十一ページ.動き出す、新しい日々
約半年という、長らくの更新の停止を、お詫び申し上げます。
更新作品の多さと、仕事の多忙さに遅くなってしまうのですが、少しずつ早めていこうとは思いますが、なかなか時間が取れない以上、これまでよりは早く更新できるかと思いますが、それでも遅いと思われるかもしれませんが、どうかご了承の下に閲覧していただければと思います。
また、誠に勝手なことではありますが、次回更新を予定していました「if」を、当面の間、連載停止をさせていただきたく思います。
閲覧数を鑑み、結果的には切り捨てということになりますが、更新をお待ちいただいている作品を優先する方向に修正させていただきます。
そんなことをしたことすら、未だにはっきりと思えていた。
「そういえば、ここから近かったっけ」
海沿いを見つめて、あの時の場所がそれほど遠くなかった記憶が甦る。でも、すぐにその思考―――行ってみよう、と言う意欲は失せた。
何もないんだ。何も。もう。
この場所がそうだから。あの時のように振り返って見上げる堤防に、もうその姿はない―――……。
「何してるの、いっちー?」
朝焼けに浮かぶ君。
まさしくその姿が、そこにはあって、何かが突き抜ける衝撃があった。
「……あ、朝陽?」
思わずの姿に夢か現実か、一瞬ためらいと共に、希望が言葉になった。
「朝日? うーん、まだ出来ってないんじゃない?」
それでも、すぐに現実はそこにあった。どんな希望も、現実の前では空虚に消えてしまう。夢を持てば、いつか叶う。そんなことを言う人間は多い。じゃあ、僕の夢はいつまで持てば叶うんだ?
僕は、そんな下らない現実逃避の言葉を投げる人に、そう問いかけたい。
「……あ、夜々」
それは彼女ではなく、彼女だった。
「うん? どうしたのいっちー、こんな早くから」
夜々がそこに居て、見間違えた。容姿なんてまるで違うのに、僕は何を寝ぼけていたんだか。考えていたこと全てが、夜々が僕を見下ろす姿に消えていく。首を傾げている夜々に、何故か少し寂しさを感じたことは、言えなかった。
「夜々こそ、どうしたの?」
僕は意味もなく踏み込んだ砂を蹴り散らすように階段を上がっていく。それに合わせるように夜々が堤防を歩いて階段との縁に来た。
「いっちーが外に出るのが見えたから、尾行してたの」
その言葉に、思わず階段を上がる足が止まる。
見られたのだろうか? 今の僕のうつつな姿を。それだけは自分でも嫌だった。
「うっそ。誰かが外に出る音がしたから目が覚めたの」
でも、あけすけと笑う夜々には、少しだけ驚いた。僕が階段を上がると夜々が飛び降りて隣に並んだ。少しだけそのときの風に優しい香りがしたのは、僕だけの秘密にした。
「よく気づいたね?」
それは驚きだった。極力足音も扉の開け閉めも音を立てないようにしたつもりなんだけれど。
「うーん、長年の経験、かな?」
「経験?」
人差し指を唇に当て、首をかすかに傾げる表情には、何故だかあまり可愛いと思えるものは浮かんではいなかった。
「んっとさ、自分が部屋にいて、階段から足音が聞こえてくると、この足音は誰のだーって、何となく分かるようになったりするよね?」
問いかけは意見を聞くものじゃなくて、賛同することが当然のように僕の耳へ滑り込んだ。
「あぁ、それは何となく分かるかも」
でも、確かにそれは分からないこともなかった。足音が大きければ、とか、階段がぎしぎし言う感じは誰だ、とか分かるようになる。そして、その足音で、僕にもやはり思い当たることはあって、その足音だけは、いつもすぐに分かるほどに軽やかで淡々としていた。そんな足音が聞こえなくなって、一体どれほど、僕はその足音にさえ焦がれてしまうことがあっただろうか。
「いっちー? どうかした?」
「……ごめん、なんでもないよ」
夜々が顔を覗きこんできた。今朝はどうやら僕はダメだ。夢と現実の狭間で漂っているみたいだ。
「でさ、なんとなくいっちーじゃないかな? って思って、出てみたら、ばっちりだったねっ」
満面の笑み、とでも言おうか。夜々は僕とは違い、昨晩お風呂上りに見かけたシャツとショートパンツ姿で、少し意識してしまいそうになる僕を、可笑しそうに笑っているようにも見えて、照れくささがあった。
「でもいっちー、早起きだね? お散歩してたの?」
夜々が朝穂が少しずつ僕らの背中の山の上の空を白く染めていこうと、薄紫と朱色の混ざったような明るさが少しずつ色濃さを増している。それは夏ではまだ早朝も早朝くらいだ。
「そんなところ、かな」
いったい何をしたかったのか。それは自分でも分からない。ただ、外に出たくなった。
「そういう夜々は? まだ寝てても良いんじゃないの?」
朝は早いとは、昨日聞かされた。でも、僕らにそれを行ったあの人は、まだ夢の中だ。少なくともあと二時間は誰も起きないんじゃないだろうか、と、ラジオ体操はまだ子供たちがスタンプを押してもらうカードを持ってやっているのか、記憶の中にある時間帯に照らし合わせても、まだずいぶん時間がある。
「ん〜、あたしね、いつもこれくらいだよ」
「え? こんな早いの?」
唇に人差し指を当て、どこか瑠璃色の空が広がる対岸へ視線を逸らす夜々に、思わず聞き返した。
「うん。あたしの家ね、朝ごはん、あたしが作らないといけないし、皆結構朝早いからこれくらいに起きないと間に合わないの」
それをさっぱりと言うものだから、僕は返す言葉が浮かばない。出来ることなら、
《部活ない日は遅刻ギリギリでも良いじゃん。どうせいっきが起こしてくれるんでしょぉ?》
とか、
《毎朝お母さんにたたき起こされないと、起きたぁーって気がしなくない?》
とか、自分一人では起きられないといって欲しいというか、見た感じでは、どう考えても夜々はそういう人間にしか見えないんだけどな。
「夜々はすごいね。僕は起こされないと起きれないよ」
笑い話になれば、と自嘲するように言ったつもりなんだけど、予想に反しての反応が返ってきて、それに僕は驚いた。
「でも、いっちー、ちゃんと起きてるよね? 一人で」
「え? あ、あぁ、それは、ほら、部屋が部屋だから、かな?」
嘘ではない。杠葉君と同室のおかげで、僕は部屋を出るまでひたすらに緊張状態に置かれていた。そんな緊張感の中でぐーすかと寝ていられるほど、僕の神経は図太くはない。
「そぉ? でも、クマとか出来てないし、眠そうでもないよね? 実は早起きじゃない?」
そう、僕の驚きはここだった。僕の勝手な夜々のイメージを、夜々はことごとく否定して、その上に僕を見るその観察眼は鋭い。僕より、夜々のほうがずっとその緊張感の中にいて、絶えず気を抜けない状況により、自分を守るために身についたもの、のようにも思えた。
でも、そんな考えはすぐに打ち消した。そんな緊張状態の中に身をおき続ければ、人間、いつか発狂する。それか壊れるだろう。夜々の僕を見る笑顔には、そんなものを微塵にも感じられない純真さが光って見えたんだ。
「昨日今日ってだけだよ。さすがにこれから毎日、となると厳しいかも」
正直な感想に、夜々がまた僕を笑う。
「大丈夫だよ、いっちー。あいつ、喧嘩はするし、警察沙汰起こすし、うらまれてるし、嫌われてるけど、気にしなければ無愛想なだけだから」
明るい笑顔でさりげなく恐ろしいことを言う姿は既視がある。
「いや、無愛想の一言だけじゃ、済まない人だと思うよ、僕は」
何かと常に不機嫌。その上背負う肩書きは重たい。そんな人と生活するのは狼に睨まれた羊だ。いつ教われるか分からない緊張感の中で食事、睡眠をするのは恐ろしい。
「大丈夫。ああいうタイプって、素直になれないだけで、本当はめっちゃ良い奴、とかだって。きっと」
確証はないってことか。信じたいけど、現実を見ると頷けない。
「慣れだよ、慣れ。それにしても、静かな朝だね」
慣れることに時間を費やすのなら、やらされる仕事をいち早く片付けて開放された方が、僕としては嬉しいと思う。それにしても夜々は本当に似ている。話題を一人で転換して、僕の視線から逃れるように対岸を見つめる。瑠璃色の空と、少し黒い海。対岸には少しずつ光が降り注ぐように輪郭が浮かび上がってくる。それが蜃気楼なのか、本物なのかはどうでも良いけれど、対岸は遠かった。
「夜々はいつも見てるんじゃないの?」
家は近所だと言っていた。
「うん。でも、こうやってゆっくり朝日を見るなんてなかったから、気持ち良いかも」
背伸びをする仕草と伸びる声は、本当にそう思っているんだろう。ついつられて波の間を見つめる。
「鹿児島市の方が明るいね」
「ここは山が後ろにあるし、仕方ない」
遮るものない対岸の薩摩半島には、日差しの柱がその範囲を広げて照らし出していく。遠い世界が海を隔ててそこにはあり、まるで地上からは決してたどり着くことの出来ない、光に満ち溢れた場所に見えた。
「いっちー」
「……ん?」
少しずつ小波の音色が海を照らし始める夏の日差しの目覚めに、広がりを見せ、今日もいい天気で終わりそうだと思う僕に、夜々がこちらを見ていた。
「今日から、頑張ろね?」
鮮やかではなく、しっとりとしているとでも言うべきか、はにかみ夜々に、今まで感じていた今日の長さへの不安が、やんわりと霧散するように薄らいでいく。
「分かってるよ。ちゃんと資料には目を通したから」
そして僕らは振り返り、自然と歩き出す。それは今日と言う一日へ、どんな期待や不安を抱いているのかは分からない。でも、そろそろ戻ろうと思う思いには、少しだけ一人でここへ来たよりも、気持ちが楽になっていた。
「へぇ。やっぱりいっちーは楽しみなんじゃない?」
「そんなことはないよ。何も分からないから、覚えておかないと何も出来そうになかっただけだよ」
踏みしめる砂が、軋むように、くっ、くっ、と小さくなる。それは小波に書き背されてしまうほどだけど、体が不自然に傾く感触に、その音ははっきりと聞こえた。
「そうやって予め予習する辺り、いっちーは誠実だね」
決めた以上は、そうするしかない。それが誠実かと言われると内心は複雑ではある。何しろ、ここへ来た理由自体に、誠実さは皆無なんだ、僕には。
「さぁて、あたしは朝ごはんの準備に入ろっかな」
僕より前に出ることのない夜々。足並みは、まるで僕に合わせたように、隣でそう気合を入れていた。
「何か手伝おうか?」
「ん〜。大丈夫っ。いつもと人数変わんないし、ゆっくり準備できるから。それよりもいっちーは、しっかり朝ごはんを食べて、頑張らないと、だよね?」
言うだけ言うつもりだったから、断られることにはなんとも思わなかった。僕には皿を出す、くらいしか出来ないから。
「さ、戻ろっ、いっちー」
「ああ」
二人して狭い堤防の階段を上る。まだ朝日はやってこない。少しだけ生温い朝風と、涼やかな風の入り混じる朝は、少しずつ空け始めた。
「……」
いつの間にか、目の前がうっすらと青みかがっていた。鬱屈な朝が来た。それくらいにしか思わねぇ。夢も案の定、現実を前に所詮は夢でしかねぇ。なら、覚めない夢に俺は沈んでいたかったと目を閉じようとして気づいた。
「あいつ、起きてんのか……」
部屋の中には俺一人。近くにはすでに畳まれた布団が一式。部屋を見回し、時計を探す。壁にかけられていた時計が示す時間は、五時を多少過ぎた程度。なんちゅう時間に目が覚めたんだか、自分でも分からねぇ。
とにかくまだ寝てようと問題はねぇだろ。
「ったく……」
他人のことは知ったこっちゃねぇ、はずなんだけどな。静まる室内に、早速鳴き出した蝉。やけに静か過ぎる外の雰囲気が。耳に不快なのかよく分からん気持ちをまとわりつかせ、二度寝が出来ねぇ。気にしたとこで意味なんてねぇのに、気になっちまった。
「あぁ? 誰も起きてねぇのか?」
部屋を出る。誰もいやしねぇのか、静まり返ってるだけだ。若干軋む床に、無意識に音を立てるなと言われているようで、俺ともあろうもんが、足に神経を使っちまった。
「ふぅ」
いまいち覚えてねぇ廊下を歩き、台所にきて冷蔵庫を開く。昨日月見里が買った食材が入ってるが、興味はねぇ。手前にあった麦茶だろうな、ポットをとり、そのまま口元に持っていく。そのままのどの奥に流し込もうと思ったが、テーブルの上に逆さに置かれたグラスが五個、目に留まった。
「面倒くせぇ」
俺の家じゃねぇことくらい理解している。別にそれに引いたわけじゃないが、口元に近づけた麦茶ポットを離し、グラスに注ぎ換えた。程よく寝起きには良い冷たさが喉を通り腹の中に入る。それでダルさが少しは解消する。ともあれ、誰も起きてくる時間じゃねぇ。
「あいつ、どこ行きやがったんだ……?」
人の起きている気配はない。なら月見里は外か。荷物はあった。逃げたわけじゃねぇんだろうが、早ぇだろ、起きんのは。
腹もまだ減っちゃいねぇ。することもねぇ。特に意味はないが、部屋に戻る気もせず、倉庫の方へ自然と足が向かう。まさかもう作業してるわけはないだろうが、この静けさの中で、どうも俺は罪悪感と言うものでも感じているんだろう。妙に居心地が悪く、気分が落ち着きを得ない。全く、妙な時間に目が覚めるなんて、俺も情けねぇのか?
だが、倉庫の扉を開いたあと、そこはどこよりも静けさに満ちていた。
「んだよ。いねぇのかよ」
自然と出てくる言葉と、誰もいないことに内心は少々安堵している俺がいた。整然と置かれる船。興味はないが、これをあの男が一人で修理をしていると思うと、いったいあの男は何者なのかという疑問が湧く。
俺たちに、いや、俺が仕出かしたことへの罰則としての仕事は、隣にあるヨット。それでも近場で見ると十分デカイ。その上、隣のクルーザーだったか? に比べるとボロイ。あちこち破損している上、色も錆ている。こんなもんを素人も素人の俺たちがどうこう出来るもんじゃねぇだろ。いったい誰がここまでボロボロに使うのかは知らないが、よほど荒い使い方でもしたんだろうな。こんなもん、修理するなら廃船にした方が良いだろ。それくらいは俺にだって、見りゃ分かった。そもそもこれが本当に依頼されたものなのかも怪しいだろ。随分手を入れられてないはずだ。
近寄り、船体に触ってみた。ボロボロに崩れる塗装。手も汚くなる。
「こいつ、もう駄目だな」
直感だが、無理だろ、こいつが海へ出て行くのは。まだ綺麗さは見えてはいるが、細かいところが何年も手付かずと言うのか、妙なものが目に入った。
「汚ねぇな」
下手と言うか、何度も補修されたような後もちらほら。このヨットが一体どんな状況でここにあるのか、不可思議に思った。
「あ」
そして、そのままぶらぶらと見てたら、不意に触れたヨットの部品が派手な音を立てて外れた。
「俺か?」
俺はただ、軽く触れただけだ。んなもんで壊れるのが悪い。少しばかり冷や冷やしたものを感じたが、誰も来る気配はない。そのまま落下した部品を近くにおいて、倉庫を出た。
室内に戻ったところですることはない。
「顔、洗うか」
寝起きのままだ、そう言えば。洗面所を探しうろつく。自分の家なんてもんはない。だからか、家の中というのは少々不思議に見える。なんつーか、生活感があるってのは、そう見ることがねぇ。つるんでる連中の家は足の踏み場もねぇようなゴミ屋敷。汚ねぇけど、妙に落ち着くもんがあった。けど、やっぱ足音のする床。光が差し込む窓。壁にあるよく分からねぇ絵。そういう門をひっくるめて、家はこういう感じなのが普通なんだな、と納得はしないが、一般的というのには該当するんだろう。それが逆に落ち着かん。
洗面所につくと、水色、緑、ピンクのカップが目に留まった。そこに入った歯ブラシは、俺たちのだろうな。一本だけ、未開封のままのがあった。俺のか?
することもない以上、使うことにした。歯磨きなんてもんは、まともにした記憶がねぇ。するにしてもガムが大半だったような。
鏡に映る俺自身。全く、冴えないな。ただ、いつも感じる気だるさは特に感じはしない。久々にまともに横になって寝たせいかもな。
「ふぁ……」
少しばかり一人の時間に、気を抜いた瞬間だった。
「あっ……」
見たこともねぇような、寝巻きの女が小さくあくびをしながら顔を出し、俺を見て固まった。相変わらず、名前を思い出せねぇが、こいつも姫柊、月見里と同じく生活し始めたんだったな。携帯の使い方も知らねぇ変な奴。
「あ、え、えっと……」
「まへ」
俺を見て顔を赤くしだす。あくびを見られたことが恥ずかしいのか、単純に俺にびびってるのか。おそらく後者だろ、どうせ。手で制止させ、とっとと口を濯いだ。
「邪魔したな」
髪を整えようと思っていたが、止めだ。知らねぇ女、しかも俺にびびってる奴の前で、んなことするのも胸クソ悪ぃからな。
「あ……」
横を通り過ぎ、部屋に戻ろうとするが、相変わらずこいつは言葉をまともに発しもしねぇ。別に良いけどよ。
「あ、あの」
「あぁ?」
で、またどっかでやったような背中にかかる声に思わず止まる。自分で呼びかけておいて、俺が振り返れば一歩引くようにおびえる。いちいち癪に障るっつーんだよ。
「お、おは、おはよう、ご、ございます……」
びびりながら挨拶された。腰が折れるんじゃねぇのかって思うほどに頭まで下げて。
「……おう」
挨拶を返すのも面倒だったが、これから生活しなきゃなんねぇなら、無視するのも限界があんだろう。それだけ答えて部屋に戻ることにした。せっかくちったぁすっきりした気持ちも、こいつのおかげで元に戻りそうだった。顔を上げ、髪を肩に垂れさせたまま、一瞬目があったが、相手にするのはうんざりだった。歩き出す俺につづくように、女が洗面所に消える足音だけが、ひたひたと聞こえた。
「よし。飯も食った。じゃ、仕事すっぞ」
朝食後、僕らは男に呼ばれて、杠葉君と共に作業場へ向かう。男が気合を入れるように言うけど、僕も杠葉君も、当然そんなものにのることはなく、沈黙に男についていくだけだった。
「あのぉ、あたしたちは何すれば良いの?」
そんな僕らの後ろから、夜々と瀬栖榎の二人もついてくる。僕らとは違い、表情はいたって普通。出来ることなら、僕もそちらに行きたい気分なんだけど、男は問答無用で労働らしい。
「昨日言ったろが。家事と店番だ」
男が二人に言いながら、作業場内の隅に置かれていたものがごっちゃり詰まったカートを引っ張り出す。
「よし。男連中」
そして、男が僕らを見る。僕らの後ろには夜々と木名瀬さんが様子を見るように佇み、その後ろからの視線が少しだけ、恥ずかしいような気がした。
「今日はとりあえず、掃除だ。ついでにそいつの船体は錆も来てるからな。錆取りもすっぞ」
すっぞ、と気合を入れられても、その方法が分からない以上、どうしたらいいんだ。
「道具はここにあんのを使え。いいか。こいつはボロでも人様のもんだ。丁寧に扱えよ、丁寧に。ここ大事だからな、丁寧に、だぞ」
三度も言わなくとも分かった。
「ちっ」
分かったから次の工程についての説明を求めたい僕の気持ちを代弁するわけではないが、隣ではっきりと聞こえる舌打ちが、心臓を悪い意味で高鳴らせる。
「あぁ? おい、こら。舌打ちって何だ、こら?」
案の定、気に食わなかった男が杠葉君へ鋭い視線を向ける。
「いちいち何度も言うな。うっせぇんだよ」
そしてなぜ杠葉君はそこに油を注ぐように乗るんだろう。
「うっせぇくらいに言わねぇと、てめぇや理解出来んだろうが」
「あぁっ?」
その一声が爆発を引き起こす。男の表情はあくまでも故意に挑発するように見下している。だが、杠葉君の表情はすでに喧嘩する不良だ。
「誰のせいでこうなってんだ、こら? 自販機の使い方も知らねぇガキにゃ何度も言って当然だろうが」
「んだとこらっ」
さすがに男の一言は悪いだろう。もちろん、杠葉君が自販機を壊したことが最も悪いことではある。だからと言ってわざわざ蒸し返すように、しかも言い方が悪いとなると、腹が立ってもおかしくないだろう。そして僕には分かる。これは僕には止められない、と。
「ちょっ、ちょっと! いきなり喧嘩する?」
夜々が見ていられなくなったように声を上げるが、決して二人の間に入るわけではなく、僕の背中から声を出す。木名瀬さんは怯えてしまい、夜々の左側で立っているのが精一杯らしい。祈るように重ね合わせた手が、強く握られているように見える。
「どうせ俺にも勝てねぇガキのくせに、いちいち喧嘩に乗っても意味ねぇんだよ」
「てめぇっ」
杠葉君が、なおも挑発を止めない男に食って掛かる。胸倉を掴み、押し出すように服を掴んだ拳を男の喉下に押し上げる。だが、男は後ずさることもせず、慄く様子もなかった。
「どうした? んなもんでいちいちびびるほど、俺はガキじゃねぇぞ、こら?」
その状態にもかかわらず、なお挑発するように笑みを見せる男に、僕は思わず夜々を振り返る。夜々もこちらを見ていて、視線的にどうやら僕がとめに入るのが良いと訴えられているようで、困った。
「殺すぞ、てめぇ」
「やってみろや、がぁき」
その瞬間、何かが弾けた。そして僕は同時に悟った。無理だと。介入することは、死ぬために差し出された生贄だ。そんな度胸は、昔から、ない。
胸元を掴んだままの杠葉君が、開いている片手を振りかざし、男に向けて放とうとした。その振りかぶる動作は、紛れもなく本気。人を殴ることに躊躇いを覚える感情など、どこにもないとしか、見えない。
「なっ……」
でも、その拳は男には届かなかった。振りかざし、放った瞬間、杠葉君の体勢が大きく後ろへ倒れていく。
「おらよっ」
杠葉君が押していたはずの男が、倒れていく杠葉君に向けて傾く。僕らには何が起きたのか、見えていた。杠葉君は男を殴り飛ばそうとしていたんだろう。でも、気づけば、少しだけ作業場内に響く音を立てて、杠葉君が倒され、男が杠葉君の上に乗る、マウントポジションを制覇していた。
「殴る先さえ見てりゃ良いってもんじゃねぇんだぞ。足元がら空きじゃねぇか」
倒された杠葉君が頭を打つことはなかった。男は杠葉君が拳を振りかざした瞬間に、足を杠葉君の足に引っ掛け、自分の方へ引き寄せた。その力は強いものだったんだろう。杠葉君は足をとられ、バランスを崩し、そのまま押し倒されてしまった。それでも、倒れる間際に男が杠葉君の髪を掴み、顔だけ持ち上げるように抑えていた。
「す、すご……」
夜々の呟きに、内心で同意した。間違いなく男は殴られてしまうと思っていた。でも、男は決してひるむことなく、逆にその体勢を利用したように杠葉君を押し倒してしまった。あまりにも手早く、一瞬だったせいで、すごいとしか思えなかった。
「喧嘩ってもんはな、ただ殴って蹴ってやりゃ勝てるもんじゃねぇんだよ」
男が杠葉君の髪を話すと、先ほどまでむき出しになっていた杠葉君の闘志、というのか殺気のような気迫は打ち消されていた。男は何もすることなく立ち上がり、杠葉君を小さく笑った。
「力だけで勝ってきた奴なんてもんはな、しょせんはクズだ。負けを知れ、負けを」
男は軽く乱れた服を直す。杠葉君は悔しそうな睨みを見せながら体を起こす。
「くそっ!」
よほど侮辱されたと思ったらしい。杠葉君がそのまま僕らの横を通り過ぎ、来た道を険しい形相のまま出て行った。
「あ、あの、だ、大丈夫……っ」
僕は声をかけられなかった。夜々も杠葉君を見送るしかなかったのに、木名瀬さんが、杠葉君を心配するように声をかけようとしていたが、耳を貸すことなく杠葉君は扉を破壊するような勢いで閉め、姿を扉の向こうへ消した。
「ったく。ちっせぇプライドの奴だな」
そんな杠葉君に、男は肩で息を漏らすように、頭を掻いていた。
「まぁいい。とりあえず、月見里、だったか?」
「え? あ、はい」
沈黙の空気などどこ吹く風。男が軍手をはめながら僕を呼ぶ。
「あいつが戻ってくるまで、先にお前は掃除しろ。姫柊、木名瀬は家事が終わった後は昼飯の用意と店番をしとけ。客が着たら店のカウンターにあるベルを鳴らせ」
指示を出し、僕らを解散させる。夜々と目があったが、僕はどうすることも出来ず、苦笑いで、何とか頑張るよ、と伝えた。
「じゃあ、せっちん。あたしらも行こ」
「は、はい」
それが伝わったかは分からないが、同じように返ってきた夜々の表情に、僕は男の下へついていった。
「あ、あの……」
「俺はこの後少しばかり出かけの用がある。とりあえず、簡単に説明してやっから、よく聞け」
僕が話しかけると、そんなものは無視。あくまでもこの人は自己主張だけで引っ張る。先ほどは怖いとは思ったが、今は、それほど恐怖はなかった。
「こいつは見ての通り、船底から甲板まで錆がきてる。普通に鑢かけたくらいじゃ、船底を傷つけることになる。そうなりゃ引き取りも出せねぇ。だからな、研磨剤使って大まかにさびを落とした後に、コーティングする。こんだけの船体だ。どうせ一人や二人じゃ、一日でも終わらんだろう。お前には今日一日は、こいつの錆取りをしながら、昨日渡した本に書いてあった通り、各部所の確認をしとけ」
男がドライバーやら妙な機械やら布切れが詰め込まれたカートを僕の前に運び、ここに道具は全部ある、と言うだけ言うと出入り口へと歩き出す。
「ちょっ、あ、あの」
「あん?」
思わず呼び止めてしまう。
「道具とか、全然分からないんですけど……」
出入り口の向こうからは、掃除機の音が蝉の鳴き声と共に響いている。夜々たちは早速作業に入ったようだが、あいにく、僕には言い渡された仕事のことなんて無知であり、それを監督のいない場所で一人でやるのは無謀だ。
「こいつが研磨機だ。電源は向こうにある。ここのスイッチやれば動く。表面を滑らせるように動かせ。落ちにくい部分はこの研磨剤を塗ってから、同じようにやりゃ出来る」
カートの中からこいつとこいつな、と手渡される初めて触れる機械。言われた通りに場所は確認した。でも、実際に操れるかとなると、話は別。
「最初はそこの柱で試しとけ。そうすりゃ慣れるだろ。俺もやることあっから、あとはしっかりやれよ。あと、あいつが戻ってきたら、同じように教えとけ」
建物の柱は鉄筋丸出しで、柱は錆が来ていた。ぼくがそちらを向いていると、男はそのまま倉庫を出て行ってしまう。声をかける時間もなかった。
しばらく放心状態に置かれたが、聞こえる掃除機と夏の虫音に、何かしなければと、落ち着けない中で、研磨機のコードをプラグに差し込んだ。
「あ、動いた」
スイッチを押してみると、今まで聞こえていた音を掻き消すように、作動音が豪雨のように轟き、手には振動が伝わる。機械底部の鑢のようなものが高速で動いていた。
「まずは、練習か……」
扱い方がいまいち把握できていない。だから、言われた通りに、さびた鉄骨の柱で試してみることにした。
「じゃあ、まずは布団を干して、掃除機かけよっか、せっちん」
言い渡された仕事をするために、あたしとせっちんは居間に戻ってきた。
「は、はい」
昨日のうちにこの家の物の配置は大体確認した。いっちーと杠葉の部屋は行ってないから、あとで行ってみよ。
「それじゃあ、せっちんはあたしたちの部屋の布団を干してもらえる? あたしは男連中の布団干してくるから」
「はい。あ、あの、や、やーちゃん……」
戻ってきてからもせっちんは、少しおびえていた。考えなくても分かるけど、杠葉のことだよね。
「大丈夫。あいつ、あんなことじゃへこたれないだろうし、おなかが空けば勝手に帰ってくるって」
杠葉はあの後飛び出したまま行方不明。喧嘩が強いのは学校でも知られていたけど、あんなにあっさり倒される姿には、びっくりした。杠葉が弱いわけじゃないとは思う。でも、それ以上の強さに勝てなかった。その憤慨? にきっと杠葉は耐えられなかった。自分の誇示したものを崩されたから。そういうのって、子供って感じがする。だからあたしは、びっくりしたけど、杠葉が本当はそういう男の子じゃないかも、なんて思ったけど、せっちんは違うみたい。
「で、ですが、怪我とかをしていたら……」
本当に心配しているせっちんの表情は、少し可笑しいけど、きっとせっちんは本気でそう思っている。だから、せっちんに笑ってあげた。
「心配ないない。あいつ、喧嘩とかしょっちゅうだし、せっちんも見たでしょ? 昨日の、あれ」
今時自動販売機を蹴って壊すような馬鹿はいないよ。そんな奴があれくらいで怪我なんて感じるはずがない。あたしは何となくだけど、せっちんはそういうものとは無縁だったのかもね。
「今は自分の心の葛藤を晴らしてるだけだから、あたしたちはあたしたちのすることをしておけば大丈夫だよ」
さ、行こっ。あたしはせっちんの背中を押しながら居間を出る。いつもと違って、焦る必要もない、のびのびとした、やらなければいけない仕事。それが何だか楽しい気がしてる。
「そ、そうでしょうか?」
「そうそう。男の子はプライドが強いだけだから」
部屋の前でせっちんと別れて作業開始。まだ少しだけせっちんは杠葉のことを気にしていたけど、あいつ、お金持ってないみたいだから、きっとすぐに戻ってくる。その時にせっちんもきっと分かる。男の子は元気なくらいが一番だろうからね。
そして、あたしが最初に入った部屋は、あたしたちを住み込みさせる男の人の部屋。
「さっぱりしてるんだ……」
ふすまを開けると、予想とは違った部屋があって、意外だった。絶対に部屋は敷きっぱなしの布団、お酒とかおつまみとかのゴミ、もしかしたらエッチな本とかあると思ったのに、実際あたしの前にあるものは、畳まれた布団に、片付けられたテーブル。そこには灰皿があるだけで、灰皿の中も少しだけ灰があるだけで、綺麗。箪笥と本棚、テレビがあるけど、乱れているものがなくて、男の人の匂いはしたけど、基本的に綺麗だった。
「なんか、拍子抜けしちゃうかも」
気合を入れたばかりなのに、こうも綺麗だと、掃除機をかけたらすぐに終わっちゃう。
「あ」
それでもやるべきことをしようと、布団を縁側のところに持っていこうとして、気がついた。
「誰かな、この人」
探っちゃいけないのかもしれないけど、見ちゃった。
「もしかして、学校の先生?」
いくつか本棚に並んでる写真。見覚えのある男の人の顔の他に、あたしらくらいの年代の子が、一枚ごとに三人から五人くらい写っていた。杠葉みたいな不良って感じの子ばかりだけど、あたしとかいっちー、せっちゃんみたいな子もいる。普通の学校って感じじゃないし、もしかしてあの人、通信制とかの学校の先生なのかな?
じっと見るものじゃないんだろうけど、ついじっと見ちゃうのは、女の子の癖。並ぶ写真は十枚くらいが同じような写真ばかりで、場所もお店の前。学校の先生なら、こういうことをしてもおかしくはないのかもしれない。でも、何だか違うような。
「こっちは……」
誰だろう。もう一枚の写真には、これまでの写真とは違って、男の人と女の人がツーショットの写真。男の人はまだ若いくらい。女の人は大人しそうなロングヘアーで、もしかしたら彼女?
「うわぁ……似合わない」
これがあの人の彼女って、まるで美女と野獣って感じ。それくらいに似合ってない。
でも、それを見てると、あたしたち、本当にここで生活しても良いのかな? って思う。
「やーちゃん、私たちの部屋のお布団、干し終わりました」
「あ、うん。あたしもすぐ干すからちょっと待ってね」
その時、せっちんがひょっこり顔を出して、あたしも急いで布団を干した。写真に見とれて忘れちゃってた。
「じゃあ、次は掃除だね」
布団を干し終わると、あたしたちは掃除機と雑巾を持ち出して、汚れているように見えるけど、それほど汚れていない室内の掃除に取り掛かる。
その時だった。居間から掃除を始めたあたしたちに、そこにはない音が響いた。
「ん? せっちん、今の音、聞こえた?」
「今の音、ですか? いえ、特に何も聞こえませんでしたけど?」
あたしが掃除機をかけて、せっちんが棚を拭いていると聞こえてきた、チリンという電話の呼び出しのような音。でも、すぐにそれは聞こえなくなった。
「あれ? 気のせいかな? 何か聞こえた気がしたんだけど」
せっちんが左耳にかかる髪を持ち上げながら、不思議そうにあたしを見た。あたしは掃除機持ってるから音が良く聞こえないんだけど、せっちんが聞こえなかったなら気のせいかな?
「自転車ではないでしょうか? 小学生が走っているようですし」
せっちんが視線を向ける窓の先、数人の小学生が自転車で走り去っているのが見える。たぶん、自転車のベルだったのかも。
でも、掃除を再開しようと掃除機のスイッチを改めて入れようとして、今度ははっきりと聞こえた。
「せっちん、聞こえたよね?」
「はい。今のは自転車ではありませんよね?」
こんどはあたしもせっちんもはっきり聞こえた。
「お店のほうから、かな?」
「あれではないでしょうか? 呼び出しのベルがあると言っていましたし」
せっちんの言葉に思い出す。そう言えば何かあればベルを鳴らすように言われてたっけ。じゃあ、もしかしてお客さん?
「せっちん、掃除は後だよ後。お店に行ってみよう」
「あ、はい」
何度かベルが断続的に響いてきて、お客さんの可能性があると、あたしたちは急いでお店のほうに向かう。このお店がどういうお店なのかなんて、よく知らない。でも、男の人はどこかへ用事があると出かけていった。だから、お店番はあたしたちの仕事。
「すみません、おまたせしまし……っ」
「きゃっ」
思わず、お店に顔を出そうとした時、体の中を何かが跳ね上がるように動いて、とっさに後ろからついてくるせっちんを片手で突き飛ばすように止めてしまう。
「あ、誰もいないかと思っていたんですよ」
チリンとなるベルに手を置いていたのは男の人。でも、その格好に、急に焦りが浮かんでくる。
「ここの従業員さん、かな?」
どうしてか分からないけれど、あたしはせっちんが顔を出すのは良くない気がして、後ろから感じるせっちんの体温に、どうしたら良いのか、どうしてこの人がここにいるのか、少しだけパニックになりそうな心を必死に押さえ込み、笑顔を作ろうとせっちんに、手でここにいて、と伝えながら顔を出す。
「えっと、はい、そうです」
もしかして、気づかれた? 昨日の今日なのに、まさか、もう?
そんな恐怖の思いが慟哭をより強くしていく。
「薫さんはいないのかな?」
その人は見た目で職業が判別できる。そして、その姿は、今の私にとって、それはここに私がいるということに関して、最も恐れる人。
―――警察官。
その人が私の目の前にいる。それがとても怖かった。
「薫さん、ですか?」
警察官が示す名前に思い当たる節がない。誰? とあたしが首をかしげちゃう。
「ん? 今は出かけているのかな?」
そんなあたしに、警察官が鋭いような視線を見せる。
「え、えっと、そうだと思います」
薫さん。そんな人、ここにいるの? と思うくらいに、あたしの知る人の中にその名前を持つ人がいない。
―――あっ、もしかして、あの写真の女性?
「そうなんだ。いつ頃戻るとかは聞いているかな?」
薫さんといえば、あの女性には似合う名前。きっとそうに違いない。そう思うと、事情が把握できてくる。これなら大丈夫。作っていた笑顔が少しずつ自然になっていけているように感じる。
「いえ。この前からどこかへ行っているみたいで、私も見かけないんです」
「そう? そっか。ところで君はいつからここで働いているのかな?」
まだどちかというと若い警察官。あの男の人よりは断然年下。
「えっと、ちょっと前からです」
てっきり、あの家からあたしのことを……なんて思ったけど、話からして気づかれてない。そう分かると、急に安堵する。
「ちょっと前? 向こうの子もかな?」
「え?」
不思議そうにあたしを見る警察官に、とっさに振り返る。でも、そこにはせっちんはいなくて、あたしの合図が通じているみたいだったのに、どうして? と、警察官を見ると、あたしをじっと見てて、急に安堵した気持ちが、怖いと思った。
「さっき、駐車場奥の作業場で男の子が作業しているのが見えていたからね。見かけない顔だったから、ちょっとお話を聞いてみたかったんだけど」
振り返るあたしに、何を考えているかよく分からない視線がすこし強くなった気がする。
「向こうの男の子にも少し話を聞いても良いかな?」
すると、そんなことを言う警察官。どうしてそんなことをするのか、あたしには分からなかった。
「あの、一体何のようなんですか?」
警察官は人を助ける仕事をするんじゃないの? なのにどうして怪しむようにあたしたちを見るの? 悪いことをしている気になるのはどうして?
答えは簡単。あたしは自覚があるから。
「巡回をしているだけだよ。この辺りにはちょくちょく回ってるから」
そうは言うけれど、それだけの理由であたしたちがまだ踏み込まないところを切り込もうとするように感じる視線は、恐怖だよ。
「少し待ってもらえますか? 呼んできますから」
「お願いしようかな」
軽く一礼して、あわてて戻る。
「や、やーちゃん?」
警察官の姿が見えない部屋の奥に、壁に寄りかかっていたせっちんを引っ張って小声で相談する。
「警察官だったよ、せっちん」
「え? け、警察、ですか?」
せっちんまで驚いたように表情を変える。あたしとは別に、せっちんにもせっちんの理由があるのは分かってる。皆理由があるから、ここにいるんだもん。
「今ね、いっちーに話が聞きたいって待ってるの。ねぇ、せっちん、どうしたら良いんだろ? 何かあの人、怪しいよ、絶対」
何でこんな時にあの人がいないのか。あたしらだってまだよくここのことが分かってないんだから、どうしたら良いのかだって分からないのに。
「な、何の用で来られたのでしょうか?」
「巡回だって言ってたけど、絶対あたしらのこと探ってるんだよ。いっちーを呼んだ方が良いのかなぁ?」
今だって店内で待ってるはず。遅いなぁと思われたら怪しまれる可能性が高くなるはず。でも、いっちーはいない、なんて言えない。
「月見里さんに何とかつじつまを合わせてもらう方が良いのかもしれません。ここで時間を経過させては、おそらく余計に怪しまれるかもしれないです」
せっちんもあたしを同じことを考えている。
「そうだよね。とりあえず、いっちーを呼びにいこう」
「はい」
あたしたちは歩くたびに少しだけ軋む床に、心の中で音が出ないでっ、と強く思いながら作業場へ向かう。
ドアを開けると、耳に響く機械音が支配していて、その発端には、一瞬声をかけないほうが良い。このまま見つめているだけでも良いって思いたくなるくらい真剣な背中があった。
いつかの思い出の中にある、誰も追い越せない大きな背中じゃない。でも、一生懸命で、でも、迷いがあって、悩んでいるのに隠そうとする、私より少し大きい背中。何を背負っているのか分からないけど、その重さに耐えている背中は、目の前に静かに置かれている一艇のクルーザーヨットの前で、静かに動いている。
「いっちー」
「月見里さん」
あたしたちはそんないっちーを呼ぶ。でも、時々いっちーの前に噴出す、白いような、茶色いような霧が噴出して、音があたしたちの声を打ち消す。
「聞こえてないね?」
「大きな音ですから、近くに行かないと聞こえないのかもしれません」
あたしたちは顔を合わせて、いっちーのところに近づく。少し錆臭い匂いが漂っていて、履き替えたスリッパには、ざらついた感触が少しずつ強くなる。あたしたちが少し楽しみ始めて掃除をしている時、いっちーは杠葉のいない中で、ただ一人一生懸命に仕事をやっている。その後姿に、本当にあたしが声をかけてもいいのか、少しだけ怖くなる。
「月見里さんっ」
でも、そんなあたしの右側で、せっちんがそう呼ぶ。少し粉っぽい空気を吸い込まないように、呼びかける声は、今まで聞いたせっちんの声では一番大きかった。だから、あたしも負けないくらいにいっちーを呼んだ。
「……ん? あれ? 二人ともどうしたの?」
そしたら、いっちーが振り返って機械を止める。耳に聞こえていた振動が、雲が消えるみたいに消えて、少しだけからだが軽くなったような感覚があったけど、やっといっちーの声があたしにも聞こえた。
「いっちー、ちょっといい?」
「ん? 何が?」
いっちーのシャツは、朝見た時より粒に汚れている。そして、振り返って気づいたのは、いっちーはマスクをしていて、なんだか素人に見えなかった。
「あ、月見里さん、髪にも汚れが……」
せっちんが少しだけ手を伸ばそうとしていたけど、その言葉にいっちーは自分で、髪をわしゃわしゃと汚れを払う。
「うわっ、こんなに汚れてたんだ、僕」
いっちーが自分を叩く度に、汚れがふわっと広がる。それに一番自分が驚いているのは、何だかいっちーらしいかも。
「いっちー、じっとしてて」
「え?」
顔を上げたいっちーを見て、あたしはポケットに入れていたティッシュをいっちーの頬を添える。
「え、あの、夜々?」
困った顔であたしを見るいっちー。照れてる顔は、見慣れたいっちーで、安心する。
「はい、取れたよ」
「あ、ありがとう……」
髪を掃って頬についた汚れ。きっといっちーの頑張りの証。
「あの、やーちゃん」
そんなあたしに、せっちんが話の本題を、と視線で伝えてくれる。ちょっと忘れそうだった。
「あ、そうそう。あのね、いっちー、今、ちょっといい?」
「うん? 何かあったの?」
「あのですね、今、警察の方が来られているんです」
せっちんの話に、いっちーもやっぱり驚いた。当然だよね。驚くもん。
「警察? どうして? ……もしかして、自動販売機のこと?」
でも、いっちーはあたしたちとは違う反応。それは忘れかけていたけど、あたしたちがここで働くことになった原因の自動販売機。
「分かりません。ただ、月見里さんにもお話をお伺いしたいと」
「僕に?」
意外そうな表情のいっちーに、あたしたちはどうするべきなのか、いっちーの意見を待つ。
「巡回の割には探られているような感じ、なんだね?」
「うん。なんだか疑われているみたいなの」
「あの人も戻ってきませんから、どうしたら良いかと思いまして……」
きっとあたしたちが学生だから、働いているように見えないのかもしれない。でも、今、ここにいるのはあたしたちだけ。どうやってあの人に帰ってもらえるかを考えるしかない。
「分かった。一応話を聞いてみるけど、二人は念のために隠れてて」
「あたしも行く。せっちんは気づかれていないから、隠れてて」
「は、はい」
「いや、僕一人でいいよ。この格好なら、ここで働いているように見えてもおかしくないだろうから」
その言葉に、少しだけきゅんとした。いっちーはきっとあたしたちのことを気遣って言ってくれてる。お互いにまだどうしてこうして集まったのか、胸のうちに抱えるものを知らないもの同士なのに、いっちーはそれに触れないで、守ろうとしてくれる。それが嬉しくて、あたしは従うことに決める。いっちーの優しさが、あたしには嬉しいから。
「でも、あたしも少し話しちゃってるから、話しかけることには、適当に相槌うってね。たぶん、それで大丈夫だと思うから」
「うん。とりあえず二人は、あの人が戻ってくるまで部屋の中にいて」
すっ、といっちーがあたしたちの横を通り過ぎていく。
「いっちー、頑張ってね」
「月見里さん……」
あたしたちは、そっと何事もなければ、と祈るしかなかった。
「すみません、お待たせしました」
正直、作業場に二人が来て、事情を話した時、僕にどうしろと? と言う疑問しか湧かなかった。僕に出来ることなんて言われたことをやるくらいだ。
だからこそ、最初はうまく錆を削れずに柱に傷を残していた。それでも、誰も見ていないという、自分だけの空間に緊張が解けてきて、何度かひたすら同じことを続けていると、少しずつ感覚がつかめてくる。それでも、当然熟練されたものなんかじゃない。むしろ、子供の図画工作の延長くらいだろう。そんな僕が誰のかも分からないヨットを弄ることをしても良いのか。ずっとそんなことを考えながら作業をしていた。楽しいというわけじゃない。
ただ、神経を使うことで意識が余計なことを排除し、行動に専念させる。それだけが、今の僕にとって時間を忘れさせてくれるものだということだけは、心地よく思えてしまった。
そんな時の夜々と木名瀬さんの言葉には、思わずあの顔を思い浮かべた。―――どうするんだろうか、こういうとき?
けれど、そんなこと、僕に分からないはずがなかった。悩むだけ無駄な
考えだ。だから僕はそうするしかない。夜々も木名瀬さんも不安な表情をしている。きっとここにいることを理解しているとはいえ、僕と同じように罪悪感のようなものも感じている。誰もいないのに、二人が僕のところへ来た。正直、逃げ出したい気持ちの方が強かった。でも、きっと僕がそうすると、彼女は僕を馬鹿にして、叱責するんだ。
《男の子はね、女の子を守るものなんだからねっ》
と、でも。
だからそうするしかなかった。
「君が作業場にいたのかな?」
夜々たちの言うとおり、警察官だ。僕らより五、六歳くらい年上くらいの、まだ若い方の警察官。てっきりおじさんくらいの人かと思っていたから、予想以上に若い警察官で、少し緊張が緩む。
「はい、そうですが?」
「君もここで働いているのかい?」
「はい」
視線はやはり言われた通り、探りを入れるような瞳。だから、感情を顔に出さないように意識する。
「君、名前は?」
「月見里です」
「そう。月見里君ね。いつからここで働いてるの?」
警察官はなにやら取り出した少し大きめの手帳のようなものに、僕の名前だろう。書き込み、視線もそこへ落としている。そのまま訊ねられること。夜々が話をあわせてくれと言っていた。昨日からと夜々は言ったのだろうか? そんなことをとっさに考えて、言葉にした。
「ちょっと前からです」
僕の答えに、警察官が一瞬、視線だけを上げた。
「……どれくらい前から?」
やはり聞かれたか。きっと夜々は正直に答えたのかもしれない。警察官は、おそらく僕と夜々が同じ時期に来たものだと思って、矛盾を見つけようとしているのだろうか。そう思うと、考えてしまう。
「えっと、一ヶ月くらい、ですかね……」
僕の答えを警察官は、また書き記す。それを見ると、罪悪感が湧く。
「今は何をしてたの?」
「今ですか? 預かっている修理艇の錆取りをしていました」
「どんな船?」
「YAMAHAの26 2 EX SHのセーリングクルーザーです」
一瞬、ドキリとしたけど、昨日一通り読んでおいた本のおかげで、答えはすぐに出せた。
「……そっか。なるほどね。じゃあ、さっき顔を出した女の子も同じかな?」
一瞬、警察官の表情が緩む。そして、夜々と僕が同じなのか、と聞いてくる。言っている意味を理解できなかった。
「なら、薫さんも戻ってきていないみたいだから、また後で寄らせてもらうよ」
「は、はぁ……?」
じゃあ、また。という言葉を残し、警察官の男性は、店の先に止めていた自転車にまたがると、そのままゆっくりと漕ぎ出し、店の窓の外からsの姿は遠ざかっていった。
引き際のあまりにもあっさりとしたものに、僕は一体どういうことなのだろうかと、呆然と立ってしまった。
「いっちー……?」
静かになる店内と呼ばれる、船の写真や、クルーザー用と思える雑貨類などがとりあえず置かれている。僕は正直初めて目にする光景なんだけれども、そんなことに意識を向ける前に、背中に声をかけられ振り返ると、夜々が小さく顔を出し、僕を見ていた。
「あの人は……?」
「なんだかよく分からないけれど、また来るって言って、帰ったよ」
僕の言葉に、夜々が姿を見せた。その後ろから木名瀬さんも現れる。
「何も変なこと聞かれなかった?」
「自動販売機のことなど、大丈夫でしたか?」
そして飛んでくる質問に、僕はうなづくばかりだ。
「何も聞かれなかったよ。ただ、薫さんが戻る頃にまた来るってだけで」
僕らは顔を見合わせた。薫という人物が誰なのか、僕には分からない。
「あの、薫さんというのは、どなたなのでしょうか?」
どこか申し訳なさそうに木名瀬さんが聞いてくる。もちろん、僕が知るはずはない。自然と夜々に視線を集める。
「あ、たぶんだけどね、あの男の人と一緒に写ってる女の人の写真が会ったの。だから、もしかしたらその人かも」
夜々がたぶんだけどね、と比較的自信に満ちた答えを出してくれた。それは少しだけ意外でもあった。
閲覧ありがとうございました。
前書きにも記した通り、更新予定であった「if」を連載停止とし、次回更新予定作は「Full Cast Even」を予定しております。
更新予定日は7月10日頃とさせていただきます。
今後とも、ともみつの作品をご愛顧いただけましたら十もいますので、よろしくお願いいたします。