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おくぶたえ  作者: 水上栞
第五章
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16◆ 懺悔とリセット



 兼子さんとの話し合いは、翌週の金曜に行われた。実はあれから毎晩のように携帯に電話がかかってきていたのだが、そのニュアンスが当然のように「俺の彼女」的な響きになっていて、正直逃げだしてしまいたかった。しかし断りはちゃんと会って伝えるべきだと思ったので、電話では曖昧な受け答えに撤し、とにかく今度一回会って話をしましょうという事で金曜を迎えたのだ。


 たぶん、途中からは彼も様子がおかしいと気付いていたと思う。予約していたちょっと高級な居酒屋の小上がりに座って注文を終えるなり、兼子さんがずい、とこちらに身を乗り出した。



「佐藤さん、俺、もしかして避けられてた?」



 直球が飛んで来た。こちらから話を切り出そうと思っていたので、完全に先手を取られて私が固まっていると、兼子さんは「お疲れさん」とビールのグラスを持ち上げ、私の前に置きっぱなしになっているグラスにカチンと当てて乾杯のポーズをした。



「まあ、飲みましょうよ」


「あ、はい」


「まずは飲んで、話はその後」



 そう言われてしまうと、かえって話がしにくくなる。それが彼の作戦かとも思ったが、どうやらそうでもないらしく、普通に飲んだり食べたりしながら、軽い話題を振ってくれる兼子さんからは、私に対する精一杯の気遣いが感じられる。


 そんな彼の姿を見ながら、私は居たたまれない思いになった。兼子さんはハンサムとは言えないが爽やかな好青年だし、話題が豊富で仕事も出来る。世間で言うところの上玉の部類であるにも関わらず、私みたいな愛想なしの身勝手女に振り回された挙句、今から最悪な振られ方をするのだ。


 もしも私か彼のどちらか一方でも、心を求めない遊び人だったら話は簡単だったのに。しかし現実はそうではなく、私は料理がほどほどに進んだ頃合を見計らって箸を置き、いざ話を切り出そうと勇気を総動員した。



「あのですね、兼子さん」


「来たか」


「え」


「いや、振られるんでしょ、俺」



 兼子さんはそう言って胸ポケットから煙草を出して口に咥えた。いつもなら食事の途中では絶対に吸わないし、バーなどでも断ってから吸う人なのだが、彼も私と同じくらい緊張しているのだと、この時ようやくわかった。もうこれ以上、この人を傷つけられない。私は覚悟を決めて、深々と頭を下げた。



「ごめんなさい、私、あなたを利用しました」



 兼子さんは黙って、煙草の火の先を見つめている。私はなるべく簡潔に、言い訳がましくならないよう、彼と関係を持つに至った経緯を白状した。兼子さんはそれをじっと聞いていたが、途中で何度か眉間に皺を寄せた。最高に気分の悪い話だろう。申し訳なくて涙が出そうになったが、泣くのはずるいと思ったので必死にこらえて話を続けた。



「私が馬鹿だったせいで、こんな事になってごめんなさい。兼子さんはとてもいい人です、何の落ち度もありませんから」


「とてもいい人、か」



 兼子さんは長い息を煙とともに吐き出すと、煙草を灰皿に押し付けた。



「それ男にとっちゃ、いちばん辛い言葉なんだけどねえ」



 兼子さんは苦笑いを一瞬見せると、温くなったビールを咽喉に流しこみ、一息ついてネクタイを緩めた。



「正直言って、かなりダメージでかいわ。ようやく俺の気持が通じたって、マジ嬉しかっただけに」


「ごめんなさい」


「まあ、途中から何となくおかしいなとも思ったけどね。ただ、できれば最初から正直に打ち明けて欲しかった。そしたら俺だって、違う作戦練ってたかもしれないし」



 私は俯いたまま黙っていた。いっそ激しく罵られた方がどんなに楽か。兼子さんは2本目の煙草に火をつけると、ちょっと難しい顔で何かを考え、私の方を向いてにっこりと笑みを見せた。



「今から挽回のチャンスは、ないかな」



 微笑んだ瞳の奥に縋るような光を感じた瞬間、私はたまらず顔を伏せた。男としてのプライドを踏みにじられて尚、私を求めてくれる彼。その顔を真っ直ぐに見る勇気は私にはない。


 心の中でごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返しながら、私はかぶりを振ってノーの意を表すのが精一杯だった。そのまま顔を上げずに黙っていると、兼子さんがテーブルの端の伝票を引き寄せる気配がした。



「わかった、じゃあもう、これは終わった話という事で。一緒に出るのはあれだから、佐藤さん、先に出て」


「いえ、今日は私が」



 こんな事になったうえに、彼にお勘定をさせるのは申し訳ないと思い、私が伝票を奪おうとすると、兼子さんが断固とした声でそれを制した。



「いいから先に出て、じゃないと俺、カッコ悪すぎ」






 帰りの電車の中で私は、自己嫌悪の塊になっていた。ドア横の壁にもたれて車窓を見ると、まるでこの一週間で何年も老けてしまったような、そんなしょぼくれた自分の顔が映りこんでいる。兼子さんはいったい私のどこが良かったのだろう。地味な顔、典型的な日本人体型、そのうえ過去を引きずる根暗な女。全くもって今の私は自分の事が好きになれない。


 本気でこの状態をリセットしなければ、今後の人生にも影響が出てくるのは間違いないだろう。そのためにはまず自分にきちんと向かい合い、心の中の迷いを吹っ切る事が先決である。このままの自分で生きていくのは、たぶんもう限界だと思った。




 そんな気持で帰宅した私が助けを求めたのは、チヨへの電話でもなく、逃避するための眠りでもなく、一冊のスケッチブックだった。迷ったり傷ついたりするたび、いつも私が辿りつく真っ白なフィールド。いわば原点回帰ともいえるその行為が、やはり今度も私にヒントをくれた。何故ならこの数週間後、私は運命の分かれ道とも言える、素晴らしい出会いを得る事になったのである。




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