9 氷熊な王女、キノコ狩りをする
1月17日
ぼんやりしながらマリエッタは砂漠を彷徨っていた。
あれから、月と太陽が幾度か入れ替わったが、正確な日数は覚えていない。
涼しい夜に歩き、日中は冷気の繭の中で体を休めた。
たまに、ガスパ民の蛮行に遭った骸を見かけた。
金目のものはもとより、身ぐるみ剥がされて事切れている。
隊商の荷を守るために雇われたであろう男たちは、手足を落とされ何本も矢を射かけられて念入りに殺されていた。
壊れた車体がのこされていることもあったが、中には何もない。
それを引いていた魔獣や荷は持っていかれたのだろう。
そういえば、鷲君もいつのまにかいなくなってたわ……
なんだか、淋しい……
高速でレシェリールを運ぶ彼女を見失っただけなのだが、そんなことは知る由もない。
これから、どうすればいいのかしら、どうしたら……
レシェリール様はちゃんと無事なの? 生きているの?
朝日が昇ってくる。夜通し、どこへ向かうともなく歩きつづけて疲れたマリエッタは、足を止め砂の上で体を休める。
こんな姿ではターナ帝国へも行けない、遠い祖国エッジランドにも帰れない。
帝国軍や輿入れについてきた従者たちは、まだ、わたくしを探してくれているのかしら?
もしかしたら、砂漠で死んだことになっているかもしれない。
皇帝ヘヴダール二世は、この結婚を渋っていたと聞くし……。
いくら皇子が望んだとはいえ、小国の姫など、皇帝にとっては政治的になんの旨味もないのが現状だ。距離が離れすぎていることから同盟を結ぶ意味もないし、ターナ帝国が欲しがる交易となる品もない。
だが、ここに幼馴染みであり、宰相補佐でもあるディドがいたなら、「とんでもない!」と言うことだろう。
この結婚は、帝国にとってマリエッタ自身が嫁すことが、何よりの価値あることなのだと。
芸術を愛し、それを生みだす芸術家らを支援して、エッジランド王都グライヒルの文化水準を引き上げるという、大業を成した姫である。
まぁ、その莫大な支援金を近隣諸国の高級賭場で荒稼ぎという……ちょっと他人には真似できない、あまり褒められるようなやり方でもないのだが。
マリエッタは昔から目標を達成するためなら、手段を選ばない傾向があった。
まわりから見れば、「そんな無茶な!」と思えるようなこともやってのけた。
今は目標そのものを見失いかけている。
レシェリールの生死が気になって、それも悪い方へばかり考えてしまう。
彼が死んでしまったら、そもそもこの結婚自体が成り立たない。
それゆえに彷徨っている。
だれかと話せば突破口が見つかるかも知れないが、久しく砂漠は無人である。あのガスパ民にすら遭遇しない。
〈森の王! 見つけた!〉
甲高いなつかしい声にふりあおぐと、白んだまぶしい空から茶色の影が降りてくる。
〈鷲君……〉
〈ど、どうしたの? 目の下まっくろだよ? 寝てないの?〉
憔悴しているのを指摘された。
寝てはいるが、いつも眠りは浅くて何度も起きてしまう。
というか、熊顔にクマができてるとは思わなかった。
……そういえば、わたくし……顔と胸に怪我をしてなかったかしら……?
いつのまにか視界はクリアに見えてるし、痛みもないわ。
思ったより傷が浅くて、砂漠を彷徨ううちに自然治癒したのだろうか。
あのときは大変な怪我をしたと思っていたが……魔獣は頑丈だから、回復も早かったと解釈すべきなのかもしれない。
血で黒く汚れた胸の毛を見下ろしていた彼女は、視線を鷲に向けた。
〈お久しぶりですわ、どちらにいましたの?〉
〈探してたんだよ! ずっとね! だって、僕は森の王といっしょにいたいから!〉
じわ、と糖蜜色の瞳に涙が浮かぶ。
〈……忘れて、なかった……のね〉
〈忘れてないよ! でも一言言わせて、森の王ってば足が速すぎ!〉
マリエッタの止まっていた思考が動きはじめた。
レシェリールが体を癒し、また迎えに来てくれるまで、できるだけのことをしようと。そう、またあんなことにならないように、魔力の使い方を勉強するのだ。
〈ちょっと休んだ方がいいよ。そうだ、ものすごく大きな森を知ってるよ。変わった果物もたくさんあるんだ。森の王、果物好きだよね? 行ってみようよ〉
それはとても深い深い森だった。
砂漠のど真ん中にあるとは思えないほどに、密集した緑の木々。密度の濃い空気。
熱気もしめ出すほどに涼しい湿気が充満している。
これは……人の身で入れば、方向感覚がわからなくなりそうだわ。
幸いにもマリエッタは氷熊になってから、視覚、嗅覚、聴覚がとくに良くなっている。
迷子になっても自力で森をぬけられる自信はある。
〈森が深すぎて、砂漠の民でもうかつに入れないらしいよ。苔人がいるからだとか。緑に還った死人の魂ともいってたかな。人間も動物も分けへだてなく襲って食べちゃうんだって〉
〈……今ごろになってそれ言うの?〉
〈森の王だもの、ぜんぜん問題ないでしょ?〉
現在、森を闊歩する白金の氷熊は、すでにその苔人やらに恐れられている。
苔人は全身が緑に苔生した人間ぽい。
だが、全長が氷熊とほぼ同じ三メートル前後あるので、人間ではないだろう。
口を開いても「オオオォ」としか言わないし。獣語を解するマリエッタでも、何言ってるのかさっぱり分からない。
ただ、初対面で感じたのは友好的なものではなかった。突進してきたし、ふり上げたその緑手の先には、長い鉄刃のような爪が装備されていた。
それを爪で払い、かるく顔面を熊手パンチしたら、びっくりするぐらいふっ飛んでいった。どうやら、ずいぶんと体重が軽いらしい。
なにか、腹が立った。氷熊のお腹はぽっちゃりというかぼってりというか。
何時間、砂漠を駆けようともへこまないのだ。
このくやしさ、分かるだろうか? 女でなくば分かるまい。
王女のときは常に細腰をキープするため、ダイエットに励んでいた身だ。腹に贅肉、皮下脂肪がつくなど言語道断。それが、どれだけ努力しても実を結ばないという残酷な事実。
よく見れば、苔人は全身がひょろりとしている。なんて妬ましい。
〈貴方、(ちょっとスリムだからって)わたくしに喧嘩を売ってるの? 買って差しあげてもよろしくてよ〉
そこで、目についたのが頭に生えた一本の大きなキノコ。
近づくごとに威圧を感じているのか、ブルブルと首を横にふる苔人。
しかし、その時点でマリエッタの意識はキノコに釘付けになっていた。
──すごく、美味しそうに見えますわ。
ここで捕食者と獲物の立場は完全に逆転した。
なぜって、マリエッタが、そのキノコをどうしても食べてみたくなって、逃げまどう苔人を追いかけたせいだ。
そして、キノコを奪い採ると苔人は動かなくなった。
〈あれ、ほっといていいのかしら?〉
〈いいんじゃない? それより、そのキノコっておいしいの?〉
〈甘くてとってもクリーミィだわ、クセになりそう〉
祖国では、キノコを入れたチーズのリゾットや、焼きグラタンが好きなマリエッタだった。つい、なつかしくてそのまま口に入れたが、生でこんなに美味しいとは思わなかった。
〈そう、毒キノコじゃないんだね?〉
〈ぜんぜん、大丈夫よ。もう少し頂こうかしら〉
〈僕にも分けて〉
〈自分で採らないの?〉
鷲といえば狩猟は得意分野だろう。狩猟というより採取だが。
〈あいつら凶暴だから、近づいたら羽をむしられちゃうよ〉
なるほど。たしかに凶暴だ。だが、氷熊であるマリエッタは、自身が望まなくとも彼らをかるく上回る凶暴な腕力を備えていた。
しばらくは、その森でキノコ摘みにいそしんでいた。
毎日、美味しいキノコを食べて、だいぶ立ち直ってきた。
きっと、レシェリール様は無事! 必ずまた迎えに来てくださるわ!
ポジティブ思考とともに奮い立ち、魔力の使い方も研究を重ねた。
日を追うごとに、森に行き倒れた苔人が目立つようになったころ──それは目の前に現れた。
「どうもー、ワシはこの森の主ケプトじゃ」