プロローグ:恐怖の飛行深海イカザメ
天気晴朗、波も穏やか。
うん。いい釣り日和だ。
本当は薄暗く曇っているくらいの方が魚の警戒心が薄れて釣りやすいのだが、気分が良い日にのんびりと釣り糸を垂らすには、晴れて暖かい日の方が良い。
海面を覗き込めば、寒い時期特有のよく澄んだ水。
そして薄っすらと見える黒く小さな魚の群れ。
おおかた小イワシか小ネンブツダイだろう。
堤防の上にレジャー用パイプ椅子を置き、ライトバスロッドを組み立てる。
その先に2本針の胴つき仕掛けをセットし、青イソメを付けてスルスルと水面へ落としていく。
コツン、と錘が海底に落ちた感触が穂先に伝わってきた。
固い海底、時折混じるゴリゴリとした振動は、堤防下に点在する「石積み」に仕掛けが落ちたときのものだ。
竿の穂先をゆっくりと上下させ、錘がコツンコツンと海底を小突くように仕掛けを躍らせる。
何回かその動作を繰り返した後、今度は錘を海底から僅かに浮かせた位置で止め、穂先に俺の全神経を集中する。
コクッ…
「食った!」
穂先が曲がった瞬間、手首のスナップを利かせ、竿を小さく鋭く跳ね上げた。
直後、竿が大きく曲がり、激しい振動が手元に伝わってくる。
ゆっくりとリールを巻くと、白っぽい魚の影が海面に見えた。
15㎝ほどの白メバルだ。
小さな個体だが、大きさの割にはパワフルで、華奢なライトロッドを大きくしならせてくれる。
引きが弱まったところで竿を立て、海面から魚を抜きあげる。
春告魚、メバル。
今日の気分にピッタリの魚だ。
メバルをナイフで締め、小型クーラーボックスに入れる。
もう2~3匹は釣っておきたいので、再度仕掛けを投入。
同じように海底を叩き、アタリを待つ。
ふと、俺の視界の端に三角形の黒い物体が映った。
なんだ? と、その方向を凝視する。
一瞬小型のヨットか、ラジコンボートの類かと思ったが、違う。
海面を走る三角形は、高さが2mほどで、その下には巨大な青黒い影……。
見まごうことなく、サメの背びれである。
「でけぇ……!」
思わず声が出た。
それほどまでにその魚影はデカかった。
長さはゆうに20mを超えるだろう。
ホホジロザメやジンベエザメの、飛びぬけて巨大な個体よりも遥かにデカい。
随分遠くにいるのだが、本能的な恐怖を覚える。
背中を嫌な汗がダラダラと流れ落ちるのが分かる。
目の前を悠然と泳ぎ回り、俺を散々怖がらせた後、やがてその背びれはゆっくりと海中へ姿を消した。
その緊張感溢れすぎる数分に、俺は思わずへたり込んでしまった。
「こ……怖かった……」
魚は生きている限り成長するという。
あの個体も気の遠くなるような時間をかけて巨大化したのだろうか。
海の神秘に恐怖と感動を覚えつつ、俺は釣りを再開しようと、立ち上がろうとした。
直後。
「グオオオオオオオ!!」
肉食獣を思わせる咆哮とともに、先ほどのサメが俺目がけて飛んできた!!
「うおあああああ!!」
俺は一瞬のうちに腰を抜かし、堤防に倒れ込んだ。
それが功を奏し、フライング・シャークアタックを回避することに成功した。
サメは俺を見失ったのか、空を舞い、クルクルと回転して辺りを見回している。
ジャンプとかではない、完全に空を飛んでいる。
ヤバい!目が合った!
「グオオオオオ!」
またしても咆哮をあげ、飛来する巨大ザメ。
俺は必死に体を捻り、2撃目を回避した。
サメの大口が堤防を削り、俺がさっきまで倒れていた場所を崩落させる。
無茶苦茶な化け物だ!
ズン!
今度は足もとを激震が襲う。
サメが堤防に激しく体当たりし、破壊しようとしているのだ。
いや、「破壊しようとしているのだ」ではない。
普通、軟骨魚のサメがコンクリート壁に体当たりをしようものなら、骨はバキバキ、内臓グチャグチャで即死である。
たとえそれが20mを超える巨体であっても、だ。
「サメ映画じゃねえんだぞ……!!」
破壊され始めた堤防から俺は這って逃亡を図る。
しかし、何かが俺の足をがっちりと掴んだ。
そして、鈍い痛みが襲ってくる。
「ぐああ!! 痛てぇ!!」
激痛の走る方向を見ると、半透明の触手のような物体が絡みつき、鋭い鉤づめが皮膚に食い込んでいた。
イカ……? 何で……?
そんな疑問を感じる間も無く、俺は凄まじい力で海面へ引きずられる。
爪を堤防にかけ、必死で抵抗するが、まるで敵わない、あっという間に水中へ引きずり込まれ、間髪入れず襲って来たサメに俺は丸呑みにされ……。
死んだ。
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「本当に申し訳ないっス!」
今俺の目の前で、白衣にグルグル丸眼鏡というコテコテの博士姿をした女性が頭を地面に埋め込まんばかりの勢いで土下座している。
そして俺の頭上には、俗に言う天使の輪っかが浮かぶ。
俺、矢崎 雄一は22歳の春、謎の飛行ザメに食われて命を落とし、今はあの世にいる。
何を言っているのか分からないだろうが、事実である。
「正確には飛行深海イカザメっス。後ろ半身がニュウドウイカの形になってたっショ?」
「ああ、あのイカの足ってそういう……。いや、まあ、それはいいから俺の蘇生手続きってやつをさっさと進めてくれないかな」
彼女は水棲生物学者天使、ミコト。
何でもあのサメは彼女が異世界向けに無許可で開発中だった新種らしく、それが逃げ出して俺を襲ったらしい。
B級サメ映画でもなかなかお目にかかれない理不尽さだ。
神や天使の過失で死んだ場合、申請を通せば時間を遡上して蘇生出来るとのことで、俺は今ミコトの研究室でその審査が通るのを待っている。
「まあ、お茶でもどうぞ」と、言われたので、とりあえず部屋の隅の椅子に腰かける。
彼女が出した緑茶は、やけに青臭い、いかにも質の悪いものだった。
「さっきネット申請出したんで、1時間もすれば死神局の方から認可がもらえるはずっス。ちょっとその間に聞きたいことがあるんスけど……」
ミコトが椅子を動かし、こちらへ迫って来た。
この人よく見ると白衣汚ねぇ……。あとなんか……イカ臭い……。
「雄一さんって釣りするんスよね? 雄一さんならこの魚、どう釣るっスか?」
そう言いながら、ミコトは落書き帳のようなものを突き出してきくる。
描かれていたのは黒く、ずんぐりとした俺の知らない魚の絵。
パッと見、ナマズのようだが、口先が鳥の嘴のようになっていて、いかにも頑丈そうな歯が付いている。
「ミコトナマズ」というのはこの魚の名前だろうか……。
「主食は植物。水面に落ちてきた木の実や、水中に突き出た木の枝を齧るって設定なんスよ」
なんでも、近々新種生物設計コンテストがあるらしく、それに優勝すると実際の生き物として異世界へ送り込んでもらえるらしいのだ。
設計が細かいほど良いとのことで、生態から釣り方までガッツリ作り込みたいらしい。
「ふむ……」
彼女の絵や、殴り書きされた設定集に目を通していく。
生息域は湖や川の淀み、水面まで木々が迫る、アマゾン流域やマングローブ林のような地形を好むらしい。
繁殖期は夏。干上がった池まで陸を這って移動し、産卵するそうだ。
サイズは30~80cm程度。
見るからに顎の力が強そうだ。
この体形からして、狭い所へ潜り込むのが得意だろう。
水面に落ちてきた木の実を食うのなら、恐らく水音に敏感で、嗅覚、視力も良いはずだ。
逆に、動くものへの反応は良くないと思う。
「俺なら練り餌を浮かして釣るかな。パン粉とか多めに混ぜた練り餌に食紅で木の実の色を付けて、チモトをケプラーで補強したゴツめのセイゴ針を覆うように付ける」
「ふむふむ」
「緑とか茶色に塗った発砲フロートに錘を仕込んだものを全遊動オモリ兼ウキにして、そいつらが住んでそうな淀みへ投げ込むんだ。あとは糸が弛まないよう気をつけながらアタリを待つって感じかな」
彼女に千切ってもらったノートの一枚を使い、仕掛けを図説する。
ミコトは釣りの専門用語をよく知らないようだが、絵にすると何となく理解してもらえたようだ。
「多分嘴みたいな部分で一口に噛みこんでくるだろうから、竿に重みが乗ったら即アワセを入れる。飲まれたら歯で糸食いちぎられるだろうからな。あとは水中の障害物に潜り込まれないように、無理やり寄せて取り込む。って感じかなぁ……」
熱心にメモを取るミコト。
「いや~。いいっすねぇ。釣られ方まで設定組んでくる人多分いないっスよ。最近の生物管理局は設定厨なとこあるっスからね」等と言いながら、満足げに笑っている。
折角なので
「木の実が実らないシーズンは海底の水草齧るとかどうか」
とか、
「主食とする木の実の種類によって身質が変わるのはどうだろう」
とか、俺が思いつく限りの習性を提案しておいた。
彼女も結構色々な設定を煮詰めている最中だったらしく、参考にした魚の習性談議に花が咲いた。
楽しく話し込んでる間に、1時間は過ぎて行った。
ミコトがパソコンのメールボックスを更新すると、無数のスパムメールに混じって死神局からの返信が届いている。
「あ~。雄一さんとのお話楽しかったっスけど……。もうお別れの時間みたいっスね」
彼女は名残惜しそうにメールの添付ファイルをプリントアウトする。
「ま、嫌な事件だったけど貴重な経験をありがとう。ミコトの魚が採用されること願ってるよ」
未だに冷めないマズい茶をグイっと飲み干し、俺は伸びをしながら立ち上がる。
帰ったらメバルのお吸い物でも作ろうかな。
等と考えつつ、彼女の方を向くと、印刷したプリントを手にワナワナと震えていた。
「え……? まさかね……」
ミコトが気まずそうな表情でこちらへ振り返り、「申請通らなかったっス……」と小さな声で言った。
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「そこを何とかお願いするっス! この人なら生き延びれるっスよ!」
結局、納得がいかない俺たちは死神局まで出張ってきた。
転生窓口でミコトが食い下がっている。
局の言い分はこうだ。
あの後、俺が釣りをしていた地域で大地震が起き、津波が発生する。
その際、俺が生存できる可能性が10%未満だったため、蘇生させても無意味と判断した。
なので、今回の蘇生申請はミコトの過失とはいえ、承認することが出来ない。
つまるところ、俺はあの日どの道死ぬ予定なので、生き返らせる意味がないということらしい。
これは困った……。
「雄一さん駄目っス……。全然取り合ってもらえないっス……」
ミコトがトボトボと戻ってきた。
何やらパンフレットをもらったようで、それを見せてくる。
「一応……こういう措置はとってくれるらしいっスけど……」
そこには “優待転生キャンペーン! 君も異世界チートしよう!” という文字がデカデカと書かれていた。
下のプラン一覧のところにいくつかマーカーが引かれている。
「年齢継承、記憶継承、超身体能力、超高知能、現代アイテム召喚……。これは一体……?」
「最近流行ってる異世界転生のパンフレットっスよ。結構我々のミスで死んじゃう人多くて、その時にもと居た世界とは別の世界へ超能力を持って転生できるプランが作られたんス。雄一さんのいた世界は命のポイントが別格に高いんで、命のポイントが低い異世界に行けば価値の差額分能力を付与できるんス」
よく分からないが、俺は元の世界に帰ることはできず、その代わりに超能力付きで転生させてあげるから引き下がってくれということらしい。
「雄一さん……春から釣り具メーカーに就職決まってたんスね……。私のせいでこんなことに……。うわーーーん! 申し訳ないっス! 私は天使失格っスーーーー!!」
死神局のロビーで土下座しながら泣き出すミコト。
ギャグマンガのような量の涙をまき散らし、目にもとまらぬ速度で頭を地面に叩きつけ続ける。
「ちょっと……! こんなとこで大声出さないで! ほら! みんな見てるから!」
ひとまず彼女に落ち着くよう促す。
だが、効果がない。
わんわんと泣くミコトの姿を心配した近所のちびっ子天使が俺達に飴玉をくれた。
さすが天使、いい子だ……。
「うぐっ……うぐっ……。天使業務ができなくて……。生物研究でも芽が出なくて……。挙句私のせいで不幸な人を出してしまって……」
しゃくりあげながらポロポロと涙を流すミコト。
「別にいいよ。どうせ死ぬ運命だったんなら、それが数時間早くなっただけだし」
彼女の背中をさすってやる。
若くして色々とやり残したことがあるのは心残りだが、特典の超能力で平穏な暮らしが出来るのなら、それも悪くはない。
というか、楽しくのんびりと釣りが出来るなら、俺は別に世界は問わない。
「本当っスか……? 私の事恨まないんスか……?」
しゃっくりで体をヒクつかせながら、こちらを涙目で見上げてくるミコト。
「ああ、だから転生手続きしてもらおう。その代わり、付けられる限りの特典は付けてもらう」
ミコトの顔がぱっと明るくなったかと思うと、人目も憚らず勢いよく俺に抱き着いてきた。
「うわあああああん!! 雄一さんありがとうございます――――――!!」
うおぉ……イカ臭ぇ!
ついでに髪も生臭ぇ!!
周りを見ると、なんだか美談を目撃したふうな雰囲気になっている。
中には涙を流し感動している様子の天使ジェントルマンまでいる。
天使ってよく分からねぇ……。
湿り気を帯びたせいか、先ほどよりも異臭が強くなっている気がするミコトをロビーに放置し、俺は再び窓口へ向かう。
ちびっ子天使がくれた飴は不思議な味がした。
窓口に戻った後、審査は拍子抜けなほどスムーズに進んだ。
交渉の結果、“年齢記憶そのままプラン”に“異世界チートパッケージデラックス”を上乗せしてもらえることとなった。
年齢記憶そのままプランは、読んで字のごとし、俺の年齢や記憶、姿をそのまま継承する形で異世界に転送してもらうことが出来るプランだ。
異世界チートパッケージデラックスは、
・一定の所持金、家、身体強化、一定の魔法力、そして言語理解がセットになった「異世界冒険スターターセット」
・現代のアイテムをカテゴリ単位で設定し、その範囲で自由に召喚出来る「現代アイテム召喚セット」が2カテゴリ分
・200種類から選べるチートスキル5個
という大盤振る舞いのパッケージである。
死神局は俺の価値を相当高く見積もってくれたらしい。
「では召喚カテゴリと、スキルをお選びください」
転生窓口のお姉さんがカタログを渡してくれる。
「召喚カテゴリはキャンプ用品と釣具で、あとスキルは転送と飛行と探知とオート防御と潜水で」
カタログを流し見し、その中で釣りやアウトドアに便利そうなスキルをピックアップする。
釣りで遠征する時、転送は便利だろうし、磯に降りるときや釣り場のサーチに飛行スキルがあったら便利だろう。
キャンプ中に狂暴な野生動物に襲われてはたまったものではないので、探知とオート防御を付けた。
潜水は貝採りに便利そうだからである。
「え……。そんなのでいいんですか……?」
キョトンとする窓口のお姉さん。
「召喚可能アイテムには現代武器や電化製品、スキルには魔力無限とか、物理カンスト等もあるんですが……」
どうやら人気の召喚カテゴリやスキルから大幅に逸脱した選択肢だったらしい。
他の人らはそんなもん引っ提げて異世界に何しに行くんだ……?
「いえ、そういうのは特に興味ないので。俺は釣りが快適にできればそれでいいので」
「は、はぁ……」
彼女は何やら上司と思しき死神と聞いたことのない言語で会話した後、このセットで良いのかと再三確認を求めてきた。
「これでいいです」と同じく再三応えると、今度は奥でどこかに電話をし始めた。
待つこと小一時間。
ようやく戻ってきた彼女は、選んだものの価値が低すぎて見積もった俺の価値に全く釣り合っていないので、オマケを付けておいたと説明してくれた。
天使だけじゃなく死神も良い人だ……。
あと、待たせたお詫びにと死神局の公式マスコット「首狩り骸骨くん」のキーホルダーをくれた。
い……いらねぇ……。
転生はすぐに始まるので局の転生フロントに行くように言われ、俺はロビーで待っているミコトに一言別れを告げに向かうことにした。
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「いいプランにしてもらえたよ。ミコトがゴネてくれたおかげかもな」
「えへへ……良かったです……。でも、ごめんなさい。私のせいで……」
「あーもう、それは言わなくていい。どの道死ぬ運命だったんなら、こうやって特典付きで別の世界に行くのも一興だよ。今度の生物コンテスト頑張ってね」
彼女の頭を撫でてやる。
うおぉ!? ネチョってしてる!!
「雄一さん……! ありがとうございます! 私絶対面白い魚作って雄一さんの世界に送るっスから! 待っててください!」
ミコトの先導で、俺たちは転生フロントに向かう。
ほんの一瞬の出会いだったが、これが今生の別れとなると惜しくもなるもので、ついつい水棲生物談議に花が咲くが、残念ながら、ロビーからフロントまでの距離はさほど長くはなかった。
フロントは飛行機の搭乗窓口のようで、身体検査ゲート型の転生トンネルをくぐればもう異世界らしい。
『転生でお待ちの“矢崎 雄一様”……』
フロントのお姉さんが俺の名を呼んでいる。
俺はゆっくりと、異世界へのゲートへ向かう。
後ろではミコトが涙を浮かべ、俺に手を振っている。
『矢崎 雄一様付き添い転送の“ミコト”様……』
「「へっ!?」」
俺とミコトは同時に素っ頓狂な声を上げた。