あの世とこの世の狭間
此岸の空気を肌で感じながら砂利を踏みしめる。辺りは依然として霧に包まれており、視界は悪い。橋渡課の鬼は、既に迎えがきていると言っていたが、この霧の濃さでは見えないし見つけられないだろう。
それならばと声を上げてみるかと思っていたところに、砂利を踏む音が微かに聞こえてきた。それはこちらへ確実に近づいてきているように感じる。
真っ白な背景からスッと現れたのは、黒いスーツとパンツで身を包み、赤いネクタイを結んだ小柄な人間だった。僕より頭一個分ほど低いので百五十センチくらいだろう。それより目を引いたのは、髪の色だった。霧と同じように真っ白だったからだ。かと言って老人というわけではなく、見た目は三十代前半くらいで中性的な顔立ちである。瞳の色は赤い。かなり日本人離れした容姿をしているが……。
「ようこそ現世へ」
声は中性的でハスキーときた。性別がわからない……たぶん女性。ま、まぁ大した問題ではない。男だろうが女だろうが、この人の仕事内容に変わりはない。
「私は氷川十和と言います。ちなみに漢字は、水にチョンを書いた氷に、線三本シュシュシュっと書く川、数字の十に、和むと書きます」
「赤木勇儀です。えー、と、色の赤に」
氷川さんに倣い、僕も漢字の説明をしようとしたところで、氷川さんが手で制止を示した。
「漢字は結構です。こちらへやって来る鬼の資料はチェック済ですからね。現世の文字を本当に知っているとは、どうやら赤木さんは博識な鬼のようだ」
そう言いながら少しニヤニヤする氷川さん。白い髪の隙間から覗く赤い瞳が細められる。
「おまけに律儀な方のようで。私たちが以前補佐していた鬼の方は、かなり傍若無人で思い遣りの欠片もない人でしたから。あ、鬼に人というのもおかしいか。傍若無鬼? ですね」
そういうあんたは色々細そうだな。というか体格も細い。木枯らしか?
僕の前で、社交辞令なのは間違いないが社交辞令感を感じさせない笑顔を見せるので、この人上手いなと思った。落ち着いた雰囲気はできる大人を感じさせる。僕より生きた年数は断然短いのに、なぜこうも纏うものに差があるのだろう。
「な、なんかすみません」
「ああすみません。責めたつもりではありません。ただ、人間と同じように、様々な鬼がいるんだなと。実に興味深いです」
「氷川さんは、この仕事――現世にきた鬼の補佐という仕事は長いんですか? 鬼に詳しいみたいですけど」
「長いです。そして詳しいです。私、こう見えて『茨木会』創始者の一人ですので」
「えっ」
えっ。まじか。つまり偉い人。
下っ端かと思っていた人間が実は凄い偉い人だと判明した事実にびびる僕。
「これから赤木さんの補佐をしていく茨木会第十支部の、支部長をしています」
「えっ」
ただのアッシーかと思っていたら偉い人で、しかも一時の関係かと思えば、これからビジネスパートナーとなる人だった。
前回現世に行った時とはまるで違う。こんな風に出迎えもなかったし、『茨木会』という組織もなかった。現世で仕事をする鬼を全面的に補佐する人間がいるというのは知っていたし、前回の時も世話になっていたが、こんな感じではなかった。
「『茨木会』にはいつもお世話になっております。色々と、し、失礼致しまして……」
ぺこりと頭を下げると、偉い人は屈託の笑顔で笑った。笑い声が静寂な霧の中で響く。それは自然な笑いに感じた。
「鬼が頭を下げるところを初めて見ました」
案外、表面上は冷たさが見えるだけで、素は面白い類の人なのかもしれない。あと、この人の笑いのツボがよくわからない。別に笑う場面ではないような気がするんだが。
「気にしないでください。私、礼儀にあまり興味がないので。赤木さんも私のことは気軽に十和と呼んで頂いて結構ですよ」
「で、では十和」
「はい、赤木さん。立ち話も疲れますから、そろそろ移動しましょう」
着いてきてください、と十和が手でジェスチャーをする。僕は十和の後に続いて歩き始めた。
「ところで、そのアタッシュケースは? 地獄製の物を現世に持ち込むのは、鬼という存在が公になるリスクが高まるように感じますが」
後ろを振り向かずに十和は尋ねてきた。気になっていたのだろう。
此岸に運んでもらう前、研技の課長鬼から貰った物だ。
「現世での生活と業務を円滑にする物、らしいです。中身は未確認ですけど、これ」
僅かにこちらを振り向いた十和に、アタッシュケースの側面を見せる。『新生活応援キット』のシール。十和の口角が少しつり上がった。
「なるほど。鬼の道具……実に興味深いです」
「バレないように気をつけますので」
持っていってもいいですよね? ていうか今さらダメも言われても困るが。
十和は一瞬間を置いてから、
「……身バレした場合、後処理が凄く厄介でハイリスクなので、くれぐれもお願いしますね赤木さん」
と、念を押してきた。
持ち込みに関して了解しました、という風に解釈していいだろう。ただし、人間に鬼の存在を知られてしまった時は確実にこの人から大目玉を食らうに違いない。記録課からもお叱りを受けることは間違いなし。説教だけで済まないだろう。始末書は書くこと間違いなし、だ。
「気をつけます」
僕は肝に銘じる。路頭に迷うなんてことにはなりたくない。
迷うと言えば、この霧の中、十和は悩むことなく一心に歩みを進めているが、道がわかっているのだろうか。僕は既に現在地もわからないし、三途の川の船乗り場もわからなくなっている。完全に迷子だ。
「そう言えば、どこに向かってるんですか?」
「どこ、と聞かれると答えるのが難しいですが。現世への入り口、ですかね」
「入り口」
「そう、生者の世界への入り口です。ここは、まだ死者の世界に近い」
ふうん。なるほど。序の口、といったところか。となると少し疑問に思うが、そんな世界に、生者の十和はなぜ平然と居られるのだろうか。しかも道案内ができるほどの正確さを持ち合わせているなんて。
「私、いわゆる特異体質でして」
僕の疑問点を見透かしたように十和は言う。
特異体質? 人間にそんな力があるなんてあまり耳にしないが……ああ、それに当てはまるのが十和というわけか。
「自由に行き来できるほどではありませんが、あの世近くまで行けますので、こうして案内役を務めているわけです。おまけに目もいいので、迷わなくて済みます」
淡々と述べる十和の表情はこちらから見えないが、鼻につくような、驕っている声音は感じられなかった。かといって虚偽を並べているとも思えない。
「な、なるほど……」
本当にそんな芸当ができる人間がいるとは……閻魔帳の記録とは別件で地獄に報告しておこう。
「私からも質問よろしいですか?」
「あ、はい、どうぞ」
「人間とは、どんな味でしょう?」
――――え?
「私、美味しそうですか?」
予想外の質問に固まる僕。その質問の意図は。
思考と脚を止めた僕の方を振り返り十和は喉を鳴らして笑った。
「知的好奇心ですよ。私、人間を食べたことがありませんし、食べられた経験もないので」
そ、それはそうだろう。同族を食すのはタブーだと人間の資料を読んだことがある。一部、カニバリズムという宗教儀礼で食すという話を聞いたことがあるが。まさか、日本人でこんな……。
十和はおや? という眼差しをこちらに向けた。
「人は家畜を食べて生きている。昔、鬼は地上にいて、人を食べて生きていた。食物連鎖上、鬼は我々の上位であるはずだ。事実、以前こちらで閻魔帳を書いていた記録課の方々が仰るには、とても美味だと」
「ま、まぁ、それはよく聞きます」
「と言うと、赤木さんは人を食べない鬼ですか?」
「……そうですね。……今は、あまり食べないです」
「ふむ。となると、赤木さんは人間で言うところのベジタリアンというやつになりますか」
菜食主義というわけではないが、まぁ、黙っておこう。食糧事情に関しては余計な詮索をされたくない。
「そんな感じですかね」
「そうでしたか。人を食べない鬼と会ったのは初めてです。これもまた興味深い」
僕も人の味を知りたがる人と会ったのは初めてですよ。心の中で呟く。
十和の知的好奇心は思ったより満たされなかったようだ。さぁ行きましょう、と促される。また歩き始めた僕たちだったが、僕は別の緊張感に包まれていた。目の前の人間が、人間味をあまり帯びていないような気がしたから。
こんな不気味なビジネスパートナーで大丈夫か。