憧れの終わりに
あなたのことを知らなければ、私はもっと強くいられたのかもしれません。
きっと、こんなにも臆病になることは無かったでしょう。
けれど、私は。
あなたに会えて良かったと、心の底から思うのです。
緊張が一度、扉に伸ばした私の手を止める。
「…………」
この重厚な扉は、私と彼の人生を隔てる壁そのものだ。
重なり合うはずのないもの。
本来、交じり合うことのなかった二つの線。
「カーク」
憧れている間は、良かった。
あくまで遠くに居て、壇上の彼を憧れの瞳で追っているうちは、それでよかった。
こんな痛みは、知らずに済んだ。
手に持ったこの報告書の重さも、胸に抱いた痛みも、嫌だ。
騎士学校で思い知らされた、その先でも身に刻まれた、今でも、傷跡のように痛む。
思い知らされる、彼が貴種と呼ばれる人間で、自分がどれだけ卑屈な立場の人間なのか。
けれど、いつまでもそうしてはいられない。
意を決して再び、ノッカーに手をかけようとして。
「あ」
「どうした、エリザ」
向こう側から扉が開いて、カークが顔を覗かせた。
「失礼、人の気配を感じたから扉を開けてしまったのだが」
「……何でもない。少し、考え事をしていただけだ」
私は、何事もなかったように取り繕った。
そう言う事だけは、上手くなった。
「報告書を提出に来た」
「ああ、御苦労」
その場で受け取ればいいものを、カークはそのまま室内に引っ込んでしまい。
「入ってくれ」
そう促す。
私は、複雑な気持ちを抱えたまま、けれど理の理由も見つけられず。
カークに与えられた執務室に足を踏み入れた。
「こういうこと」
報告書に目を通しながら、カークが私に聞く。
「やはり、辛いか?」
「いや」
なるべく疑問を持たれないために、きっぱりと言い切る。
「辛くなどないさ」
カークに渡した報告書は、カレン様に関することだ。
日々の、言わば簡単な経過の報告。
「監視の役目を自分のようなものに着けてくれたこと、感謝こそすれ、反目する理由など欠片もない」
カレン様は表向きには亡くなったこととされた。
その上で、ここから先の人生をあの屋敷の中で軟禁されて生きていく。
処刑されてもおかしくなかったことを考えれば、甘すぎる程の処遇だ。
監視付きとはいえ、時々は外に出られさえするのだから。
その監視役だって、カレン様に肩入れする私で。
これを、寛大な処遇だと言わずになんと言えばいい。
「この報告書だって」
あくまで、必要な義務の一つだ。
一挙手一投足に至るまでの、そんな詳細な報告は求められていない。
カークの主人が、カレン様の安否を気遣ってさえいるような、そんな。
だから。
「だから、辛くなど」
「けど君は」
そんな私に。
「心を擦り減らせてはいないか?」
カークは、私の知らなかった目を向けた。
初めて知った。君は、そんな顔も出来るのか。
同情や、憐みじゃなくて。
本当に、私を。
「……ああ」
だからだろうか。
「このことを、カレン様だって、ご承知の上のことだ。けれど」
つい、零れてしまったのは。
「裏切っているような、そんな気分になる」
「……そうか」
カークは、そんな私に手を伸ばそうとして。
「けれど」
けれど私は。
「それが、私の選んだ道だ」
その手を、取らないと決めた。
「いいんだ、カーク」
これが、憧れの終わり。
私は、カレン様の騎士なのだから。
「エリザ」
「もう、行くよ」
カレン様が一人で歩いていくのなら従う。
例えそれが、私の憧れからずっと遠くにある道だったとしても。
私は、あの人に助けられたのだから。
扉の前に立って、
聞いたことのない、間の抜けた音が室内に響いた。
「――――!?」
驚いて、思わず腰の剣に手をかけて振り返る。
見れば、カークも驚いた様子だった。
そして、その手元には。
「……手紙?」
魔力で編まれているのだろうか。
淡く燐光を散らす手紙が、カークの胸元にゆっくりと舞い降りる。
「そうか」
「おい!」
「いいんだ」
得体の知れないそれに手をばそうとするカーク。
「こんなことをする奴に、心当たりならある」
私の制止を無視して、手紙に触れる。
振れた瞬間、それは自律して封を開き、カークの手元に現れる。
さっさと出ていこうとしていたのに、こんな光景を目の当たりにしては、少しばかりそうし辛い。
「アルからだ」
どうするべきか決めかねていた私に、カークは告げた。
「明日出発、するそうだ」
「そうなのか」
あの男が。
「見送りに行くのか?」
「いいや」
読み終わったのかカークが手紙を閉じると、カークの手元から光に溶けるように手紙は消えていく。
「もう、そう言った全てはあの日に済ませた」
その様子を。
「けど、そうか」
カークは、名残惜しそうに、眺めていた。
「行くのか、アル」
カークは一度目を瞑り。
何度なく、心の中で反芻した騎士の祈りの所作を見せた。
「エリザ」
それは、誰に捧げられた物か。
「あの約束は、まだ有効か?」
「……なんのことだ」
「とぼけるな。言っていただろう。すべてを取り戻したら」
あの日した約束。
「君のことを、教えてくれると」
「そうか」
私だって、覚えていたから。
「済まないが」
けれど、全てを思い出した、今となっては。
「約束は、守れそうにない」
遠い。
「……カーク?」
だというのに。
「僕を甘く見るなよ」
手が、取られている。
「僕は後悔した。あの日、君を行かせたことも、話をしなかったことも。そして」
私の身が、彼の元へと引き寄せられる。
「騎士は、同じ過ちを、繰り返さない」
逃げようとする臆病な私を、絶対に逃がさないように。
「エリザ、話をしよう」
カークの瞳が、真っ直ぐに。
彼の気質を現すように本当に真っ直ぐに。
「君の歩んだ道の、僕たちのこれからについて」
私を捕えた。
「私は」
目を逸らしたのは私だ。
「再び君や、君の主人と、カレン様の道が分かたれるのなら、カレン様を、選ぶ」
けれど、手が。
「それでも、あなたは」
「そんなことはさせない」
手が、振りほどけない。
「僕と、僕の仕える人が、そんな風にさせない。僕も、あの方も、決して」
「絶対に、そんなことはさせない」
「なんだ、お前は」
私の目から。
「馬鹿になったのか?」
いつの間にか、涙が零れ落ちていく。
「賢いばかりが生き方ではないと、ある男から教わった」
これが、私と彼の物語の終わり。
「僕にだって、義務がある。僕自身が、未来を手に入れるため」
そして、始まり。
「話をしよう。約束通り、あの日することの出来なかった話を。君と僕の、未来についての話を」




