記憶喪失
「俺は一体何者なんだ……」
レックス・メルヴィスという男は記憶喪失である。目を覚ますと太陽がちょうど真上にあって、周囲は汚物とゴミまみれであり、鼻の奥がツンとなるぐらい匂いを放っている。だがそれ以前の記憶は存在しない。しかし自分の名前がレックス・メルヴィスという名前だとは憶えている。そしてごく普通の知識を知っている。例えば、『りんごの色は?』と聞かれたら『赤い色』と答えることができる。だが知識を知っていても思い出がないのだ。まるで思い出そうとすると何かが妨害して思い出せないように。
周りがゴミ溜めのなかにレックスは混乱していた。記憶が消えているため、なぜこんな場所にいるのか。そして自分の名前を知っていながらも自分の存在について何も分からないからだ。そして右手の甲を見てみる。
「これは鴉、か?」
右手の甲に描かれていたのは鴉のような鳥が大きく翼を広げ、右の方向を見ている紋様である。まるで入墨みたいだ。これは自分の存在について何かしらのヒントなのだろう。
「酸っぱい匂いがする……吐いたのか?」
手で口の周りを拭ってみると、透明の液体が付着していた。匂いを嗅ぐと酸っぱい匂いがするのだ。どうやら戻したものだろう。
「寒い、何か着るものはないか」
ゴミ溜めの中からゴミを掻き分け立ち上がり、自身の体を見てみると、全裸だということに気が付いた。吐く息が白くなるほどの気温であり、さすがにこのままだと寒いので、レックスは周囲のゴミ溜めの中から着れそうなものを見繕うと漁りはじめた。するとちょうどレックスの体躯に合う革製のズボンとボロボロのチュニックを見つけ出した。これなら全裸よりはマシだ。
「それにしても酷い匂いだ。 水魔法――ウォッシュ」
さすがに記憶喪失でも、やはり魔法は憶えている。思い出ではない知識や魔法は憶えていて、必要な時に、必要なものが思い出してくるのだ。
水魔法――ウォッシュは対象物をその名の通りに洗浄する魔法である。水や洗剤が無い時に重宝する魔法であるが、汚れの度合いによって必要な魔力も変わってくる。今回は衣服がそんなに汚れてなく、匂いをとれる程度に洗浄したかったので消費魔力も少ない。何処とも無く水が出てきて衣服を濡らし、洗浄を行う。しばらく魔法をかけていると、匂いが取れたのでそれを着用した。
「しかしここは一体どこなんだ」
先ほどまでに混乱していて、衣服を見つけるのに必死になっていたレックスだが、見つけ出した衣服を着用し、しばらく落ち着けると、周囲を注意深く見渡す余裕が生まれた。周囲は完全にゴミの山だが、遠くを見ると石畳みの道路が見え、さらに遠くを見るとレンガ作りの家々が見える。
ずっとこんな酷い匂いが充満しているゴミ溜めにいるつもりはない。レックスはそう考え家々がある方向に向かって歩き出した。
「……!」
石畳の上を慣れない革製のズボンとボロボロのチュニックによる不快感に襲われながら歩いていたレックス。その時、金属と金属がぶつかりあうような音を聞いた。興味を覚えたレックスはその音が聞こえる方向へ向かった。
「お前はもう終わりだぁ! お前の金目のもんは俺たちが十分、有効活用してやるよぉ!」
「ふん、ほざけ賊徒分際が」
レックスが見たのは、どこか高貴さを感じられる鎧を着用しながら剣を杖にして立ち上がろうとしている銀髪の男。ところどころに傷があり、血を流している。とても整った顔だが今は疲弊の色が見える。そして、その周りを囲む屈強な体躯で品のかけるニヤニヤした顔の男たち。さらには地面に血を流し倒れている武装した者たち。
「野盗か」
「あん、んだおめえは。こいつの仲間かぁ? ならこいつと一緒にあの世に行っちまえよ」
どうやらつい呟いてしまったことを屈強な男たちに気づかれてしまい、そして敵意を向けられてしまったようだ。さて、どうしようかと考えたとき、レックスに言い知れぬ感覚が沸き上がった。
――ここいる者たち全員を相手にしたとき、間違いなく俺は無傷で『制圧』することが出来る。俺の実力を示せ。
レックスはこの何とも言えない感覚に戸惑いながらも戦うことを決断する。この場にいるのは剣を杖にしている銀髪の男と、見るからに野盗といってもいい屈強な男たち。ここは銀髪の男を助けたほうが後々のためにもよさそうだ。なにより鎧や立ち振る舞いから品を感じられるのだ。かなり地位の高い人物なのだろう。
レックスは落ちていた剣を拾い上げ、動き出す。
「助太刀する!」
「助かる! こいつらはこの村を襲っていた盗賊だ! 君がどれだけの実力があるか知らないが、連中の腕前はそれなりにある、気をつけよ」
屈強そうな男たちは7人。全員剣を持ち、革の鎧をしている。そして男たちの内3人がレックスに向かって動き出す。
「おらあ、死ねぇ!」
男の一人がレックスに向かって鋭い剣を振り上げる。完全に殺意を込めた動きだ。
レックスは周りの動きが突如スローモーションになったのを感じながら、自分自身に向かってくる剣を自身の剣ではたきあげ、その勢いのまま男の首を刎ねる。続けて残りの2人の合間に迫り、一人を胸骨の間に向かって突き、もう一人の首を刎ねる。その動きは周りがスローモーションになったのも関わらず、自分だけが蝶みたく踊るように、自由に、そして素早く動いたようである。
3人を殺害したレックスは剣についた血を振るい落す。
(なんだ今の感覚は? 戦うことに全く躊躇することなく体が動いた。記憶を失う前の俺は戦闘狂だったのか?)
「よくもやってくれたなあ……! お前ら、あいつを全力でつぶすぞ」
銀髪の男と対峙していた男が叫ぶ。どうやら剣を杖にしている銀髪の男はもう動けないと判断し、残りの全員でレックスに対処しようとの考えだ。屈強な男たちは全員、レックスに向かって走り出す。
「それはいい考えだ。こちらも対処が容易になる。炎魔法――アッシュ・ファイアー」
レックスは魔法を発動し、深く息を吐きだす。しかし、ただ息を吐きだしただけで、何も起きていないように見える。その後レックスは大きく一歩下がる。
「どうやら魔法は失敗のようだなぁ! しかも一歩下がりやがって、怖気ついたかぁ?」
「それを言うのはまだ早い。……発火」
「ぐうっ!?」
(ますます俺が戦闘狂だった説が濃厚になってきたな。考える前に魔法が出てくる)
レックスが「発火」とそう言い切ったとき、対峙する4人の男たちは突如胸を押さえ、地面に倒れこむ。男たちは苦悶の顔をし、必死に地面を転がりだしたり、あまりの痛みに地面を片手で叩いたりしている。
炎魔法――アッシュ・ファイアーは、レックス以外には見えない透明な灰を吐き出す魔法である。その灰を吸い込み、肺までに到達したとき、発火の合図で灰は燃え出す。燃え出した灰は肺や気道を焼き尽くす。
地面に倒れこんだ男たちはやがて窒息により動かなくなり、周りが静かになる。
レックスは男たちの死亡を確認した後、銀髪の男へ向かった。男は座り込んでレックスを見ていたが、レックスが近寄ったのを見て剣を杖にしながら立ち上がった。
「助けてくれてありがとう。君がいなければ『私たち』は確実に死んでいたよ。本当に助かった」
「いや、礼はいらないよ、こっちも打算あっての行動だからな。貴方は見るからに高い地位にいると見る」
「ああ、なるほどね。君は私たちの恩人だ。礼は言わせてほしい。そうだ、私の名はフリント・ケスタル・ミルグ・オーレルフ。こう見えてアーヴァル王国の第三王子をやっている。君の名は?」
「俺の名はレックス・メルヴィス。といっても自己紹介しようにも名前しか言えないんだ。なにしろ記憶喪失だし、ついさっき目を覚ましたばかりでそれ以前の思い出は全く無いんだ」
レックスは自分自身が記憶喪失であり、ゴミ溜めの中で目を覚ます以前の記憶が無く知識だけがあることなどを説明する。
「ふむ記憶喪失か、初めて聞く。だが仕方ない。そうだ私のことフリントと呼んでほしい。そして言葉使いも気にしなくていい。それと君のことレックスと呼んでいいかな?」
「ああ、構わないさ。よろしくフリント」
レックスとフリントは握手をする。フリントはレックスの眼を見つめていた。
「さっそくだがフリント、さっき『私たち』と言わなかったか?」
「そうだ、私以外にもう一人いるんだ。おーい、クーノ。もう危険はない。来てくれ」
フリントがそういうと建物の陰からゴソゴソと音が聞こえ、急いだ足音が聞こえてくる。現れたのはマントを着た少女。色白の肌は一切くすんでおらず、眩しい黄金の髪と透き通った蒼い色の眼をしていて、そしてどこか幼さが感じられる。
彼女はフリントの声掛けによって二人の元へ駆け寄っていく。
「ひっ……!?」
「うん?」
彼女はレックスの顔を見るとひどく驚き、フリントの後ろに隠れてしまう。そして怯えだす。その光景にレックスは疑問を覚えた。
「ああ、すまない。私の考え足らずだった。レックスはあの勇者と同じく黒髪黒目だね。クーノ、安心してくれ、この方は勇者ではない」
「……本当、ですね。あの勇者じゃないです。レックス様、ですね。私はフリント様の世話係クーノです」
クーノという少女はフリントの後ろからおそるおそる出てきた。そしてレックスの顔をしっかり見ると安心したように怯えは消えていた。
「レックスは記憶喪失だけど当事者だし、まずいろいろと説明しなければいけないな」
フリントはレックスに対して今どういう状況なのかを説明する。
今、レックスがいる場所はアーヴァル王国の王領の端にあるナル村である。アーヴァル王国第三王子であるフリントはナル村周辺に盗賊が出たという噂を聞き、武装した護衛兵をまとめナル村に視察しに行ったのだ。ナル村に着いたフリント一行はさっそく村長や村民から事情を聴く。しかしその最中に盗賊たちによる襲撃を受けてしまったのだ。盗賊たちは武装した兵士がいることに驚いたが、構わず襲撃を続行した。フリントは村の人たちやクーノを隠れさせ、兵士とともに応戦したのである。しかし盗賊たちの猛攻により次々と兵士が倒れていき、残ったのがフリント一人になったときレックスが現れたのだ。
「ここに倒れているのは皆、アーヴァル王国の兵士なのか?」
「皆そうだ。私や王国民を守るために散った。良き兵士たちだった。これから遺品をまとめ、遺体は埋葬して弔わなければ。だがその前に」
「その前に?」
「まだやることはある。この野盗共について調べなければならない。残党がいるかもしれないからね。そうだレックス、君に頼みがあるんだ。私達の護衛にならないか?」
「分かった。いいだろう」
レックスはフリントの頼みに即答する。それを聞いたフリントはにっこりと笑った。
「よかった、これで戦力の面は安心できる。さてレックス、村人たちの話では盗賊たちが塒にしている廃墟があるらしい。そこへ行こう」
レックス達3人の一行は村民たちが話していたという盗賊の塒である廃墟へ向かう。その廃墟は村からそう遠くない。歩いて行ける距離である。
盗賊達の塒へ向かう道中、レックスはフリントと話すクーノを見ていた。フリントと雑談するクーノから時折笑顔を見せていた。レックスはそれが気になっていた。
「なあ、フリントとクーノは付き合っているのか?」
「そんなっ、私みたいな平民が王族であるフリント様となんて……。恐れ多いです」
「はは! 嫉妬しているのかいレックス。まあそこらへんはちょいとワケ有りでね。ただ私とクーノは男女の仲ではないから安心したまえ」
「そうかい。野暮なことを聞いた」
(今はたまに笑顔を見せているが、あの怯えは一体なんだったんだ? 尋常ではなかった)
フリント、クーノと雑談しているうちに2人と打ち解けたような感触を得たレックスだが、クーノと初めて出会った時の疑問を解消することはできなかった。
レックスがフリント達と雑談しているうちに、目の前にボロボロの木製の家が見えてきた。その家は所々にクモの巣が張っており、屋根は今にも朽ちて崩れ落ちそうである。どうやらこの家が盗賊たちが塒にしていた廃墟のようだ。
「さて、着いた。早速調査しようか」
久しぶりの作品です。誤字、脱字あればご指摘ください。