10◆ 苦しいときのチヨ頼み
私があゆみとの約束を果たしたのは、8月初旬。夏休み登校日のHR後の教室だった。
たぶん、あの日の記憶は心の中の保管場所を変えながら、死ぬまで私の中に残るだろう。暑くて、汗をいっぱいかいていて、窓の外から野球部の掛け声が聞こえていて。そして嫌になるくらい、自分が女であることを意識させられた出来事だった。
『明日は登校日だから話できるよね。何とかチャンスつかんで。お願いします』
あゆみからのメッセージには、いつもこれでもかとスタンプがつく。それが今日はないせいか、言外のプレッシャーを感じてしまう。
あれ以来、あゆみとは全然顔を合わせていない。そのかわり3日とあけずに状況確認のメッセージが来るようになった。しかし光太郎は部活の夏季合宿やら何やら忙しいようで、近所とはいえなかなか捕まらない、というより私が意図的に避けていると言った方が正しい。捕まえて伝える内容が内容だけに、気が重いのだ。うまく言えるかどうかも自信がない。
とは言っても時間は思いのほか早く過ぎていく。あゆみのメッセージ画面を眺め、私はもはや逃げられないことを悟った。
幸いにも明日学校に行けば、あとはまた半月以上夏休みが続く。光太郎とだって会わずにいようと思えば簡単にできる。言い逃げしたあと、ちゃっかり家に引き篭もればいいのだ。
当初予定していた華々しい高1の夏休みとは趣が変わってきたが致し方ない。せめて夏の終わりのマイ誕生日にはパーッと美味しいものでも食べようと、私は努めて楽観主義を装い布団にダイブした。
『ちょっと話があるので、教室に残ってください』
それだけ打ち込むのに何度も消しては書き直し、ようやく送信した後、背中に重たい汗が伝うのを感じた。送信文面を見て、何で光太郎に敬語なんだと後悔しているところへ手の中で着信のブルブルが響き、さっきの倍ほどの汗が噴き出す。
「りょ」
その短い文面からは何の感情も読み取れない。しかし、いつもはズカズカ自宅に侵入してくる女が教室に残って話がしたいなど、どうも様子がおかしいと思われている事は確実だろう。
スマイルだ、スマイル。気軽な感じでサクサク話を進めるのだ。きっと私が自分で思っているほど、これは深刻な話ではない。高校生になれば、こういう色恋の駆け引きは日常茶飯事なのだ。そう念じながら私は小さな手鏡に向かって、ナチュラル笑顔の最終確認をした。
実はあゆみから頼みごとがあった後、私はある人物に相談を持ちかけていた。
あまり友だちの多い方ではない私にも、中学時代には特別に仲良しだった子が何人かいた。その中で最もシニカルで歯に衣を着せぬ人間が瀬川チヨであり、同い年ながら私の姉貴分と言ってもいいようなポジションにある。
卒業後はお互い違う学校に通うようになったため、平日は滅多に会う事もなくなったが、その彼女と先日、久方ぶりに小牧台駅前のファーストフードでお茶をした。有体に言えば、光太郎の件をどう処理すべきか教えを請うためだ。
私たちを昔から知っていて、現在は別の学校に通っている彼女なら、きっと客観的に正しい答えを導き出してくれるだろうと私は踏んでいた。
「何を悩んどるのか私にはわからん」
100円メニューのチキンを甘ったるいシェイクで流し込みながら、チヨはおよそ私が望んでいたのとは異なる答えを下さった。そんな脂ぎった食物をしこたま食べても、彼女の体は枝のように細い。今度生まれて来る時は私も胃下垂になりたいと、彼女を見るたび本気で思う。
「あんたが好きな相手との橋渡しを頼まれた訳じゃないんだし。サラサラッと伝えて終わりでいいんじゃない」
「その通りなんですが」
「何が引っかかってるわけ」
「まあ、私がそういう人から伝わるの嫌いっていうのもあるし」
ふむ、と言いながらチヨが今度はポテトに手を出す。もちろん豪気にLサイズだ。私たちのテーブルは芋と油の匂いでむせ返っている。
「それに何だか、雰囲気変わるような気がするんだよね」
「雰囲気って何の」
「昔からの私と光太郎の間柄、みたいな?」
「そりゃいつかは変わるでしょ、うちらいつまでも子供じゃないし。あんた幼稚園の仲良しこよし、大人になってもしたいわけ」
ど真ん中ストレートがバンバン入ってきて、それを私は打ち返せない。チヨの言うことは、非常にまっとうな意見だと思った。友人から自分の望む言葉を引き出そうなんて考えた私が甘かったのだ。
いや、チヨは友人だからこそ、半端に話を合わせたりはしないのだと思う。私は心の中のドロドロが掻きだされて行くような、むしろそんなスッキリした気分になった。
「どっちにしてもお互い彼氏や彼女ができたら、今の関係は無理だよ。」
チヨが食べ終えたポテトの袋をくしゃくしゃと丸めてトレーに置く。やっぱり彼女に相談して良かった。自分の至らなさが露呈して痛い部分もあったが、取りあえずは迷いが吹っ切れた。気が重いのは相変わらずでも、何とか夏休み中には任務を遂行できるだろう。
「もう一回聞くけど、射手矢のこと何とも思ってないんだよね」
「うん」
「なら仕方ないさ、引き受けた以上は伝えなきゃ」
「だね」
ありがとね、と手を振って私は駅前から自転車で帰宅した。ずっと後で聞いた話では、私の背中を見送りながらチヨはその時こう呟いたそうだ。
「射手矢かわいそうに」