師と私、そして私たち
それは、夢か幻か。
永遠に欠けた蒼月の元。
ただ、そこに。
「師匠……」
セツカが、ふらふらと吸い寄せられるように桜の向こう、影の側に行こうとします。
けれど。
「それ以上、近づいてはいけないよ」
やんわりと、しかし確固たる意志を伴った声が私たちの耳朶を打ちました。
「きっと、顔を合わせるべきじゃない」
それを聞いて、セツカは伸ばしかけた手をきゅっと握りしめて、ゆっくりと下ろしていきます。
「どうしてか、分かるね」
その問い一つだけで、セツカは表情を引き締め、はい、と力強く答えました。
「これ以上の邂逅は、如何なる結果をもたらすか、分からないからです」
「うん。正解だ」
言葉に悔しさを滲ませたようなセツカの声とは裏腹に、お師様の声は満足そうでした。
「そして、この私は影と同じなんだ。話し、答えを返すけれど、それは幻と変わらない。会ってしまったら、それを忘れてしまうかもしれないから」
それは、私の本意じゃないんだ。
そう言ってひとつ言葉を切ると月を見上げました。
師と私たちを繋ぐ、蒼い月を。
「私は、君たちと、そして私たちの紡いできた物語の、その最後を見届けに来たのだから」
「ねえ、ナユタ、セツカ」
これが、僕にとっての、最後の、本当の、遺言。
「なぜ護り人や姫巫女が必要だったと思う?」
「それは」
ナユタは少しだけ考えて、けれど結局、最初に思いついたであろう答えを口にした。
「『秘術』を、守り、継承するために、です」
「うん。そうだね。では、どうして、私たちはあんなものを継いできたと思う?」
「それは」
僕の問いに、今度は答えを返すことができないナユタ。
本当に、優しい子だ。
カナタとは、全然違う。
それを感じて、丁寧に懐かしむように言う。
「カナタ様は、こう言っていたよ」
『いつかの日、渡すべき奴に渡すためだ』
それは、それほど遠い未来の話ではないとも。
「……あんなもの、本当は燃やしてしまえば良かったんだ。だけど、カナタ様はそれをお選びにならなかった。カナタ様だけではなく歴代の姫巫女様も、護り人も、誰も」
結局、僕も、また。
「いずれこの世界に現れる、魂に触れる術に対抗するために」
それを、継承してきた。
「その時が、来たんだね」
受け継いできた物語の終わり。
そして、君の選んだ人。
「これで、私たちの長い長い御役目は終わりだ。だから、私は安らかに眠ることができる。そして、君たちは、鍵を渡せばそれで秘術を受け継ぐ姫巫女でも、それを守る護り人でもなくなる」
ああ、けど、やっぱり。
「できれば、僕とカナタが、そうでありたかった」
これで、僕の役目は、本当にお終い。
「君たちが運命の二人だと感じたのも、この場所だった」
思い出は、今なお美しい。
「あの日、君たちは手を取り合った」
背後で、ナユタとセツカが驚いているのが分かった。
当然だ。一度も、話したことないんだから。
「見ていらしたのですか」
「ああ、見てた」
悔しかった。幼い弟子たち相手に、みっともないけれど、本気でそれを抱えた。
だから、ずっと言えなかった。
君たち二人に嫉妬してたなんて。
立派な師に見えるよう苦労に苦労を重ねた身としては。
「さあ、もう行きなさい。答えは、こんな所にはないよ」
僕はすっと立ち上がる。
往こう。
僕の、居るべき場所に。
「それとも、君はここに、私に答えを聞きに来たのかな」
「いいえ、いいえまさか」
セツカは、きちんと胸を張っているだろう。
声には、強がりを滲ませていたけれど。
見ることが叶わないのが、悔しいなぁ。
「もう、あなたはいないのですから。そんなことはできません」
「では、どうしてここに?」
セツカは、僕の少し意地の悪い質問にも、ちゃんと向き合って、答えてくれた。
「自分できちんと全て決められることを、見ていただくためです」
「そっか」
あんな子供が、よくこれだけ立派になったものだ。
「……うん。ようやく、カナタの気持ちが分かった気がする」
君たちに、会えてよかった。
「もう、行くよ。ありがとう。こんな私の我が儘に付き合ってくれて」
「いいえ。私達も、最後に話せて嬉しかったです」
こちらを一度も見ないまま、お師様は立ち上がります。
「帰りには、この灯篭を持っていきなさい。先代の姫巫女が使っていたものだ。……もう、私には必要のないものだから」
未練の欠片一つ残さないまま、お師様は去っていきます。
その背中に、ただ一度、礼を込めて。
「さようなら、師匠」
「さようなら、お師様」
「うん。じゃあね」
去っていくかに思えたお師様。
けれど、何かを思い出したかのようにその歩みを一度だけ止めました。
「ああ、それと」
指差すのは。
「想いを」
永遠の桜の根元。
「ここにあって永遠を信じた者の想いを、もう、解放してあげて欲しいんだ」
それが、私たちの聞いた、偉大なる先代の最後の言葉となりました。
先代の言葉の通り桜の根元を掘ってみれば、そこには幾重もの手紙が埋められていました。
全て、時の止まったこの場所で、朽ちず、褪せず、封も切られぬまま、想い合った者たちの記憶が、そこに。
その意味が分からない私達ではありません。
この場所に来ることが出来るのは、私たち二つの一族の者しかいないのですから。
「ねえ、セツカ」
「はい」
それらを抱きしめて、思う。
「私たちも、もういいですよね」
「――――そうですね」
「お師様の望んだことでは、きっとないけれど」
ただ、この人たちと同じようにあろう。
私達だけが幸福を手にしていい理由は、無い。
例え全てが終わっても。
私たちは世界の反対側に向かって旅をする。




