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おくぶたえ  作者: 水上栞
第六章
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11◆ 青春、第二章のはじまり



 自宅に帰ると、長くなった春の夕陽が黄金色にリビングを染めていて、キッチンに作りかけの煮物が放置されているのが目に入った。


 出て行ったときと何も変わらないようでいて、時間だけは確実に流れ続け、その僅かな時が知らないうちに私たちを未来へと追い立てる。




 私は煮物を放棄して、自室のベッドに横になった。とても複雑な気持ちだ。悲しいのとはちょっと違う、胸の真ん中をきゅっと縛られたような、不思議な感覚だった。



 圭吾に対して恋心があったのかと自身に問えば、それはすでに過去のものであり、復縁するつもりは微塵もなかった。びっくりしたのは確かだが、今は彼の決心を応援したい。では、この胸を支配する感情の正体は何か。


 しばらく考えたあと、遠い記憶がよみがえった。



「――卒業式、だ」



 通学していたころは、学校はそこにあるのが当たり前だったけれど、いざ卒業となると様々な思い出が蘇り、離れがたい思いがこみあげてきた。あんなにテストが嫌いだったのに、仰げば尊しで目が腫れるほど泣いた日が昨日のことのようだ。



 今の気持ちは、卒業式の寂しさに似ている気がする。奇しくも時を同じくして、私の青春を彩った男の子たちが、大人の顔をして飛び立っていった。そのことで、見えていなかった時の流れを強く感じてしまったのだろう。



 もう私たちは、小牧台3号公園の子どもではなく、制服でデートをしていた高校生でもない。私もいくつかのステージを超えて、間もなく新しい世界に飛び立とうとしている。寂しさと、期待と、不安と、全てが入り交ざった複雑な心境。この一瞬を何かに刻み込んでおきたいなと思った。




「よしっ!」



 私はベッドから跳ね起き、さっき荷造りしたばかりのダンボールを漁りはじめた。そして中から愛用のスケッチブックを取り出すと、エボニーの鉛筆を手に取る。もう何回助けられたかわからない、自分をゼロに戻すための儀式だ。


 真っ白い紙の上に、思うままにストロークを打ち込む。ずっとずっと昔、そう、高校卒業の記念に自画像を描いた時のように、ありのままの今の私をここへ記録しておくのだ。鏡に映った私の顔は、相変わらずお餅のように白くて、おくぶたえの地味な面相である。お世辞にも美人とは言い難いが、こういう不完全な自分を、いや、それだからこそ愛しく思えてしまう。



 完成した自画像は無表情なようでいて、ちょっと不安げで、それなのに微笑んでいるようにも見える。この何とも言えない表情が、5年後、10年後にはどんな冒険を潜り抜け、まだ見ぬ自分に変貌するのか。



 私は絵に定着液をスプレーすると、再びダンボールに突っ込んで煮物を再開した。さっきまで夕暮れだった空には、もう濃いインクブルーの闇が降りてきている。明日の朝、再びあの空に太陽が昇ったら、残された故郷での僅かな日々を楽しむべく、外へ出て早春の息吹に浸ってみよう。



 私は腕まくりをして、猛然と野菜を刻み始めた。佐藤千夏子の青春譚、間もなく第二章の幕が開こうとしている。






 日本人女性の平均寿命、87.26歳。だとしたら、22歳の現在はようやく四分の一を生きた辺りだろうか。そう考えた途端に根拠のない追い風を感じてしまう私は、やはり根がシンプルな人間なのかもしれない。



 亡くなった父が昔、人生を季節に例えて教えてくれた。春は、母なる大地から命が芽吹く「誕生の季節」。夏は葉を繁らせ若い実を結び、地下に大きく根を張る「成長の季節」。まさに今の私がそれにあたる。この時期をいかに生きるかにより、秋の「収穫の季節」に熟する実の味わいも違ってくるだろう。


 そして、やがて来る長い冬。一生を振り返り、無に帰する「終焉の季節」。今はまだ想像さえつかない遠いその日まで、これから私は営々と日常を繰り返し、たくさんの出逢いと別れを積み重ねていくのだ。



 恋も、またきっと訪れる。ふと気付いたら隣にいたような穏やかな恋か、崖から転げ落ちるような激しい恋か。


 どちらにしても、駆け引きなどできない私の事だ。あるがままの佐藤千夏子を曝け出すしかないけれど、できればお互いの生き方を尊重できて、ふたり並んで歩いていける、そんな大人の恋愛なら素敵だなと思う。



 最後の夕日が、闇と闘いながら山の稜線に消えていった。東京で見る夕日はどんな色彩で世界を染めてくれるのか。未来の自分に期待を込めながら、私は煮物の仕上げにかかった。






「おくぶたえ」完





 最後までお読みいただきありがとうございました。完結記念、および皆様への感謝を込めて、千夏子のその後を描いた「特別編:トウキョウライフ」をご用意しております。よろしければどうぞお楽しみください。


水上栞


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