ギリギリチョコレートの呪縛(仮)
廊下で友人と楽しげに会話しながら歩く女子生徒の、その左手に提げられたカラフルな紙袋を見ながら、僕は7年前の苦い思い出を噛み締めていた。
からかわれたのか、その女子生徒は頬を赤く染め、照れ隠しに友人の肩を小突いた。瞬間、彼女の髪の毛が幸せそうに揺れた。
普段は真っ直ぐに下ろされている髪が少し巻かれ、横で1束に結ばれており、赤色のシュシュが彼女の黒い髪を彩っている。
そんな彼女の普段とは違う見た目も、今日という日の特別性を端的に表していた。
そして、その特別な出来事は自分とは全く関係のない所で起こるのだろう。
そう思うと、切なくなった。
朝コンビニで何気なく買った安いチョコレートを鞄から取り出す。
一口10円にも満たないそれは、ただ甘いだけで、口の中には虚しさだけが残った。
◯◯
あれはちょうど七年前、僕らがまだ小学四年だった年の2月14日の事。
その日も、世に言うバレンタインデーという日だった。
高校生となった今でこそ、周りと一緒にその日を盛大に騒ぐが、まだ小学校の中学年だと、それ程大きなイベントに感じる事はなかった。
そもそも、その頃の僕は1にドッジ2に野球、34にサッカー、5に天下(ボール遊びの一つ)と言う、典型的な“ガキ”だった。
恋愛イベントなんて意識の隅にもない。ただ友達と遊ぶ事ばかりを考えていて、バレンタインデーという日は母や姉、知り合いの女の人からお菓子を沢山貰える日、という程度の認識だった。少し得をするが、大したことはない。その日が特別な日という認識は全くなかったのだ。
だから。
「これ、ぎりチョコだからっ!」
綺麗に包装されたソレを僕に手渡すと、彼女は首筋をポリポリ掻きながらそう言った。
対して受け取った僕は……。
「は?ぎりチョコとか、そんな食い物かどうかも怪しいモノ、人に渡すなよ。常識だぞ?」
ぎりチョコ。
ギリギリチョコって何だよ。怪しい物なんじゃないのか? “ぎりぎり” じゃなくて正真正銘ちゃんとしたチョコを渡せよ、と内心呆れていたのだ。
「これ食って腹壊したらどうす……」
僕はその言葉を最後まで続ける事は出来なかった。
何故なら目の前にいる彼女に頬を叩かれたからだ。
「おい、なにす……」
その言葉も尻切れてしまった。
何故なら彼女の瞳に大粒の涙が溜まっていたから。
「……最低」
次の瞬間には彼女は走り去っていった。
僕はただ呆然と、次第に小さくなっていく背中を眺める事しか出来なかった。
家に帰ってその包装を解いてみると、そこには普通のチョコが入っていた。ギリなんて、ギリギリなんて付かず、何処からどう見ても、それはチョコレートだった。
食べてみると、少し苦かった。
その後に僕は “義理チョコ” と言うものを知った。義理と言う言葉はよく分からなかったが、女性が知り合いの男性に普段お世話になってます、と渡すチョコレートの事らしい。
僕は当時、本命チョコという言葉すら知らなかったのだ。もっと言えばバレンタインデーが告白する日という認識すらなかったと思う。
ハロウィンと同じで、沢山お菓子が貰える日としか思っていなかったのだから。
彼女は僕にとって大切な友達だった。
彼女とは家が近所で自然と遊ぶようになり、気づいたら仲良くなっていた。
彼女は僕よりも身長も高く、力もあり、男みたいだった。一緒に虫を捕ったりキャッチボールをしたりと、毎日の様に遊び、気の置けない存在だった。
よく泣かしたし、よく泣かされた。沢山喧嘩したけど、沢山一緒に笑った。
当時の僕にとって、1番の友人だった。年齢を少しずつ重ねるにつれ、男女の差は感じる事もあったけれど、その関係は小4の時まで変わらなかった。
しかし例の一件以来、僕達の関係は終わりを迎えた。
話し掛けても無視され、近付くだけで舌打ちを受けた。チョコレートの一件について謝ろうと思っても、そんな事は出来ない状況だった。
そしてまだガキだった僕は、次第に彼女の態度に腹を立てるようになった。
気づけば、顔も見たくないと思う程に、僕は彼女の事を嫌っていた。
しかし、学校という小さなコミュニティの中では、彼女と顔を合わせてしまう瞬間というものはあるもので。
時折見る彼女は段々と女性らしくなっていく。
髪が伸び、胸も少しばかり膨らんでいった。
身長もいつの間にか僕が抜いていた。
そんな風に彼女の変化を断続的に見ていくうちに、僕は彼女が女だったという事を、そして僕が男だという事を、否が応でも意識していくのだ。
そして、彼女を無視していた僕は、気付けば彼女を見る様になっていった。
彼女が笑っていれば何が可笑しいのか気になったし、彼女が他の男子と楽しげに会話しているのを見ると胸が苦しくなった。彼女とまた登下校したかった。彼女とまた喧嘩をしてみたかった。彼女と一緒に過ごしたかった。
有り体に言えば、彼女に恋をしていた。
そしていつしか、こう思う様になるのだ。
彼女も僕の事が好きだったのではないか、と。
彼女からバレンタインデーにチョコを貰ったのはあの日が初めてではなかった。その前の年も、もっと前も、僕は彼女からチョコを受け取っていたのだ。
そこにはまだ大した意味は込められていなかったと思う。
そういう日だからそうした。ただそれだけで、彼女は僕にチョコを渡していたのだと思う。
しかし、あの小学四年の時は違ったのではないだろうか。
彼女はその時初めて、態々「義理チョコ」だと言って渡した。
どうしてそう言う必要があったのか。
そこに、その義理という部分に、彼女の淡い恋心が込められていたのではないだろうか。彼女の素直になれない意地らしさが、そこに現れていたのではないか。
それはまるで見当違いという事も無い様に思えた。
でも、だからこそ後悔は募り、今を余計に惨めにさせた。
◯◯
あれから何だかんだと、中学、高校と学び舎は同じくすれど、やはり彼女との関わりはない。
高校に入ってから彼女は益々綺麗になっていた。
バスケ部の彼女はスラリと背が高く、頭も小さい為、姿が綺麗だ。切れ長な目によく通った鼻筋、澄ました唇と、若干キツめの印象を受けるが、美人と言って差し支えなかった。そして何より、その冷たさを感じさせる素顔と、彼女の見せる笑顔とのギャップが彼女をとても魅力的に見せた。
現に学年でも1番とは言わないが、それなりに人気があり、この前も誰かに告られたと言う噂を耳にした。
今年は彼女と同じクラスになってしまった事もあり、そういった噂が耳に入りやすい。
また、そういう事ばかり追い掛けている友人が居るのも、その要因の一つだろう。
そしてバレンタインが近付くに連れ、彼女が誰かに本命チョコを渡すつもりでいるらしい、という噂が流れ始めた。彼女が友人にその事を話してそこから広がっていったのか、誰かの単なる想像が噂となっていったのかは分からない。
でも、その噂が真実であった事は、今日の彼女の様子から直ぐに分かった。
友人がしきりに彼女が持ってきた紙袋を指差して揶揄い、彼女がそれに対して照れた様に笑っていた。
首筋をポリポリと掻きながら、何やら言い返していた。首筋を掻くのは昔から彼女が何かを誤魔化す時にする癖だ。
「恐らく同学年の男子バスケ部の新部長だろうね」
そう語ったのは情報通気取りの新聞部員の友人だ。
彼曰く、三年が引退した後にその人は部長となり、同じく女バスの部長となった彼女は、彼と一緒にいる時間が自然と増えていったらしい。同じバスケ部の部長同士で共感する所も多く、その結果、いつしか彼女は頼れる彼を想う様になったのだろう、とその友人は語った。
そしてその男子バスケ部の部長も満更ではない、とも。
「そこそこイケメンでバスケは一流。勉強もできると、中々の出来すぎ君だ。凡人の僕達は悔しいが諦めるしかないね。あぁ遂に我がクラスのマドンナもお手付きとなってしまうのか……!?」
「大袈裟だな。まだそうと決まった訳じゃあ無いんだろう?」
この言葉には僕の少なく無い希望が込められていた。
「小野君、何だい?君まさか立花さんの事好きだったのかい?」
「いや、そういう訳じゃ無いけど」
「まぁ、君の気持ちも分かる。何というか立花さんには皆のマドンナでいて欲しかった。でもね、小野君」
彼は真面目くさった顔を作って僕を見た。
「彼女だってぇ、普通の女の子なんだ。恋もするし腹も鳴る」
「後のは余計だろうよ。まあ言いたい事は分かるけど」
彼女が普通の人間なんて事は言われずとも分かっている。
何せ、人格がほぼ形成される年齢まで一緒に育ったんだから。
「そうそう生きてたら当然の事だよ」
そうだ。恋する事は極当たり前だ。
でも恋はそんなに単純な事じゃない。
苦しくて、諦めたくて、でも捨てる事が出来ない想いだ。
一度下まで落ちれば、天と地がひっくり返らない限りもう後戻りは出来ない。
そんな取り返しの付かない想いが恋なんだ。
僕はチラリと彼女の方を見るが、相変わらず照れ臭そうに友人と笑っていた。
あの紙袋の中身が自分への物だったら、どれだけ幸せか。
つい数年前までは、恋なんて全く興味の無いガキンチョだったのに、いつの間にか僕も、世に数多いる恋に悩める人達同様、その想いに苦しめられている。
恋をする前に、恋の仕方を知る事が出来たら、幾らか楽だったのだろうか。
初恋を引き摺った僕は、その枷の外し方をまだ知らない。
この恋をどうやって終わらせれば良いのだろう。
◯◯
やがて放課後となった。
文芸部の部室には赤い光が差し込んでいて、僕をセンチメンタルな気分にさせる。
こんなにも世界が恋の色に染まってしまったら、否が応でも彼女の事を想ってしまうのだ。
もう告白は済ましたのだろうか。
もう恋人が出来てしまったのだろうか。
「先輩、今日はバレンタインですよ?強制参加でもないのに部室に来るなんて、残念な男子高校生なんですね」
そう後ろから声を掛けてきたのは、一つ下の後輩だった。
去年の4月から文芸部に入って来たのだが、僕にとっては初めての後輩で可愛がりすぎたのか、最近ではこういった軽口をよく叩いてくる。
確かに今日部活に参加した男は僕だけだけど。そもそも部活には男子は僕しかいない。先輩に2人いたけど既に引退して今は受験勉強中だ。
それに。
「君も同じじゃないか」
「ふふ。私はこれから、ですよ」
そう言って彼女はカバンの中からラップに包まれたお菓子を取り出した。
「はい、これあげます」
中身がクッキーだと直ぐに分かった。
ハート、星、四角と、色んな形の物が入っている。
「……え?」
「あ、違いますよ。これは義理チョコです」
彼女は面白そうに笑った。
「あ、そう」
僕はホッとしてそれを受け取る。
「ふふ、期待しちゃいましたか?本命はこちらです」
そう言ってまたカバンから取り出したのは、僕が今持っている物よりも、凝った包装が施されており、一目でそれが本命用だと分かった。
「先輩をからかって、そんなに楽しいかい?」
「はい!」
ニッコリと無邪気に笑う彼女に僕はもう何も言えなかった。
「それじゃあ、誰に渡すか知らないけど頑張って下さい」
「んー、頑張るも何も彼氏ですしぃ」
「あ、そう」
では行ってきます、と彼女は元気に部室を後にした。部室に1人残された僕も帰り支度を始める。
「義理チョコ、か。これだけ分かりやすいと貰う方も助かるんだけどな」
早速一つ食べてみた。
チョコチップが入ったそのクッキーは少し苦かった。
◯◯
文芸部は時間いっぱい活動する事はまずない。
だから中途半端な時間にいつも解散するので、他の部の人とは帰りの時間が合わず、帰宅時間に校門が混む事もまずない。今日も部室に顔を出したのは良いが、早々に部屋を後にしたので、何時もより早い帰宅時間と言え、下駄箱、校門付近は空いていた。
だから、彼女をすぐ見つけてしまった。
恐らく人が沢山いても、直ぐに見つけてしまうのだろうけど。
彼女は門を背もたれにして、スマホを弄っていた。
スクールバッグは足元に置き、左手には例の紙袋を持っている。
部活は休みなのだろうかとか、そんな疑問が浮かんだけど、そんな事はどうでも良かった。
今彼女はこれからその紙袋の中身を渡す相手を待っているのだろう。そう思うとやっぱり胸が苦しい。
彼女はスマホを見つめ、僕の存在には気づかない。
或いは気付いても唯の背景として見ているだけなのかもしれない。
僕が彼女の前を通り過ぎる瞬間も、彼女は僕の方をチラリとも見てこなかった。
でもそれはいつものことで。
ただ、今日はそんな当たり前の事が、いつもより堪えた。
もしかしたら、と夢を見てしまった。
彼女は僕を待っていたのではないかと。彼女がこちらを向いて、声を掛けてくるのではないかと。
期待するだけ無駄なのに、性懲りも無く……。
僕が彼女の前を通り過ぎた瞬間。
それは僕が本当の意味で失恋をした瞬間でもあった。
彼女は僕ではない誰かを待っている。
本命チョコを渡す為に。
その事が、決定的となった。
僕の初恋はこうして完全に終わったのだろう。
呆気ない幕切れだった。
視線の先で校門前の歩行者信号が点滅しているのに気付き、早足で横断歩道を渡ろうとしたけど、間に合わなかった。
ここを渡らなければ、バス停には行けない。なのに、この交差点は歩車分離式信号で、一度赤に捕まると長時間待つ事となる。
それは今の僕には辛かった。
正直出来るだけ早く彼女から距離を取りたかったのだ。数m後方にいる彼女から早く遠ざかりたかった。
しかし、信号の変わり目で車は多く、間を縫って横断することは難しく、信号を無視するにしても、今はまだ無理そうだった。
観念して、空を見上げた。
ほんの数秒、ほんの数分の我慢だ。
彼女にとって僕は背景でしかないのだから、群衆の中の一人でしかないのだから。
そして、これからは僕も彼女をその様に思う努力をしないといけないのだから。
好きな人がいる人を何時までも想っていても無駄だろう。今まで何だかんだと言って彼女に好きな人がいるという確たる事実は無かったから、ズルズルと未練がましくこの恋を引き摺って来たけれど、今回で僕は完全に失恋したんだ。
きっと明日には彼女に彼氏ができた事が噂として流れる。
それは僕にこの恋の終わりを、より実感の持ったものとして感じさせるだろう。
それは考えようによっては良いことなのかもしれない。
明日からは万が一の可能性に縋る事はしなくて良いんだ。
明日からは都合の良い夢を抱かなくて済むんだ。
明日からは純粋な諦めの気持ちでいる事が出来るんだ。
それに明日何が起こるか誰にも分からない。
もしかしたら明日、僕を好きという人が現れるかもしれない。
もしかしたら明日、空から美少女が降ってくるかもしれない。
もしかしたら明日、僕は誰かのことを心底好きになるかもしれない。
赤い空が目に沁みる。
明日が待ち遠しかった。
早く夜になって、そして朝になって欲しい。
明日からはきっと良い日だから。
今日が最低で、明日からドンドン調子が上がっていくのだから。
明日からは、元気出すから。
だから。
もうこれ以上、今日という日を見たくなかった。
思わず手で目を覆ってしまう程に……。
男らしくとは思っても、頰を伝う其れを、中々止める事は出来なかった。
今日僕は正真正銘失恋をした訳だ。
本当の意味で失恋の辛さを味わっている訳だ。
あぁ、失恋とはこんなに辛いものなのか。
こんなに心が痛いものなのか。こんなにも涙が止まらないものなのか。
あの時彼女はこんな想いを、したのだろうか。
あの時の彼女の涙は、この涙と同じだったのだろうか。
僕の不用意な言葉が、彼女をそんな想いをさせたのだろうか。
だとしたら、彼女が僕を恨むのは納得がいく。
僕を無視するのも納得がいく。
こんなにも胸を痛ませる相手を、こんなにも心を苦しめる相手を好きでいられようか。
きっと僕も彼女を嫌いになれる。
こんなに苦しめられたのだから、きっと嫌いになれる。
そして、明日から僕は苦しみから解放されるんだ。
やがて僕は横断歩道を渡った。
渡り終えても、まだ彼女の事は好きだった。
数m歩いても、まだ彼女の事は好きだった。
数十m走っても彼女の事はまだ好きで、バス停についても、そうだった。
バスに乗っても、その気持ちは変わらなかった。
失恋しても、中々恋心と言うのは消えないらしい。
◯◯
バスの窓にうっすら映る自分を見て、やっぱり思い出すのは五年前のあの日の事だった。
あの日、僕が義理チョコと言う言葉の意味を知ってたら。
あの日、僕が不用意な事を言わなければ。
あの日、僕がもっと大人だったら。
……違う。
本当は分かっている。
もっとチャンスはあった。
僕が無駄だと諦めていた間にも、きっとチャンスはあったんだ。
何か行動を起こしていれば、変わっていたかもしれないんだ。
ただ、過去の自分に全て責任を押し付けて。
あの出来事があったんだから無駄だと勝手に決めつけて。
そうやって今の自分を守って来ただけだ。
彼女に関わって、今の自分を否定されたくなかっただけだ。
自己保身のために過去の自分を責めているだけだ。
過去がどうかじゃない。
今がどうであるかが重要だったのに。
無視されても、無理を通してあの事を謝って置けば良かった。
もっと話しかければ良かった。
告白、すれば良かった。
乾いた笑いが溢れた。
窓に映る僕は酷く滑稽に見える。
それは過去を理由に今の自分を守ってきた男の成れの果て。
格好悪くて、ダサくて、ヘタレで、こんな男誰も好きになりはしない。
あぁ、ダメだ。
これじゃぁ何も変わっていない。
今こうして諦めているのも、結局は同じ事だ。
今、実際に何かしたわけじゃない。
今、実際に何かして、その上で失恋したわけじゃない。
彼女には他に好きな人がいるから、と。
彼女は僕の事が好きではないから、と。
それを理由に諦めただけだ。
過去の自分を理由にするのか、他人を理由にするのか。
それだけの違いだ。
結局は今の自分に何も責任を負わせていない。
そして将来、過去となる今現在の自分を、後悔するという形で責めるのだ。
それはとても惨めで卑怯で、愚かな事だ。
振られるのは今の自分でなければならない。
否定されるのも、傷つけられるのも、今の自分でなければならない。
そうしないと、先に進めない。
そうしないと、終われない。
僕は降車ボタンを押した。
バス停ではなかったが、信号に捕まったので頼んでみると、降ろしてくれた。
僕はバスを降りると、学校に向かって走る。
力の限り走った。
息が切れても、構わず走った。
その道中に、彼女は居た。
独りで歩いていた。
何故ここに、とか。
何故独りで、とか。
家まで歩いて帰るつもりか、とか。
そんな事は思わなかった。
そんな余裕はなかった。
彼女の姿を見つけるなり、僕は叫ぶ。
「香織!」
昔のように、そう呼んだ。
その瞬間彼女のサイドテールが大きく揺れた。呼ばれた彼女は驚いた様子でこちらを見ていて、まだ数m距離はあったが、その表情が驚きに満ちているのはよく分かった。
僕は歩いて彼女に近づく。
やがて手を伸ばせば触れられるほどの距離になった。
こんなに近付いたのは、もしかしたら7年ぶりだろうか。
「7年前のあの日の事、本当にごめん。今更何言ってんだって思うかもしれないけど、結局あの後謝ってなかったから。それから……」
息が上がって、上手く喋る自信は無い。
だからシンプルに。
彼女の目を見て。
しっかりと伝わる様に・・・・・・。
今更手遅れかもしれない。
無駄かもしれない。
でも、今に責任を持つために。
「香織、好きだ」
言った。
ようやく言えた。
今、この瞬間、僕は漸く彼女に想いを告げる事が出来たのだ。
それだけで満足だった。
それだけで、なんだか幸せだった。
「……別に」
彼女は視線を逸らして、そう呟いた。
これから僕は振られるのか、どうなのか。
別にそんな事はどうでもいい様な気がしていた。
バレンタインデーという日が幸福を望む日なのならば、こうして彼女と口がきけて、彼女に好きと言えて、それだけで、その日僕は十分報われたと言える。その日を大いに満喫したと言える。
もう後悔はない。
「もうあの時の事は気にしてない。凄くムカついて、凄く悲しかったけど・・・・・・」
その沈黙の間、彼女は当時の事を思い出しているのだろうか。
その表情が少し陰った。
「……ごめん」
彼女は首を横に振る。
「……もう、気にしてない」
そう言うと彼女は例の紙袋の中を漁り始めた。
「これ、あげる」
彼女がそう言いながら取り出したのは、普通のチョコレート菓子だった。ラッピングも何もしてない、バレンタインデーでなくても、春夏秋冬いつでもどこでも買える、お手軽なチョコレート菓子。
見るからに義理チョコ。
「……言っとくけど、これ、義理チョコだから」
僕がそれを受け取ると、首筋をポリポリと掻きながら彼女はそう言った。
そして次の瞬間には、彼女はもう走り出していた。
僕の横をすり抜け、あっという間に遠ざかっていく。
僕はその見覚えのある光景を、今回もただ呆然と眺める事しか出来ないでいた。
しかし、数十m先で彼女は不意に立ち止まりーー
「バーカ!」
彼女はこちらを振り向いてそう叫んだ。
その声はよく響いて、僕のところまで確り伝わってきた。
バカか。
うん。確かに僕はバカだったな。
「これ!ありがとう!」
チョコレート菓子を高く掲げ、僕はそう叫び返した。
「バーカ!」
彼女はもう一度、そう叫んだ。
ちょうど夕日が逆光となっていて、よく表情は見えなかったけど、でも何だが笑っている気がした。昔よく見た様な笑顔で。
そして彼女は今度こそ走り去っていった。
彼女の後ろ姿はドンドン小さくなっていく。
僕はそのチョコレート菓子を食べてみた。
久しぶりの彼女のチョコレートは、ただただ甘かった。
◯◯
僕が彼女に告白をした場所。
僕はそこで彼女を見つけた訳だけど、僕が校門前の横断歩道を渡った後、間もなく彼女も校門を後にしなければ時間的に、そして距離的に考えて、あそこで出会う事にはならない。
いったい彼女は校門で誰を待っていたのか。
その事に気付いたのは、家に帰ってからだった。
そう、捉えていいのだろうか?
不安はあったが、やっぱり後悔はしたくなかった。
とりあえず明日、彼女に問い詰めようと思う。
一体誰に本命チョコを渡したのか、と。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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