ようこそ現世へ
一抹の不安を感じたあの会話のあと、暫く歩き続けると、此岸の船乗り場と何ら景色に変化がない霧の中から、薄らと何か黒い物体が浮かび上がってきた。
近づくとそれの全貌が浮き彫りとなる。
「井戸?」
人の靴程の石が円型に積み重ねるようにして井戸はできており、劣化した石の隙間など至るところに苔がこびりついていて、見た目からかなり古そうだ。鬼の怪力を発揮するまでもなく、人間の一蹴りで崩壊してしまいそうな雰囲気が漂っている。
十和はぽっかり真っ黒な口を開けているそれを覗き込み、軽く頷いている。
僕も覗き込んだが、真っ暗で底が見えない。結構深いのだろうか。
「これは『黄泉帰りの井戸』と呼ばれる、現世へ行く手段の一つです。かなり年代物ですがご心配なく。今回は赤木さんの勤務地の関係から、最寄りのこの井戸をチョイスしました」
「ああ、なるほど」
「簡潔に言ってしまえばワープホールのようなものです。ご存知ですか?」
「日本のサブカルチャーによく出てくるやつですね。何度か見たことがあります」
こんな古びた井戸ではなく、もっとファンタジックなやつだったが。
「前に日本にいったことがあるんです。その時に色々と」
「そうでしたか」
前に現世にいった時は、地図とにらめっこしながら洞窟を延々と歩いていったが、今回は井戸を通って行くのか。
井戸を通って行くのはわかったが、僕は具体的にどういう行動をすればいいのだろう。井戸の中に入ればいいのか? だとすれば、降りるために梯子か何かが必要だが、そのような物はない。用意してあるようにも見えない。
クエスチョンマークを浮かべていると、白い前髪を分けながら十和が説明をしてくれた。
「ああ、この井戸ですが、使用するのに少しコツがいります。着地に勢いがなければなりません。こう、ドシン、とね」
ニヤリ。十和が僅かに口元を歪める。
ピクリ。僕は頬の筋肉が強ばる。
この人がこの意地悪そうな笑い方をする時は、だいたい僕にとって面白味のない時だ。
「落ちろ、ってことですか」
「ご名答」
「ちなみに深さは?」
「調べた事がないので存じません」
調べろよ。把握しておけよ。
僕は底が見えないくらい深い井戸に落下しなければならないのか。
「落ちるだけ。簡単で時間も節約できていいでしょう?」
「たしかに単純明快ですけど、これ、怪我したりとかしませんか。深そうですよ」
「鬼のスペックなら問題ありませんよ」
仰る通り鬼は強靭な肉体を持っている。人間とは比にならないレベルだ。しかし怪我をする時は怪我をするもんだ。
「もし運悪く骨折という事態になっても、現世に私の部下――瀬名杏奈という若い女が待機していますので、引っ張り上げてもらえばいいかと」
ここから落ちて、現世に完全移動、あとは井戸を登る、十和の部下と合流、流れとしてはこんな感じか。
ああついに現世か。少し緊張してきた。
にしても、怪我というリスクのある行動をしなくても、手段はいくらでもあるだろ。時間がないわけではないのだし。
「途中まで壁を伝って降ります。で、ある程度底が見えたら飛び降りることにします」
「そうですか。そこはお任せします」
「多少の衝撃があればいいんですよね?」
「はい。二、三メートルあれば充分です。ワープするためのトリガーが衝撃で、次に気づいた時には現世でしょう」
ところで話は変わりますが。と、十和は前置きし、
「私、赤木さんの人間姿を存じていません。よければ今ここで変化して頂けませんか?」
「資料には載っていなかったんですか?」
「ええ。残念ながら」
そう言えば人間の時の姿は、資料で送っていないことを思い出す。すっかり忘れていた。
「次に赤木さんとお会いするのは現世ですが、こう見えて私、多忙な生活を送っておりまして。人間の姿をいつ拝見できるかわかりませんので、今ここで変化して頂けないかなと」
「十和も結構知的好奇心旺盛ですよね。大丈夫ですよ」
「ありがとうございます赤木さん」
今変化しようと、井戸の底に着いてから変化しようと、結果的には必ず変化するわけだから、ここで十和の要望を聞いてあげて損はないだろう。貸し一つ、とまではいかないが、好印象にはできるはず。こちらからの要望が幾分か通りやすくなれば儲けものだ。
「ふぅ……」
右手で握っていたアタッシュケースを砂利道の上に置く。
さて、やりますか。
鬼の能力の一つ――変化。
人間に変化するのは特段難しいことではないが、現世で違和感を持たれず生活するレベルの変化となると、そこそこ技術が必要となる。化けた時の完成度や持続時間、それに社会に溶け込めるだけのコミュニケーション能力……他にもあるが、変化検定初段以上は欲しいところだ。
「では、始めます」
僕は瞼を閉じた。十和が固唾を飲み、こちらを見ているのがわかる。
頭の中で人間の姿――前回と同じ姿を思考する。
髪の色は黒……髪の長さはちょっと長めに真っ直ぐ……瞳の色も黒……肌は少々白く……体型は平均男子より少し小さい感じ……大人しい地味男で深い印象を与えないような……声は特徴的でなければいいけど男らしくしよう……あとは……服装は十和と同じもの……外見年齢は男子高校生に見られるくらいにしておこう……よし、できた。
前回とほぼ一緒のイメージが構築できた。あとは、そのイメージだけを頭の中でどんどん広げていくだけだ。ここからが難しい。ここで余計な思考が混ざれば変化した時に上手く人間に化けれない。人間にはない異質なものが出ていたり、明らかに人間とはかけ離れた人相だったり。とてもではないが、現世では生きていけない姿だ。
いやだめだ、集中しろ、僕。余計な事を考えるな。
一瞬で深く息を吸う。
「……」
息を止めて、身体中から外に向かって押し出すように力を振り絞る。すると、徐々に身体の中心が熱を帯びてきた。それは時間に比例して全身を焼き尽くさんばかりに広がっていく。
「これは……身体の表面が燃えているのか? エフェクトか? ううん実に素晴らしい……想像以上だ」
変化するのは久しぶりだが、現時点で良好。十和の恍惚とした感嘆を聞き取れるほどの余裕もある。悪くない調子だ。
「ふぅぅぅ……」
ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて肺の古い空気を吐き出す。全身に宿る熱が呼応し、古い表面が灰となり剥がれ落ちていく。そして新たな下地――人間の姿が顔を覗かせていった。
息を出し切った頃には、熱はおさまり、そして、僕の姿も変わっていた。
閉じていた瞼をそっと開ける。
「お疲れ様でした赤木さん。変化検定三段の実力、しかとこの目に焼き付けました」
目の前の十和はとても機嫌のいい様子で労ってくれた。あんたの知的好奇心が満たされたようで何よりだよ。
「どこからどう見ても人間です」
「人間からお墨付きがもらえたなら大丈夫ですね」
自分で全身を見ることはできないが、どうやら上手くいったようだ。腕や首を回してみても違和感なし。声帯も大丈夫。
さぁ、これで現世に行ける。
「では、僕はこれで」
「赤木さん」
アタッシュケースを右手に井戸へと歩みを進める僕を、十和が呼び止める。
「ようこそ現世へ。歓迎します」
僕は十和の赤い両目をしっかり捉えてから頷き、慎重に井戸の淵から下へと降りていった。
元々霧の中ということもあって薄暗かったが井戸に入るとほぼ暗闇だ。革靴の先と両手の感覚を研ぎ澄まし、石の隙間を探り当てる。
「鬼のスペックはそのままとは言え、やっぱり体格が変わると少し細かい事が難しいな……」
そんな独り言も反響して大きく聞こえ、少々荒い息遣いは闇に飲まれて消えていく。
「……」
どのくらい降りただろう。どうやら底が見えてきたようだ。石の欠片がパラパラと下に落ち、地面に当たる音が耳に届いてくるようになってきた。そろそろ飛び降りていいのだろうか。まぁ、いいか。飛び降りてしまおう。
若干面倒臭くなってきた僕は、さっさと飛び降りてしまうのだった。