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おくぶたえ  作者: 水上栞
第六章
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05◆ 帰ってきたドラ息子



 12月に入って急に寒くなってきた。歳末セールでコートを新調しようか迷った挙句、来年もしかして転職や引っ越しがあるなら蓄えが必要だと諦めた。


 経済面では人一倍しっかりしているつもりの私も、こと人間関係、目下の場合は圭吾に関してであるが、そっち方面はいくら考えても迷路を彷徨ってばかりでスタンスを決めきれないでいる。そんな中で私は新年に提出する予定の辞表を書いた。「一身上の都合により」というお固い文字が、便箋の上に黒々と鎮座ましましている。


 いっそここから一足飛びに、半年後の世界へ飛べないものか。結果を待つのは苦手だ。例えそれが、自己の成長に必要なプロセスであったとしても。






 圭吾から連絡があったのは、あれから2週間ほど経った頃。正直、すぐに電話があると思っていたので意外だった。率直に言えば、もう一度やり直したいと言われるかと思っていたのだ。


 私の勘が正しければ、あの時の圭吾からはそういう気配が濃厚に感じられたし、それにどう対応しようかと自分なりに考えてモヤモヤしていたのだが、何日経っても電話がない。もしや彼氏がいると言ったから諦めたのか。いや、圭吾の性格なら一旦へこんでもダメもとでアタックしてくるはずだ。そう考えると、圭吾から感じた気配は私の思い上がりの産物だったのかもしれない。



 そんな事を考え疲れた頃に、いきなり「今からそっち行っていい?」と不意打ちを食らった。しかし後になって考えると、結果的に良かったのだと思う。あれこれ策を講じるよりも、自然体で話ができた。そしてそれにより、私の中の靄がかかった部分もクリアになったのだ。






「なに、その頭」



 マンションのエントランスに佇む圭吾を見て、思わず声を上げてしまった。この間はライオンのような金髪ロングだった圭吾の髪が、何と坊主頭になっている。圭吾はへへ、と照れくさそうに笑うと「寒ぃ」と言って手に持っていたニットのキャップをかぶった。彼の生涯に於いて初という坊主頭の、その理由を問うた私に、圭吾は神妙な面持ちで一礼をした。



「お陰さまで、決心がつきました。俺、今から、親父とお袋に頭下げてくる」


「え、ちょっと待って、それどういう事?」



 会うなりいきなり礼を言われて、意味がわからない私に圭吾が語ったところによると、先日の私の訪問以来、彼は彼なりに自分の人生を見直していたのだそうだ。本当は自分でも「このままじゃマズい」と思いながら、自堕落な暮らしから抜け出せないでいた所に、いきなり私が出現した。それは、色んな意味で彼にとってのスイッチになったらしい。



「ぽん、と背中を押された感じがしたんだわ。俺、なにやってんだろうな、ってアホらしくなって」


「でも、それだったら他の人にも言われた事でしょう」



 そう言うと、圭吾は「うーん」と考えた後、



「こう言うと、また千夏子に怒られるかも知れないけど」



 と、片八重歯を覗かせた。あの頃と比べていくらか大人びているとは言え、懐かしい笑顔に思わず胸が締め付けられる。騙されんなよ、と警告を発する左脳の忠告に従い、私は固い表情を崩さず彼の二の句を待った。



「昔、俺がまともでいられたのって、千夏子のお陰だった気がする。何て言うんだろ、俺は自分のために頑張って何かすんの苦手だけど、誰かのためならけっこうやれる自信あるっていうか」



 ああ、それは言えているな、と思った。私との将来のために卒業を目指した圭吾。就職せず酒屋を継ぐことを決めたのも、家族のためだった。なのに、自分ひとりの事になると箍が緩んでしまう。その性質は彼の良い所であり悪いところでもある。



 要するに、彼にはいい意味での足枷が必要なのだ。しかし現在の彼にとって、私は枷になってやれない。それをぴしゃりと言うと、圭吾は「うん」と言ってキャップの上から頭を掻いた。



「それはわかってる。だから、もし千夏子がここにいたら何て言うかなって考える事にした」


「何、それ」


「迷ったとき、千夏子にどう怒られるのかシミュレーションする」



 呆れてリアクションが取れない。いつの間にか私は、彼のルールブックにされてしまっている。偉い哲学者ならいざ知らず、こんな未熟で迷ってばかりの人間に、どんな導きを求めるというのだ。しかしその次に彼の口から出た言葉を聞いて、思わず納得してしまった。



「千夏子なら、親に謝って大学を卒業しろって言うよな」



 つまり、一般レベルの常識論だ。そんな誰もが唱える事でさえ、圭吾は自分では考えが及ばないのだ。だから誰か本当に信頼できる人間の助言を欲しがる。今まで何度も私に決断を委ねたのも、きっとそういう理由からだろう。幼いと言えばそれまでだが、考えようによっては扱いやすい男である。



「そうだね、だって圭吾はやればできるもん」



 それを聞いて圭吾の顔がパッと輝き、嬉しそうに頷いた。まるで小さな子供を煽てるような、そんな気分だ。圭吾は最後に少し照れたような顔で私に向かい、先日感じた熱っぽい視線を送って来た。やはり勘は外れていない、これはそうとしか考えられない。



「卒業できるように、頑張ってみる。論文の合間にちょっと休憩する時とか、電話してみるかも」


「それ位なら、いいよ」


「本当は、まだいっぱい千夏子に言いたいことあるけど、全部それ終わってから、ちゃんとしてから言うわ。だからその時は、また時間作って」


「うん、わかった。がんばって」



 やがて圭吾は手を振りながら、寒い夜の街へと消えていった。今から実家へ帰り、この勢いのまま謝って怒られて仲直りするのだろう。困った息子を持って、ご両親も大変だなと思った。


 スーパーで泣いていたおばちゃんの顔が目に浮かび、鼻の奥がツンとする。彼女はぷりぷり怒りながらも、明日は息子のためにハンバーグを焼くに違いない。頑張れよ、と心で圭吾にエールを送り、私は冷えた手を擦りあわせながら自分の部屋に戻った。




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