八ページ.初日
ほぼ二ヶ月ぶりの更新です。
少しずつこの作品も中盤へと入っていこうかなって思っています。(随分と序盤が長いので(笑))
それから、お知らせです。
この作品は、アルファポリスで11月より開催される青春大賞にエントリーしますので、よろしければ、同賞エントリー作品、ユースウォーカーズと共によろしくお願いします。
「それにしてもさ、妙なことになっちゃったね」
「は、はい……」
しおかぜで留守を任される夜々と瀬栖榎。男はどこかへ姿を消したまま戻ってくる気配も無く、夜々は当ても無く室内を歩き、瀬栖榎も行き場無くついていく。廊下には積み上げられた雑誌、ヨレヨレの洗濯物、訳の分からない珍妙な道具に、釣竿と額面に飾られる魚拓が静かに二人の視線を通り抜ける。
「せっちんはさ、大丈夫?」
歩みを止めることなく二人は部屋を物色する。物色するのは夜々で、瀬栖榎は罪悪感を覚えながら、その光景を傍観するだけ。時折不安げに胸元で手を組み合わせ、視線は落ち着いてはいない。一方で夜々は会話を刻みつつの棚の物色。出てくるものは服と束の領収書に、針や浮き、錘のつり道具と、使いどころの無いガムテープとベルトの半端な切れ端。
「あ、あの、どういう意味、でしょうか?」
襖から入ろうと馳せずに、夜々の背中に首を傾げる。
「ここにいること。お父さんとかお母さんに言わなくても言いの? あ、あたしは平気だからね」
必要の無い念押しも、瀬栖榎は聞き流しているのか、しばらく視線を彷徨わせ、考えていた。背中を向けたままの夜々は気に留めることも無く物色している。
「わ、私も……大丈夫、です」
一瞬の間も、物色する音に聞こえていないのか、容易に受け流す。棚を漁ってはテーブルの上、テレビ台の下、戸棚にならぶ工学系から漫画を一通り漁り、夜々が振り返る。他人の家で勝手気ままにしている夜々を不安げに見る瀬栖榎と目が合った。
「本当はさ、何かあったんじゃない? せっちん」
「え……?」
夜々の言葉は、瀬栖榎の目を見開かせる。
「だってさ、せっちんだけだよ、荷物持ってるのって」
誰一人として初めからこうなることを予想はしていない。しかし、瀬栖榎はキャリーバッグを引いていた。それは誰が見ても何かしら本来の目的があることを表すには明確すぎる。瀬栖榎が二度ほど視線を左右にフリ、唇が言葉を紡ごうと動く。夜々が首を傾げて待つ。
「旅行とか? おじちゃん家がこっちにあるとか?」
なかなか言葉が思い当たらないのか、夜々が問いかけると、はい、と小さく肯いた。
「そっか。でも、じゃあ、良いの? 連絡とかした方が良いんじゃない?」
「あ、い、いえ。平気です。さっき連絡しましたから……」
語尾を濁す言い方にも、夜々は一瞬の空気に目を細めたが、すぐに笑顔になった。
「じゃ、大丈夫だね」
「はい……」
表情はそうは言ってはいなかった。
「うーん」
会話が止まると、二人して探りあうように静かに視線を彷徨わせ、夜々が小さく唸る。
「姫柊、さん?」
「やーちゃんだよ、せっちん」
「あ、あの……?」
「呼び方、決めよっか」
特にすることもない中で、夜々は唐突な提案を持ちかけてくる。瀬栖榎は夜々の話の展開の早さについていけてはいない。
「これから、どれくらいになるか分からないけど、一緒に生活するんだし、呼び方があった方が良いでしょ? だから、あたしはやーちゃん。で、せっちんはせっちん。せっちゃんでも良いよ?」
決める割には自己決定を持ちかける。瀬栖榎は瞬きを早め、首を若干困ったように横に傾ける。
「……ダメ?」
何も応えない瀬栖榎に、夜々の表情が初めて不安を帯びる。
「いえ、それはその、構いませんけど……」
「そっか。じゃあ、せっちゃんにしよ。あたしとお揃いで、ねっ?」
無邪気な笑顔を向けられ、それを否定することは、心の捻くれたものでなければ出来ないことだろう。この場にいる人間に、そんな勇気の有る者などいやしない。
「さて、散策はこの辺にして、と」
夜々が手を一回叩く。乾いた音に瀬栖榎は翻弄されてばかりに、夜々を見る。
「掃除、しよっか?」
マイペースを崩さない夜々の次なる行動は、掃除。綺麗とは言えない室内の様子。テレビの上、窓の縁、棚の上には埃が溜まっている。
「掃除、ですか?」
「うん。いっちーたちが帰ってくる前に、ぴっかぴっかにするの。きっとびっくりするよぉ、いっちーは」
想像しているのか、夜々はやはり子供のように笑う。ついていくのも難しいのか、一方の瀬栖榎は、はぁ……と困惑気味。しかし、夜々は半ば強引に瀬栖榎を背中に連れ、掃除道具を探しにいく。
「あ、あの、えっと、や、やーちゃん」
「うん?」
照れに頬が赤くなっている瀬栖榎。友達をあだ名で呼んだことがなく、生まれて初めて他人のことを名前以外の表現方法を用いたような顔。そこで反応するのが夜々らしいとは思えるが、夜々は敢えて触れないようにしたのか、平然と振り返る。
「どうして、そんなに、しようと思うんですか?」
率直な疑問。まだここへ来て、一時間も経過していない。適応出来ていない瀬栖榎とは裏腹にやる気を見せる夜々に、何も感じないことはないのだろう。そこで夜々が初めて明白に表情を曇らせる。不安などではない、躊躇いと怯えの表情。沈黙を走り抜けるトラックのエンジン音と、蝉時雨が邪魔をする。
「いっちーにはナイショだよ?」
「え? 月見里さん、ですか?」
乙樹の名を出すことに疑問を覚えているが、夜々はその間を埋めるように、ただ一言。
「あたしね、逃げてきたの」
無垢な笑顔に聞き逃しそうになる言葉を、瀬栖榎はまっすぐに受ける。その視線は、驚き。目が開き、口も小さく開いた。夜々はその表情を見て、気恥ずかしそうに立てた人差し指を自分の口に当てた。
「ナイショ、だよ。……誰にも言わないで」
最後の言葉は、妙に真剣味を帯びている。夜々の瞳が強くそう訴える。
「え、あ、えっと、はい……」
懇願に思えたのか、瀬栖榎はとりあえずと言った具合にそう応える。それでも言葉は詳細を希望する声色だった。
「怒られたくないもん。だから、あたしとせっちゃんの秘密だよ」
空気を濁したことを払拭するように、夜々は笑った。笑うことでこの場をとりあえず抜け出したい。これ以上、それに触れないでと求めるように。瀬栖榎はそれでも、その笑顔に笑って応えることは出来ずにいた。唇を丸めるように小さく噛み、掃除道具を取りに背中を見せる夜々に、深く気づかれないようにゆっくりと息を吐くだけだった。
「じゃあ、せっちゃんは埃拭いてくれる? あたし、部屋に掃除機かけるから」
「はい、分かりました」
道具を持ち出してからの二人には、微妙な距離感のような、見えない壁があった。触れてはいけない。触れて欲しくない。けれど気になる。けれど気にされている。それは遠慮だった。お互い安気になれず、一見の中は良さそうだが、当たり障りのない話題で食いつなぐ、あまりにも薄い関係の芽生え。しかし、成長を感じさせないのは時間経過の浅さなのだろうか。
夜々は部屋の隅から掃除機を掛け始め、瀬栖榎はとりあえず近くから。そんな二人の間には、掃除機の音が響き、足音がその中に微かに聞こえるか聞こえないか程度の音だけ。
「あ、せっちゃん。こっちの棚から拭いてもらえる?」
「は、はい」
仲が悪いわけではない。しかし、良いわけでもない。掃除と言う作業を共に協力している姿勢には、不審なものはない。しかし作業に集中しているという名目を残し、お互いに何かを気に掛け合っている。突然共に生活することになり、混乱していることもある。素性の知れた中ではなく、まるで住む世界が異なる二人が、多少のやり取りの中でそれを感じ、気を遣っている。その気遣いが壁を呼び起こすことに気づいていないようだ。
「あ、あの……」
作業において、夜々は楽しそうではないにしろ、その作業効率は比較的手馴れた形跡がある。瀬栖榎は時折、どこを拭けば良いのか手が止まる。
「その、や、やーちゃんは、お掃除、慣れているんですね?」
聞き取りにくかったのか、掃除機が動きを止める。
「うーん。慣れてるけど、好きじゃないよ。でも、仕方なかったから。苦労の賜物ってやつかな?」
掃除機に瞳を落とす夜々は、何かを思い出したようにため息を漏らし、やはり笑顔を見せる。しかし、その笑顔は苦笑。どこか諦めているものを映し出している。それを瀬栖榎が気づいているのかどうかは、その肯く表情には表れてはいない。ただ、言葉はなく、どうしたら良いのか、自分でも分からないようではあった。
「ほ、ほら、せっちゃん。まだまだ掃除する所はあるから、びしびしやっちゃお」
「あ、はい……」
縮まらぬ距離。関心はお互いにある。ただ、お互いにそれを聞くことは失礼ではないか? 仲良くなれるかもしれない相手を傷つけて良いのだろうか? 怒らせてしまうのではないか? そんな恐れに無理に笑う夜々とそれに乗るだけの瀬栖榎。
幾つもある部屋を掃除し、終わる頃まで二人はそんなぎこちなさをお互いに抱えながら、つかず離れずの距離を保ち、振り出しに戻すように掃除道具をしまいにいった。
「次は、どうしますか?」
することもなくなり、ここへ呼び寄せた男の姿もない。手の空いた二人は、お互いを極力見ないようにでも心がけているのか、視線を彷徨わせては、室内に置かれた物を見ては、言葉を待つ。
「いっちーたちが帰ってくるまでは、何も出来ないね。ご飯の準備も材料がないし。どうせだから、休憩しよ」
夜々が思い立ったように台所へ向かう。
「あ、せっちんは良いよ。ゆっくりしてて」
「はい……」
ついていこうとする瀬栖榎に夜々が笑って首を振る。それは拒否のようで、お互いに少しばかり一人で考える時間を持ちたいという現われだったのか、瀬栖榎は大人しく居間に残った。しかし、落ち着かない様子で座ることもなく、部屋の様子を眺めつつ、初めてため息を大きく漏らした。誰にも聞かれていないからこそはっきりと出るため息は、やはり疲労を思わせる。窓の外は田舎の風景。大した造形物もない夏空が広がり、窓にうっすら映る自分を見つつ、瀬栖榎は髪を弄っていた。整えるのではなく、することを考えられずに、手持ち無沙汰に無意識の癖のように、人差し指に横髪を巻きつけては解いていた。その表情は目の前にうっすらと映る自分に対して何かを思っているようだが、答えのない迷路に迷い込んでいるのか、明るくなることはなく、気落ちしたように暗い。
「うっ……」
と、不意に瀬栖榎が髪を弄っていた指を耳に当てかえる。表情に違和感のような、痛みを覚える苦痛がわずかに滲む。
「おっまたせー、せっちゃん。お茶だよ……あれ?」
タイミングが良いのか悪いのか、麦茶の中を泳ぐ氷の軽やかさに便乗した夜々が戻ってきた。
「あっ……」
「せっちゃん?」
取り繕うとする瀬栖榎だが、違和感が波のように押し寄せているようで、笑顔を浮かべることも出来ず、困ったように目を合わせた。
「どうかした? どこか痛いの?」
夜々がテーブルにお盆を置いて、瀬栖榎に小走りで寄る。
「あ、いえ。大丈夫です。ちょっとだけ、耳がキーンってなったので……」
「耳鳴り? 大丈夫?」
夜々が心配げに見るが、瀬栖榎は治まったのか、表情を元に戻した。当てていた手は外すことはなかったが。
「すみません。お手洗いに行ってきます」
「あ、うん。部屋を出て右奥にあったよ」
逃げるように、瀬栖榎は夜々の横を通り過ぎ、待たずの気配に夜々は何も出来ずに、不思議そうにその背中を見送った。
「せっちゃん……?」
どこかその背中に、何かを感じたのか、夜々はそっと後を追う。瀬栖榎は洗面台の所で、何かを飲み込む仕草に、軽く背中を逸らせていた。しかし、夜々はそれをそっと見つめると身を翻す。
「皆、何かあるんだね……」
状況は分からずとも、様子に勘がいいようで、夜々は年季を漂わせる天上の木目に角の壁に寄りかかりつつ、吐息を漏らした。
「頑張らなきゃ、だよね……。ここが最後なんだから」
自分に言い聞かせるように気合を小さく入れると、先に部屋に戻って行った。
「とりあえず、これくらいかな」
僕らが向かった先にあった小さな商店。必要なものは何とか取り揃えられた。
「あれ? これ……」
結局、荷物を持つのは僕。と言うよりも杠葉君は何もしない。ただついてきて、買い物中は外で待つ。出てきた僕が荷物を持ってもらっても良い? だなんて言えるような態度じゃない。言うなら、いかつい顔をして出てきた僕が悪いみたいに睨んでる。そして僕は結局両手を使って荷物を持つ。
「悪ぃか?」
「いや、別にそう言ってないけど……」
最後に食材を買いに行った時、珍しくついてきたと思ったら、いつの間にか籠の中にはいくつかのカップラーメン。しかも全部自分のときた。僕は別に良いんだけど、領収書を貰う以上、レシートに記録が残る。あくまで僕の想像だけれど、一悶着がありそうな気がした。とは言っても、僕も手持ちはほとんどない。何かに備えて極力消費は避けたい。
「じゃあ、とりあえず、これで終わりだよ」
「あー、だりぃ」
特に意味のない会話にも、どうしてか心が痛い。夜々と過ごしていた短時間の方がいかに気楽でいられたか、今になってつくづく思う。
帰り道。日差しは天頂を越え、それでもなお熱気は溜まる。両手に抱えた重力に忠実な買い物袋を持って歩くと、僕は何をしているのだろう。そんなことを漠然と考えてしまう。目の前を行く杠葉君との会話はなく、ただ二人して歩く。暑さにしつこい会話は確かに嫌いだ。でも、完全な沈黙もどうかと思う。自転車で追い越していく子供の起こすわずかな風。それすらも今はかけがえのないものに思う。
「あちぃな」
「うん……」
脚力には自信があるとは言え、腕にはそれほど自信はない。ちょうど僕が夜々と出会い、日差しにくらっと来た堤防沿い。直射日光に陽炎が見える。足取りには問題はない。ただ、額の汗を拭う度に荷物ごと持ち上げる腕が痛い。
「おい、まだ金はあんのか?」
「え? あぁ、千円くらいは」
「出せ」
何と簡単な脅迫だろう。あからさまな風体の人にありきたりなことを言われるのは、初めてだ。
「え? でも……」
「いいから出せっつってんだろ」
「あ……」
問答無用でポケットから預かった財布を奪われる。
「そこらにいろ」
「え? あ、ちょっ……」
言葉を待つこともなく、道を外れていく杠葉君。中身を確認しながらどこかへ行く背中を、追いかけるべきなのか否か。躊躇いなく僕は後者を選択した。追いかける前に、汗を拭いたかった。それに汗の量からして無理すると脱水症状になりそうだった。待っていると言われた以上、そう信じてみよう。買い物に何だかんだで、何もしてくれないけれど同行してくれた。その可能性に僕は賭けてみた。
―――という名目で、僕は近くの木陰に身を寄せ、ひと時の涼を求めることにした。
「恐い人だな……」
一人になった途端、緊張が解け、暑さを暑いとしっかりと感じられた。これからどうすれば良いのだろうか。待つべきだろうか。それとも帰る場所は恐らく同じ。引いていく汗を再び噴出させるなら、乾いてしまう前に戻った方が良いんじゃないか。戻ってこない杠葉君と言う人を理解するにはあまりにも短時間過ぎて、結局、ここにいなければ何かされそうな気がして動こうに動けない情けない自分を選んだ。
「こんなつもりじゃ、なかったんだけどな……」
どうしてこうなったのか。改めて思い出すことはしない。それをしてしまえば、きっと落ち込む。荷物を置いて両手で顔の汗を拭うと、思っていた以上に手のひらに汗が光った。
「電話、した方が良いかな」
ポケットから取り出す携帯は、電池残量が残り二つの電波良好。家に賭けてみることにした。アドレス帳を開くと、二件の消えない連絡先の後に、家と記されている。そこだけはもう触れることはしない。持ち主がいない連絡先を残しておいても仕方が無いのは理解している。でも、これすら僕は消すことが出来ないんだ。
「もしもし、母さん?」
それを飛ばして電話をかけると母さんが出た。
「あのさ、ちょっとの間、家に帰れないかもしれないんだ」
はぁ? と疑問符が強調されて聞こえる。
「なんて言うか、友達が泊まりに来ないか? って、その、誘ってくれてるんだ」
親に嘘をつく。親は子に隠し事をする。子も親に隠し事をする。ただ、それだけなのに、その電話口からの応答には、罪悪感を覚えた。
「うん。暫くの間。いや、一応借りられるから。うん、うん。分かった」
一瞬の躊躇いの後の了承だった。母さんの声は、「そう……、仲良くね」ただ、それだけ。怒るでもなく喜ぶでもなく、静かな返答に何を思ったのかは分からない。心の中で、ごめん。とだけ謝った。
通話を終えると、ため息が出た。きっと何かを感じられた。でも敢えて聞かれなかったことには、心苦しさと同時に感謝がある。少し距離を置く。それは家族ではなく、自分自身に。分かっているからこその快諾に今は甘えることにする。
「終わったか?」
「え? あぁ、うん」
いつの間にか杠葉君が戻ってきていた。本当に戻ってくるんだ。そんな思いが初めにあった。
「じゃあ、戻る?」
「食え」
質問を無視され、投げ渡される買い物袋。荷物を持ち上げようとした体勢を崩され、何とか受け取る。中には袋に入ったイチゴのカキ氷。六十円の氷菓だった。
「え? 何?」
困惑した。いきなりカキ氷を渡されても。
「食え。溶けんだろうが」
そう言う当人はコーラを持っていた。
「あぁ、うん。ありがとう」
受け取れと鋭い視線に怯える。まるで狼に睨まれた羊だ、僕は。食べられないように狼に気を遣う。反抗する勇気なんて湧かない、誰かと一緒に行動しないとダメな弱い羊。
「あの、それで、おつり……」
「あぁ?」
「いや、何でもない……」
コーラとカキ氷。合わせて二百円もしない。奪われた千円の内の残りを、と言おうとして、止めた。狼に逆らえば食べられてしまう。狼に勇敢に立ち向かうほど出来た羊じゃないんだ。
それでも、影では得られない爽快感のある冷たいカキ氷は、一気に熱を奪ってくれる。少しずつ溶けて、袋の中にジュースになるカキ氷。
「遅ぇな、食うの」
「急いで食べると頭にくるから」
カキ氷だけは少しだけ苦手だった。夏はいつも食べていたけれど、どうしても頭に来る。その度に笑われていた。食べるのが遅い。溶けちゃうと何度も急かされ、挙句の果てにはまだ食べていたものを奪われ、一気に喉に流し込み、キタァーッ! なんて一人で頭を抱えて悶えていた。そんな過去の光景は、もう僕の前には広がらない。
「戻んぞ」
「うん」
カキ氷を一人で平らげたのは、初めての夏だった。
「あれ? 空き缶は?」
「しるか」
荷物を再び一人で抱えてしおかぜに戻る。いつの間にか杠葉君の飲んでいたコーラの缶がなくなっていた。どこかに置いて捨てたのは分かるけど、少しだけ気になった。きっと、今までのお節介に巻き込まれたせいかもしれない。そんな細かいことまで僕は影響を受けているようで、距離を置くどころか、どこにいても縋ろうとしている自分に自己嫌悪を覚えた。
暫く歩いて、しおかぜが見えてくるまで、結局会話はなし。ただその背中を追うだけで、僕は汗を何度か拭うだけ。反射が眩しい海も鮮やかな緑も、風物詩の蝉の音も、少しも楽しいとは思えず、ただ、重い荷物に苦痛になるだけだった。
「あーっ、いっちー、お帰りー」
戻った早々口煩ぇ声。いちいち癪に障る。
「あ、うん。買ってきたよ」
んでもってこいつは何で安心してんだか。気持ち悪ぃ。
「お、おかえり、なさい」
さらにんでもって、何か読みにくい名前だった、こいつ。いちいちビビんな。胸くそ悪ぃ。
「って、ちょっと、杠葉」
「あ?」
「何で荷物持たないのよっ! いっちー一人に持たせるとか何考えてんのよっ」
ほんとうるせぇな、この女。
「や、夜々、別に良いんだって。そんなに重たくないから」
こいつもこいつで何嘘ついてんだよ。汗だくになってたくせによ。つーか、俺が全部悪ぃみてぇだな。間違っちゃいねぇがよ。
「ちょっとは手伝うとかしなさいよね、誰のせいだと思ってるわけ、もぉ」
「てめぇらが勝手にやったことだろうが」
「はぁ? 元はといえばあんたが原因じゃないっ」
「てめぇが何もしなけりゃ、いつも通りで終わってんだよ、くそが」
「何よっ! 悪いことしたのはあんたじゃない。何? 自己正当化? うわぁ、最悪」
こいつ、いちいちほんとムカつく。殴ってやろうか。
「や、夜々。だ、ダメだって」
「け、喧嘩は、良くないと思います……」
ほんとウゼェ。どいつもこいつも所詮はこの女を庇うんだろうが。
「……うるせぇ女だぜ」
癖になってんのか、舌打ちで通り過ぎる。相手にするだけ面倒くせぇ。
「あっ、こら、まだ話終わってないじゃないっ」
「や、夜々っ」
「姫柊さん、抑えてください。あっ……」
どいつもこいつも死ね、マジ。やってられっかよ、んなガキ遊びなんか。
買い物袋からラーメンかっさらって部屋に戻る。出て行ってやろうと思ったが、あのクソ男まで来やがった。
「おい、どうした? またもめてんのか?」
「だって、あいつが……」
続きはドアの向こうに消した。途端に静かな室内。妙に綺麗になってる気もしたが、どうだっていい。女相手にすると、どうも疲れる。寝るか。食いモンもひとまず確保した。無視しときゃ、どうとでもなんだろ。どうせ、これもいつものこった。
誰もいねぇ部屋。ムカつく気持ちが胸くそ悪い。こう言う時はぶっ壊してスッキリするのが、俺。けどな、今はそれすら面倒。こういう時は寝るに限る。寝て覚めた時に全部が無くなってりゃ良いのによ、こんな世の中。
「あーくそっ」
どいつでも良い、殴ってやりてぇ。
「暑ぃんだよっ、くそがっ」
冷房すらねぇのかよ、この部屋は。寝るに寝れねぇだろ。
「結局、どこだろうと変わりねぇのかよ……」
ムカついてんだか、どう何だかも分かんねぇ。とにかく、ここも留置と変わらねぇってことかよ。
「は、入る、よ?」
結局、あの後事情を話したけれど、そのうちどうにでもなる、と僕らを引き入れた人に言われた。夜々はまだ怒ってるけれど、夕飯の支度をするように言われ、木名瀬さんと共に夕食を作った。僕にはどうしても信じられなかったのに、夜々の料理は本当に美味しいものだった。勝手な認識だと分かっているのに、料理が出来ると言うだけで、僕はどうしてもそれを簡単に受け入れ、美味しいということが出来なかった。
夕食後は先に女から風呂に入れと言う事で、夜々と木名瀬さんが一緒に風呂に入っている。それを待つ間、僕には居場所がなかった。あの人は仕事に戻ったのか、倉庫から明かりが漏れている。手伝う気力もない僕には、ここに戻るしかなかった。夕飯には結局姿を見せなかった杠葉君。まだやっぱりさっきのことが頭を離れなくて、深い、深い、深呼吸を何度か繰り返した。
仕事と言う名の無銭労働も、明日から。夜々がいないだけで、僕の居場所は本当になかった。今になって、あの時、無理やりにでも手を離し、走ることが出来れば……。そんな後悔に後悔が沸く。
「やめたんだから……」
もう、いないんだ。だから理由もない。その結果がこうだ。神様は僕に一体何をさせたいのだろうか。
返事のない襖。いるとは思うけど、返事がないのは無言の威圧に思えて、素直に明けられる気分じゃない。
「し、失礼します」
自分にも割り当てられた部屋。静かに襖を開ける。その瞬間、僕は果てしなく安堵してしまう。杠葉君は眠っていた。座布団を丸めて枕にして、扇風機を独占しながら、僕に背を向けて、横たわっている。目が合わないだけで、抱えていた緊張の三割はきっと解けた。足音を立てないように、テーブルに夕飯を置く。怒っていたのに僕に一人分の夕食を渡した夜々。初めは嫌そうだった。その反応は似ていた。でも、木名瀬さんが体に悪いです、と夜々を説得して、僕の腕の中にそれはある。何だかんだで夜々も優しいように思えた。単に木名瀬さんを立てたとも言えるかもしれないけど。
「どうしようか……」
気晴らしのテレビなんてない。あってもつけたら起きるだろう。無理だ。そうなると必然的に、逃げ場を探してしまう。ここは猛獣の檻。刺激すれば僕はエサにもならないはず。自然と足が動いた。捜し求めるように。
「あん? どこに行く?」
「あ、えっと、ちょっと散歩に……」
部屋を出て、玄関で靴を履く。ちょうど倉庫の方から男が出てきた。
「この辺は暗ぇからな。迷うなよ」
「は、はぁ……」
不許可を言い渡されるものと思っていたら、すんなりと忠告を受けるだけだった。
「お前、あいつが恐ぇんだろ?」
そして、引き戸と開けた背中から、一本の矢が飛んできた。それは見事に貫通して、痛みを与える。図星と言うものの語源を理解した気分だ。
「まぁ気にすんな。ああいう奴はな、お前から歩み寄ってやりゃ、素を見せるってもんだぞ」
十分に素性を見たともう僕の答えは、きっと笑って流される。そう思うくらいに、この人は面白そうにこっちを見ている。
「いってきます」
「さっさと風呂入って寝ろよ。明日は早ぇぞ」
これから外に出る人間に掛ける言葉じゃないだろう。応えずに外に出た。
閑散とした夜道。車は走らず、人気もない。民家のわずかな明かりと、虫のたかる街頭が夜になっても鳴り止まない蝉たちにあるようだった。
「あっ……」
恐怖と言うのだろうか。―――言うのだろうな。思わず携帯を取り出してしまう。けれど、すぐにそれは無意味だと気づく。電池がいつの間にか切れていた。充電器もない。コンビニもない。家にはこの時間に帰るのも遠いし、バスもないだろう。お金もない。あるのは纏う服と止めたのに、履き慣れた運動靴と役に立たない携帯。今日はとことんついていないな。自嘲もしたくなるくらいに星空が瞬いている。当てもなく歩く。ついていく背中のない道を、ただ歩く。信号も意味を成さず、ただ不気味に静まる夏の夜の下、わずかな明かりを頼りに歩く。
何を考えれば良いのかすら、考えられない。明日から巻き込まれた仕事について、あの僕の目を魅了した船のことか、それとも何の因果か僕の目を過去へ連れ去った夜々か、何の因果か一緒に生活を始めた木名瀬さんと杠葉君か。どれも違う気がした。
「そう言えば、あの人、何て言うんだろう……?」
考えられたのは、僕らを引き合わせた、と言うか、ほぼ強制的に連れ集めたあの男の人。人のことを見透かすようにいうかと思えば、ただ適当にしているようにも見える。でも、僕はその人の名前すら知らない。しおかぜと言う船の修理工と言うことくらいの想像だけ。
「これから、どうするんだろうな……」
茫漠とした先の見えない生活の始まり。僕は返答を得ない波音に意を委ねることすら出来なかった。
「朝陽……君なら、どうするかな?」
立ち止まる足。見えない姿を星と海に求め、思い出すしか出来ない。
「戻ろう……」
居場所のない、居場所へ。もうどこにも居場所はないけれど、それでも縋るしかないあの場所に。
閲覧ありがとうございました。
今後はアルファポリス青春大賞開催につき、11月の更新作品は、主に本作とユースウォーカーズになります。
とりあえず、次の更新作品は、「if」です。予定日は28日です。
その後は11月1日にユースウォーカーズを更新します。




