極秘任務
『閻魔帳管理の甘さに責任を感じております。誠に申し訳ありませんでした』
腰痛持ちだと自ら言っていた閻魔様が腰を九十度に曲げ、深々と頭を下げた。薄くなってきた頭皮が記者たちに向けられ、その可哀想な頭を記者たちはカメラでパシャパシャと激写している。その絵面に少し笑いが込み上げてきたが、カメラマンは写すことが仕事であり、責任者である閻魔様は謝罪会見を開くレベルの失態を犯してしまった為、こういう状況になっているのだ。笑っている場合ではない。彼らは今、熱心に業務遂行中なのである。
焚かれるフラッシュの中、頭を上げた閻魔様は、口を一文字に結んでおり、表情はやはり強ばっていた。薄くなった前髪を描き分けて額から飛び出る凶暴な一本角も、三百センチを優に超えるどっしりとした体格も今は弱々しく、普段の覇気が感じられない。
責任を取るべく壇上に立つ責任者に、記者たちから痛いほどの質問が投げかけられていく。
『閻魔帳が紛失したとありますが、どのくらい紛失したんですか!』
『現世への影響はどのくらいと推定しているのでしょうか?』
『閻魔大王を辞任するんですかー!』
『審理課はどのような管理をされていたんですかねえ!」
『紛失した部分はどのように補完するのでしょうか! お答えください閻魔大王!』
そんな同時に幾つも質問した所で答えなど返ってくるはずがない。聖徳太子じゃあるまいし。
あ、閻魔様ちょっと面倒臭そうな顔してるな。あんたは反省してますって表情してろよ。また叩かれるでしょ。
容赦なく続けられる問い掛けと、強烈なフラッシュ。テレビのモニターとスピーカー越しに見聞きしているだけで目眩がしてきたので、リモコンの電源ボタンを押した。途端、訪れる静寂。そして暗くなったモニターに映っている僕の顔も、ちょっと面倒臭そうな顔をしていた。事務椅子の背もたれに体重を預け、目頭を指で軽く揉む。少し疲労が溜まっている。ここ連日、資料作りに忙殺されていたからだ。これからさらに忙しくなるというのに憂鬱だ。
というのも先ほどの謝罪会見でもあったように、閻魔様――正確には閻魔庁が一つの失態を犯したことにある。
閻魔様も言っていた、閻魔帳。その閻魔帳の一部が紛失してしまっていたことが先日判明した。
この閻魔帳とは、人間の生前の行いを記録する為の物である。一人に一冊のそれは、善いこと悪いこと全てを記録し、三途の川を渡り地獄へとやってきた時、閻魔様の手に渡る。亡者を裁くことが閻魔様の、我々鬼族の、閻魔丁に務める者の仕事であり、この閻魔帳の内容によって処罰の重さが変わる。他に、浄玻璃鏡という、映した亡者の行いをスクリーンに投影する鏡型の機械もあるにはあるのだが、閻魔丁の法廷には一台しか配備されておらず、しかも最近は老朽化が進み、上手く投影されない、亡者の行為が正しく投影されない、という問題も発生してきている次第。年々修繕費も削減されていく一方の今、閻魔帳に頼らざるを得ないのだ。その閻魔帳が紛失してしまったとなれば、バッシングを受けるのは当然であり、裁かれる側の人間からは避難の嵐だろう。もっとも、現世の者は一部を除いて地獄の状況など一切知る由もないが。
「さて……」
数時間前まで僕用だった事務机の上に積まれた数々の段ボール箱。
その上に置かれた一枚の紙切れ。その紙には、内容はいわゆる辞令というやつで。現世へと渡り、白紙となってしまった閻魔帳を再度記録するよう指令が書かれていた。辞令が出る前は閻魔様の補佐役というそこそこのポジションで割りと気に入っていたのだが、上からの命令なら仕方ない。閻魔様から直々にこの件を頼まれたというのも大きい。僕は審理課に配属される前、閻魔帳の記録を業務とする記録課にいたことがあり、現世での活動経験も十数年ほどある。納得の辞令だ。
マグカップに口をつけ、黒い液体をすする。コーヒーはとっくに冷めていた。
「いたいたー赫鬼先輩、ここにいたんですね」
オフィスの扉が開けられ、ひょっこり顔を覗かせた後輩鬼。桃色のサラサラとしたショートボブ。その両こめかみから生え立つ二本角はまだ小さく、背も小さい。たしか前回の健康診断で百五十センチを突破したと嬉しそうに報告してきたような覚えがある。興味ない報告だったので記憶が曖昧だ。今では見慣れた後輩の黒いレディーススーツと黒ストッキングという格好だが、初めて会ったときは、なんだこのカッコつけたガキンチョはと思ったものだ。しかし今では少しだけ、様になっているような気がしなくもない。
「聞きましたよぉ先輩。現世に転勤決まったそうですね」
「相変わらず耳がはやいね」
「へへ~それほどでもぉ」
ほわほわにこにこしながら後頭部をぽりぽり掻く後輩。別に褒めたわけじゃないんだけど。まぁいいさ。
「現世の資料を見る限り、僕が前回いったときより色々進歩してるね。ブランクとジェネレーションギャップが心配なところだけど……」
「だぁいじょうぶですよぅ。自信もってくださいって先輩! 裁判部審理課の若きエースで閻魔様お気に入りの赫鬼先輩なら余裕のヨッチャンですって!」
こちらへ歩み寄ってきながら後輩鬼はにやにや笑い、わざとそう言う。
もう聞き飽きた煽り文句だ。先輩鬼を差し置いて、若い鬼が昇進していくのが気に食わない連中の台詞だ。現世だろうと地獄だろうといつの時代だろうと、そういうのはあるものだ。
わざとそんなことを言ってくる後輩に向けて、僕もこれみよがしにわざと溜め息を吐いてやった。
「は~あ。それがこれから現世に渡る先輩に対する台詞かよ」
「てへ、すみませんついいつものノリで。先輩ってあんまり先輩って感じじゃないですよね☆」
「そっか、反省書が書きたいのか」
後輩は焦った様子で両手をぶんぶんさせながら後ずさる。
「冗談ですよぉ! 今バタバタしてるじゃないですかぁ。ちょーっと忙しくなりそうな感じなんですよねぇ。なんでこのタイミングで反省書はちょっと……」
「モモが挑発するからだろ」
「てへ、いつもながらすみません~」
謝っているはずなのに悪そびれた様子が見られないのはなぜなのか。ぺろ、と舌を出してウインクする後輩。可愛くない。
「机の下の段ボール箱、全部不要品で棄てるやつなんだ。廃棄場まで運んでくれたら、特別に今までのふざけた行為と未提出の始末書や反省書、全部チャラにしてやってもいいよ」
「へえええ? なんでまた急に?」
いつもなら許してくれないのに、と訝しむ表情。そう睨むなよ。怖くないからさ。なにより、
「今日でお別れだからね」
「そうでしたね」
僕は明日から現世へ。僕の代わりの鬼が明日から後輩の先輩になる。
後輩の表情が少し陰ったような気がした。気のせいだろうか。でも、こんな僕にも、僕がいなくなることで寂しがってくれる後輩がいると少しだけ自惚れてみる。まぁ、思い返してみれば、敵の多かった僕にとっていい後輩だったと思う。能天気な性格に救われたことも何度かあった。こんなこと、癪だから本人には絶対に言わないけど。絶対に調子に乗るから。
「先輩は記録課に異動して、観察員になって、現世で働くんですよね」
「そう。閻魔帳の件でね」
「そっかー……そうですかぁ」
「代わりに行きたかった?」
「いやぁ、人間嫌いなんでイイデス」
「そう言わず一回いってみるといいよ。おすすめは北海道ってところかな。今度資料送るよ」
現世から地獄への通信手段は確立されているから問題ない。現世について一段落したらメールでも送ってやろう。
「うーーーーーん。んーーー……」
「なんだよ」
「べっつにーなんでもないですぅ」
ムッとしたように唇を尖らせる後輩。拗ねた子供のようだ。
「なんでもない態度じゃないよね」
はっきりしないのは嫌いだ。何なんだよ本当。いつもなら余計なことまではっきりくっきり言うくせに。煮えきらないやつだ。等活地獄を構成する地獄の一つである瓮熟処で、獄卒課の鬼にかき混ぜられながら釜の中でぐつぐつ煮てもらえばいい。
いったい何が不満なんだろう。僕の後任が気に入らないのだろうか。もしくは、僕のポジションを狙っていたのだろうか。
「モモ」
「はい?」
「心配しなくてもそのうち昇進するよ」
「……だといいですけど」
「僕の後任の鬼だけど、緑鬼のリョクってやつがモモの先輩になる。仕事のできるやつだから大丈夫」
「それなら安心ですね。……ぜんぜん大丈夫じゃないですよ」
「全然何?」
「べえっつにー? 人間観察する先輩がこれで大丈夫なのかと心配になっただけです」
……他人の心配より自分の心配をするべきだと思う。色んな意味で。
よっこいしょ、と後輩は不要な物が詰まった段ボール箱数個を軽々抱え上げる。さすが、若くて女の鬼でも怪力は健在だ。
「それじゃあ先輩、これ、持っていきますね」
と言うと、後輩はさっさとオフィスから出ていく。と、思ったら一瞬立ち止まり、顔だけこちらに少し向けて、
「先輩、いってらっしゃい。応援してますよ☆」
と、見送りの言葉を送るのだった。
「ああ、行ってきます」
ありがとう、と心の中でだけ付け加える。
後輩は思い出したように「あ!」と声を上げる。何事かと思っていると、
「現世のお土産は食べ物でよろしくです~」
ウインク一つと共に不躾に頼まれる。それが本命か。
にへらぁと気の抜けた表情の後輩には緊張感がまるで足りていない。マイペース、それが、彼女の長所であり短所でもあるのだけど。
「はいはい。わかったから仕事しなよ」
「お任せあれ、です。ではでは~」
バタンと扉が閉まり、一人となる。
少しだけ、ほんの少しだけ心細くなったのは内緒だ。なんだかんだいって、モモとは気があって、面白い、いい後輩だったから。
「……」
慣れ親しんだ者との別れ、新境地での新たな仕事は辛いものがある。そんなことわかっている。
でも仕方ないことなのだ。この閻魔帳を修正しなければ、本来地獄へとやって来ること自体がお門違いである人間が裁かれることになる。罪のない人間が数多の鉄の刃に切り裂かれ、地獄の業火に身を焼かれ続ける光景など、あってはならない。
そう、僕は、誰にも言えない事実を呟く。
「閻魔帳は、本当は紛失しただけじゃない」
紛失しただけなら悪行も善行も記録されていない、空白の閻魔帳となるだけだ。
「紛失したことを隠そうとして、失敗したんだ」
担当の鬼たちがこのミスを隠蔽するため、空欄を虚偽記載で埋めようとした結果、閻魔帳が事実無根のデタラメな内容になってしまった。さらに悪化した状況。このままだと善行を積んでいたはずの人間が、無罪のはずの人間が、心優しい持ち主のはずの人間が、裁かれてしまう。裁判の際、浄玻璃鏡で生前の行いがチェックできるとは言え、そう都合よく善行だけが投影されるとは限らない。普段は善行を重ねていても、悪行を働いた一瞬を時間指定してしまいあたかも悪人である、と判断されてしまう可能性もある。
天国に行くような人間が、地獄に堕ちてくるなんて不条理な結末にさせるものか。
「……」
受け持つ人間の閻魔帳を、必ず本来の姿にしてみせる。
机の上に纏めておいた資料。その一番上で無表情に写っている人に向けて、僕はそう誓った。