デジャヴってやつ
気づけば、足元には陰ができていた。そして周囲は明るい。アタッシュケースも転がっている。ついさっきまで黒い世界にいたのに……。
――そうか、太陽か。
地球から約一億五千万キロメートルという、想像もできないほど離れた空間に位置し、自ら光り続けている星。昼と夜をもたらす天体。人間をはじめとする生物が存続するのに必要不可欠な存在。
僕は思わず手の平を広げて、遥か彼方からの陽射しを受ける。肌に感じるその温かさは十数年振りで……陽の光は、地獄の鬼であろうと平等に照らしてくれる。かつては地上を巡り、鬼と人間で戦争をしたこともあったが。まぁ、それはもう終わった話だ、よそう。
昔の事を思い出しかけたところへ、
「おーーーーーい……」
頭上から女の声が聞こえてきた。
井戸の底から見上げると、陽射しが容赦なく両目を眩ませた。瞼を閉じてもまだ明るい。手の隙間からそろりと視線をやると、人間がこちらを見下ろしている黒いシルエットが見えた。十和が言っていた、瀬名杏奈という人物だろうか。
そのシルエットが何かを放り投げる動作をしたあと、上から縄梯子がカラカラ音を立てながら降ってきた。足元辺りで縄梯子が丁度伸びきる。
しっかりとした縄梯子だ。準備がよくて助かる。縄梯子に手をかけ、人間の力である程度引っ張って落ちてこないことを確認し、登り始める。鬼の力で引っ張ったらたぶん千切れるなり縄の固定が壊れるなりすると思われる。これから先は、これからの世界は、力加減が超重要だ。
縄梯子を登りきると、若そうな女が待っていた。現世のファッション雑誌で見たことがあるモデルみたいな感じ。たしか、ゆるふわがーるってやつ。明るい茶色の髪がふわふわしていて、風に乗ってなんか変わった香りが漂ってくる。
「赤木さんですよね! はじめましてー瀬名杏奈っていいますー」
「ああ、十和から聞いてます。はじめまして」
ボロボロの石の淵を跨ぎながら応える。が、少しおざなりになったのは許してほしい。視界に飛び込んできた景色は、地獄では到底拝めるものではないから、興味は必然的にそっちに向いてしまう。
現世は、やはり自然が素晴らしい。三百六十度、周囲を見回すと、そこらに生える名もわからない小さな草花、一面に生い茂る木々、うねり伸びる枝と葉。自然の匂いがする。先ほど出てきた井戸の真上まで枝が伸びておらず、見上げれば青い空が広がっていた。地獄で周囲を見渡したって、岩やマグマや暗闇、無機質で面白味のない建物ばかりだ。現世から取り寄せた写真集に載っていたものが、今、この両目を通して脳に浸透し、僕の心を揺さぶっている。
痺れにも似た衝撃で固まっていると、黒いスーツ、黒いタイトスカート、黒いストッキングと黒尽くしの瀬名杏奈がくすくす笑いながら話しかけてきた。
「珍しいですか?」
「珍しいものばかりです。地獄にいた時も画像や動画で現世の風景は見てたけど、じっさいに見ると全然違う」
「えっ! 地獄って現世の動画とか見れちゃうんですか。すごっ。てか、なんかイメージと違う……」
開いた口に手をやり驚いてみせる瀬名杏奈。仕草があざとい。
ああ、わかった、この人間に似た鬼を僕は知っている。かつて僕がいた部署の後輩だった桃色の鬼のモモ。ゆるい雰囲気に、甘ったらしい喋り方、身振り手振りを交えて話す行動からはどこか計算されたようなものをいつも感じ取っていた。納得した。種族は違うが、同種だ。間違いない。
髪型はショートボブと呼ばれるもので、第一印象は小動物系といったところか。小柄で、中肉中背。童顔なのでイマイチスカートスーツが様になっていない気がするが、そこはさておき。
「これからお世話になります」
観光気分は終わりにして、仕事だ。
「こちらこそ、です!」
瀬名杏奈はスーツのポケットから銀のケースを取り出すと、そこから一枚の紙を差し出してきた。
「うちのボスから話はしてもらってるみたいですね。これから赤木さんの身の回りのお世話や、お仕事の補佐役をさせて頂きます! 鬼さんの補佐役をするのは初めてなんですけど、わたしも『茨木会』第十支部の端くれ、お役に立てるよう頑張ります!」
実力は未知数だが、やる気はあるようだ。やる気だけで空回りするような人間でなければいいが。
「助かります」
受け取った名刺には、瀬名杏奈と書かれており、他には小さい字で数字が幾つか並んでいる。とりあえずポケットにしまっておこう。
「前も何回か現世には来たことあるんですけど、ブランクがあるから、人のサポートがあると安心できます」
「あ~わかりますそれっ。あれですよね、何回も旅行でいったことあるとこ行くんだけど久しぶりだと不安なるやつですよね! で、友達と一緒だと心強い! みたいなぁ」
「あー……まぁ、そんな感じですね」
まくし立てる瀬名杏奈。
うわぁデジャヴ。
脳裏にかつての後輩が浮かぶ。それを振り払い、仕事について聞きたかった事を尋ねることにした。
「さて、と。今回の僕の仕事について、瀬名さんはどこまで聞いてるんですか?」
「杏奈、でいいですよー☆」
ぱちーん、とウインクを食らう。
「わたしはー遊戯さんって呼びますねー」
ご自由にどうぞ。
「そうですねぇ……閻魔帳――人間が生きてる時の行いを記録する手帳の更新の為に現世にやってきた。ただし、鬼の存在を知られてはいけない……ってとこですかねぇ」
なるほど。ということは、閻魔帳の不具合修正の為ではなく、単に通常業務としてやってきた事になっているわけか。まぁ、地獄でも極秘情報扱いのこの件を、人間が知る由もないか。
「その通りです」
「うーん、にしても勇儀さんぜんぜん鬼に見えないですよねぇ。これバレる気しませんよね、見た目完全に人間ですもん」
上から下まで僕の全身を眺めてから瀬名杏奈はそう評した。
「まぁ、油断は禁物です」
「ごもっともです。じゃ、そろそろ行きましょうか。茨木会が保有する山の中なので、人目につくことはないと思いますけど、油断は禁物、ですもんね!」
僕が言った事をわざわざ強調してくる瀬名杏奈。部下じゃないけど、部下っぽい。というかバカっぽい。
「車を用意してるんでそこまでちょっと歩きましょー。あー、あと勇儀君用に道具を色々準備してるんで、それも渡しちゃいますね」
レッツゴー! 右手の握り拳を振りかざし、そう言ってズンズン大股で歩き出す瀬名杏奈。
僕は井戸の方を眺める。縄梯子、回収しなくていいのだろうか。忘れてないか? それとも放置でいいのだろうか。
「杏奈」
「はぁい? 喉でも乾きましたぁ?」
「縄梯子は?」
「……あっ」
どうやら忘れていたようだ。
てってってってと小走りに井戸へと向かう瀬名杏奈。パンプスで急いだせいかふらふらしていて危なっかしさを覚える。大丈夫かこいつ。
縄梯子を引き上げながら、
「いっけね忘れてましたーてへぺろ!」
チロッと赤い舌を唇から少し出し、たはははと、笑って誤魔化すのであった。
本当に大丈夫かこいつ。
この世界の青空には雲一つないが、僕の雲行きは少々怪しい。