんな所で中学の同級生に見つかってしまうとは思ってなかったのだろう。面倒くさそうに目礼だけすると、父が座っていたパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろしてしまった。



「これ、射手矢くんのお母さんから」



 そう言いながらあゆみがバッグから取り出した密閉容器には、切ったメロンが入っていた。その容器は射手矢家でよく見かけるもので、どうやら彼女は光太郎の母とお近づきになったようだ。


「冷蔵庫に入れとくね」と甲斐甲斐しく立ち働くあゆみを見ていたチヨが、やがてタイミングを見計らって立ち上がった。



「私、また来る。何かあったらメールして」


「うん、ありがと」



 その「何か」が体調のことだけでないのがニュアンスで感じられた。チヨはあゆみとは初対面だが、きっと彼女が私に代理告白を頼んだ人物だと察しただろう。チヨは出際に光太郎に軽く手を上げた。



「じゃあね、射手矢」


「おう」



 スライドドアが閉まった途端、あゆみが興味深そうに身を乗り出してきた。甘酸っぱい系のコロンがふわりと香る。足をぐるぐる巻きにしてパジャマの私と比べると、彼女は100倍くらい女の子指数が高い。私は急に居たたまれない心持ちになった。



「ねえ、中学の友達?」


「うん、2年の時は光太郎も同じクラスだったんだよ」


「そうなんだ、大人っぽい子だね」



 同意を求めるようにあゆみが光太郎のほうを振り向くが、光太郎は話に加わりたくないのか、ポケットの小銭をチャラチャラ言わせると「自販機」とだけ言って、出て行ってしまった。彼女ができても無愛想なのは変わらないらしい。



「相変わらずだね」


「まあね。でも先週、一緒にプールに行ったの」


「それで日焼けしてるんだ」


「そうそう、それでね」



 あゆみがぐっと体をこちらに乗りだし、甘い香りがさらに強くなった。ここは四人部屋で、私のほかにあと一人お婆ちゃんが入院している。その人に聞かれたくない話なのだろう。私も何とか動く上半身を傾けてあゆみの口元に耳を近づけた。



「キスしちゃった」



 鼓膜が麻痺してしまったのかと思ったが、お婆ちゃんが見ている小型テレビの音はちゃんと聞こえる。麻痺したのは私の心だ。私は少なからずショックを受けていた。


「プールの帰りにね、やっとしてくれたの」


「そうなんだ。良かったじゃん」



 淡々と返事をするのがやっとだった。付き合い始めたのだからキスするのは当たり前なのだろうが、光太郎とあゆみのそのシーンがイメージできない。


 理由はわかっている。自分で認めるのは悔しいが、要するに私の思い上がりだ。振った側であるにもかかわらず、光太郎はまだ私を引きずっていると信じていたのだ。おめでたい馬鹿女め。私は自分で自分を罵った。



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