沈められた思い出 ①
「……ナ…ユタ」
遠く、遠く。
「……ナ、ユタ」
けれど、それほど深くない場所から、声が聞こえる。
「……おいで、ナユタ」
懐かしき色、言葉、匂い、それから。
「――――お師様」
目を覚ませば、そこは、もう懐かしき人の居ない世界。
夢に意味を求めることは、あまり意義が無いように思うけれど。
けれど、なんだか。
「そこに、いるんですか?」
そんな、気がした。
私には大切な人がいる。
始まりはちょっとした悪戯心。
退屈から屋敷を抜け出した幼い私は、彼のことを驚かせるために、あの灯篭を持って近道とばかりにあの道、片月と桜の道へと入り込みました。
少しでも早くセツカに会いたくて、足取りも軽く、濃い霧の中を進んで行く私。
危険だと言う意識はありませんでした。道案内の灯篭があれば、そこを進むことはさほど難しいことではなかったから。
それは間違いではなかったけれど、正しい認識とも言えませんでした。
どんな便利な道具があろうと、子供一人の道行きに、危うきが全くないということはありません。
案の定、私は浮足立った気持ちが災いし、転んでしまったのです。
『う、う』
足をくじき、一歩も歩くことが出来なくなってしまい、そうして初めて、私はその場所にあって当たり前の恐怖を思い出します。
視界いっぱいを覆う深い霧。昼間なのに光を発さない太陽と、何処から見上げてもそこにある月。じくじくと痛む足以上に、一度心の折れた私は、立ち上がることを許してくれず。
やっと見つけたあの桜の下で、ただ震えて座っていることしかできませんでした。
そうして、思うんです。
もしも、このまま誰も来なかったら自分はどうなってしまうんだろうと。
ここは時の狭間で、何処でもない場所で、そんなところをずっとさまよい続けることになる、そんな想像を掻きたてられて、ただただ震え続けていました。
『セツカ、お師様』
そんな私に出来ることは。
『ごめんなさい』
ここは危険だから入らないようにと忠告してくれた二人のことを思い出して。
目を瞑って、顔を伏せて、ただ助けてと祈るだけで。
『ナユタ様』
そして、声に、顔を上げると、そこには、彼が。
『帰りましょう』
忘れることは、多分できない。
大きな手が、私の手を取る。
『皆、心配しています』
その日から、私にとって、セツカは、特別。
護り人も、姫巫女も、関係のない、特別。
だから私には、彼女が必要だった。
私の願いを叶えてくれるのなら、きっと、誰でも良かった。
私の願い。
護り人と姫御子の関係に終わりを与えてくれるなら、誰でも。
(先代は)
私はゆっくりと髪を結いながら先ほど微睡に見た幻のことに想いを馳せます。
(なにを、伝えたかったのでしょう?)
鏡に映る自分の姿。
鏡面に手を触れて思います。
私は、卑怯者なのでしょうか。
(何も知らない二人を、利用するようにして)
「あら?」
障子を開けて、庭先を覗くと、そこには意外な人物が佇んでいた。
(ロッテ、さん?)
件の人は、こちらに背を向けて、桜の木を眺めるように見上げていました。
(まだ、蕾もつけていないのに)
彼女は、何を見ているのだろうかと、気になります。
私も庭に降りてひっそりとロッテさんに近づきました。音をたてないようにしたのは、その真剣そうな佇まいに、邪魔をしては悪いような気を持ったからです。
けれど、いざ近づいてみても、やっぱり声を掛けるのを躊躇ってしまいます。
それだけロッテさんの表情は真剣で、だからこそ、私には不思議でなりませんでした。
彼女は、何を見ているのか。
もっと言えば、彼女は何に、こんなに惹かれているのだろうか、と。
「あ」
少しの間そんなロッテさんを眺めていると、私のことを視界の端に捉えたのかロッテさん自身が気が付いて私の方を見ました。
「おはよう、ナユタ」
さっきまでの表情とは違う、柔らかな笑みを私に向けるロッテさん。
私も、やんわりとあいさつを返します。
「おはようございます。何を、そんなに真剣に見ていたんですか?」
「うん、ちょっとね」
ロッテさんは困ったように言いました。
「なんだかね、呼ばれた気がしたんだ」
「え?」
これは、偶然、なのでしょうか?
「それは、この桜に?」
「分かんない。けど」
ロッテさんは慈しむように桜の幹に手を合わせて、紡ぐように一つ息をつく。
「ここに、一番香りが残ってる気がするんだ。誰かの」
私は思い出します。この桜は、先代が植えた、先代に縁のあるものだと。
私は、意を決しました。
「あの」
「うん?」
これが正しいのかは分かりません。
けど。
「今日、お付き合いして頂きたいことがあります」
私もまた、桜を見上げます。
春色の面影を、そこに探すように。
「先代……セツカの前の護り人が最後に住んでいた所に」
先代が息を引き取った場所。
「整理したいことがあるんです」
もうすぐ終わる事柄の一つ一つに。
ただ終止符を。




