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残月

作者: 朱蔓

筆を手に取ったまま、男――この国を統べる帝は苦笑した。自らを守るはずの愁軍に取り囲まれ、刃を向けられている現状を思えば無理も無い。

覚悟をしてきたことが現実になったと悟り、彼は静かに筆を置いた。死が目前に迫っているのを自覚してはいるが、心は冷静なままだ。残される子供を思う余裕すらある。

彼は立ち上がり、自ら愁軍に近づいて口を開いた。


「余は決して謝罪はせぬ。だが、罰するなら余だけにせよ」


今まで悪逆非道の限りを尽くしてきた彼である。民草などはただ、 自分に奉仕するだけの存在としか思ってはいなかった。

だが、そんな彼であっても、目にかけ続けた寵臣の姿を愁軍の中心に認めては、さすがに驚愕と動揺を禁じえなかった。

彼の前には、凛とした佇まいの青年が立っている。いかにも覇気に満ち、彼に欠けた君主の威厳を携えて。


――国に唯一残った良心とすら思っていたあの男が、謀反を起こした張本人だというのか。


さすがに彼もこれは失念していた。日を追うごとに宮中で力をつけていたのは知っていたが、この青年は武門の出ですらない。

そのうえ誰よりも優しく、彼とその息子たちを慕ってくれていた――そのような男に刃を向けられるとは思ってもいなかったのだ。

春光(しゅんこう)はあらためて青年の顔をみやった。はっとさせられるほどの美貌は相変わらずだが、内に宿るものは以前と対極にあるといっていい。

かつての春風のような朗らかさに取って代わったのは、相手を激しく拒絶する極寒の吹雪だ。それが冷え冷えとして作り物じみた美を強調している。今の青年は、見る者の多くを畏怖させずにはいられないだろう。

誰に確認をとるまでもなく、彼と青年の立場は逆転していた。

青年の手により、皇帝であった己の一生は、随分とあっけなく幕を閉じる。


同時に、遅すぎる後悔の念が首をもたげた。自分はそこまで青年を思いつめさせ、今のように冷え切った目をさせてしまったのかと。


「民を虐げた報いを受けて頂きます、春光様」


酷薄な嘲笑を張り付け、青年は剣を掲げて彼――春光に告げた。言葉には鋼じみた硬質な響きがある。

剣の刃先は細かく震えている。そこにあるのは彼への怒りか、簒奪への歓喜か。


子供たちの行く末を祈り、彼は頭を垂れる。諦めが早い、春光らしいけじめのつけ方だ。彼が最期に見たのは、振り下ろされる剣が真下に落とす影だった。

鈍い音と何かが落ちる音が、続いて周囲に響いた。

こうして愁大帝国を虐げた皇帝は、簒奪により命を落とした。




「……夜明けが近い」

緊張を胸に夜を過ごした青年は、差しこんでくる光に身を起こす。宮中は静寂の中に沈んでいる。波璃越しに見る雲海は、黄金に染まっていた。軋む扉を開け放ち、露台に出る。白皙(はくせき)の顔を縁取る髪は(とび)色。朝日を浴び、嘆息する姿は良くできた人形を思わせた。青年は太陽から目を離し、白く残っている月を仰ぐ。

皇子の名は月からとられた。まだ皇子は、父の死を知らされていない。皇子は一月ほど前から、皇帝に暁国北部いきを命じられていた。

一六年前の暁愁戦争で奪われた土地で、皇妃が生まれた地でもある。遊牧民を中心とした、強大な騎馬軍を持つ難攻不落の地だ。

暁国が拠点としている城塞都市。それを奪還せよとの事であった。皇妃が亡くなってから、春光は独裁を始めた。息子を軽んじ始めたのも、その頃からだ。だが、自分たちにとっては皇子がこの地から離れるのは、絶好の好機だった。息子を軽んじたがゆえに、命を落とすとは春光も予想していなかったのだろう。首を落とした本人に憐れまれるのを、彼はどう思ったのだろうか。

(りん)(しゅん)殿、ご自愛くださいませ」

考えにふけっていると、高い声がした。殺伐とした場に似合わないその声に、青年の顔に緊張の色が走る。声をかけたのは、藍の官服に身を包んだ少女であった。

「皇女殿下」

 拱手し、膝をつく青年。皇女は笑みを返し、露台の柵に寄り掛かる。まぶしそうに目を細め、雲海を見下ろす。景色を楽しむ、皇女の頬は上気していた。朝日を受け、皇女の髪は朱金に輝いている。それを見た青年は、美しさに小さく息を漏らした。

「この髪、変でしょう? 」

 自嘲の色を声に乗せ、皇女が唐突に尋ねた。揺れる長い髪を手に取り、同じ問いを繰り返す。青年が即座に否定するも、皇女の表情は暗い。

彼女の母に当たる皇妃は暁国の王族だった。暁国の民は紅髪を持つ。

だが、皇妃は真紅の髪ではなく、茶色の髪をしていたのだ。

愁大帝国では紅い髪は珍しく、皇女は好奇の目で見られた。今までに何度か、皇位を疑われることもあったという。

独裁を続ける父を諌めて、皇女は臣籍に落とされた。民や官には厳しかったが、皇帝は身内にはどこか甘かった。それゆえの温情であった。


「暁国から兄上が帰ってきたら」

 青年は皇女の声に、顔を上げる。皇女は青年から背を向け、震える声で続けた。背を伸ばし、凛とした佇まいで厳かに告げる。

「わたくし、紅蘭が父を討ったと伝えなさい」

「しかし! 」

 礼儀作法を忘れ、青年は皇女に叫ぶ。謀反を計画し、指示したのは皇女であった。国を憂い、民を思えばこその行動。簒奪は死罪。皇族であろうと、賎民であろうと罪は同じ。だが、他に方法はなかった。放っておけば、春光は愁大帝国を滅ぼしていたに違いない。

「間接的とはいえ、わたくしは多くの民に手をかけた」

 目を伏せ、雲海を見降ろし、皇女は打ち明ける。

まだ間に合う、これからでもやり直せるはずだと言うのに。青年は唇を噛み、皇女に言う。

「……どうか皇子のお気持ちをお考えください。あの方は、貴方をいつも案じておられた」

 歯がゆく、何としても引き止めねばならぬと思った。

それでも皇女の表情は頑なだった。こうなってしまえば止められないと、近しい臣であれば良く分かっていた。無論、彼にも。

「お気持ちが変わらぬのであれば、せめて私を供に」

 青年は皇女の前に跪き、拱手の礼をとる。

下らぬと、呆れたような声音で皇女は呟いた。

「父上の勅命に背くつもりですか。わたくしの亡き後で、兄上に合わせる顔がないなどと考え、父上の厚意を無駄にすると? 」

 青年の嘆願をいなす言葉。相対する青年の瞳に、複雑な色が浮かんで消えた。皇女はそれを見てから、長く目を閉じる。再び開かれた瞳には、強い覚悟の光が宿っていた。

(りん)(しゅん)。あなたはここに残りなさい。新しい時代をつくるには、貴方の力が必要です」

 長い沈黙が続く。沈黙を破ったのは青年の言葉であった。

「愁大帝国法第一二五条において、紅蘭様、あなたを拘束します」

 その後、早朝の宮中に兵を呼ぶ角笛が鳴り響いた。

拘束された皇女は、極刑に処されることが決まった。

何も知らぬ民は新しき時代の到来を喜び、鈴俊を褒めたたえた。


愁大帝国は愁国と名を変え、簒奪を企てた者たちは激務に追われることとなる。愁国各地は反乱により、一時、分裂の危機を迎えた。

田畑は焼かれて焦土と化し、悪官が民を虐げる。反乱軍と愁軍が何度も衝突し、鎮圧に奔走する。悪官を一掃し、罷免されていた官を復帰させ、治安を維持し、疲弊しきった民を保護する。それを徹底するだけでも、かなりの労力を必要とした。民がある程度の生活を送れるようになってから、まだ日は浅い。

悪名高い第一七帝朝が倒されてから、はや三年。

愁国首都、(そう)(れん)に君臨する幻影宮は、遅い春を迎えようとしていた。

園林に咲く花は日ごとに増え、花見に興じる民が増える頃だ。丹塗りの回廊や、透かし窓の意匠、欄干の藍色でさえ、春の光で軟らかく見える。華美を好んだ数代前の皇帝が、幻影宮を建てたという。

春めく空気に、回廊を行きかう官達の足取りも軽い。徐々にではあるが、復興も進んでいる。愁国を取り巻く空気は明るいといえた。

幻影宮の正殿、大広間には多くの官が集まっていた。

現在、朝議がとり行われ、壇上の御簾に向かい長官達が奏上している。

御簾の隣には、二人の高官が控えている。本来ならば御簾は上げられ、皇帝が姿を見せる場面である。だが、御簾は下げられたままだ。皇族が姿を見せる様子もない。官吏は気にも留めていない。

朝議は皇帝が不在のまま進む。

愁国にとって、それが自然となりつつあった。


 朝議が終わり、一人の文官が正殿へと続く回廊を歩いていた。奏上をまとめた書簡を多く抱え、器用に官吏を避けている。

官吏が少なくなってきたのを見計らい、文官は書簡を広げる。長官の報告を頭に入れながら、対策を考え始める。

国は皇帝の圧政で荒れ、問題は多い。対処すべき議題を裁くだけでも、多くの時間がかかってしまう。民のためにも急がなければ。

(りん)(しゅん)

 聞きなれた声が耳に入ってくる。浮かびかけていた案がとび、書簡から目を離す。立ち止まり振り返ると、地味な青年の姿があった。笑顔で駆けてくる官服の青年に、緊張感はない。

太陽を連想させる笑顔と人当りのいい性格から、慕われている。少々口が過ぎてしまう部分が、難点である。

とりあえず、火急の要件ではなさそうだ。書簡に目を戻し、対策を考える。追いついた青年が不満そうに言った。

「無視するなよ、少し時間あるだろ」

「どうせろくなことじゃないだろうから、後で頼む」

鈴俊はそっけなく答えるが、相手は気にしていない。青年は鈴俊の抱える書簡の量に驚き、声を上げる。

「相変らず、仕事量多すぎだろ。半分持つから貸せ」

 わざと多めに書簡を渡してやる。書簡の重さに青年が悲鳴を上げる。

 それを無視して、再び歩き始める鈴俊に、青年は慌ててついてゆく。

仕事熱心な同僚に苦笑しつつも、話を続ける。

「そう言えば、あさってから鳴陽祭だよな」

(そう)(れん)に治安維持の兵力を割かないと」

 書簡を丸めて持ち、もうひとつほどきながら答える。

「いや、確かにそうだけど。もっと他に答えようがあるだろう」

 下官が拱手して、壁側により道を開ける。それに青年が笑顔で答える。挨拶代わりに手を上げた拍子に、書簡が落ちた。拱手を解いた女官が拾い上げるが、誰に渡そうか迷っている。戸惑っている女官に鈴俊が声をかける。礼を言い、笑みを返す。女官は一瞬呆けていたが、床に平伏する。女官たちが声を潜め、黄色い声を上げた。

「さすが、怜悧と名高い鈴俊様だな」

女官たちの間で噂だぞ? と揶揄してくる。それに比べて俺はと、少し落ち込んだ様子の青年。鈴俊は下らないと即座に切って捨てた。こうして話すうちに、武官の訓練場に近づく。模擬戦をやっているようで、熱のこもった歓声が聞こえてくる。波璃越しに、打ち合う武官たちが見える。青年の姿を見た武官たちが、一斉に拱手をする。それに気づき、彼は笑みを向け、相手に礼を返す。無言のやり取りを交わして、武官たちは訓練に戻っていった。

青年はため息を吐き、話題を変えた。

「鳴陽祭での華姫、誰と踊るか決まったか? 」

鈴俊は首を傾げる。華姫の事を知らずにいたが、青年は一人納得する。

「ああ、そう言えばお前。地方出身だったよな。知らなくてもしょうがないか」

「……暇なら、訓練につきあってきたらどうだ? (ふう)将軍」

 鈴俊は書簡に目を通しながら、そっけなく言う。そのまま早足で去ろうとする同僚の肩を、青年が掴む。武官だけあって力が強い。肩がギシギシと悲鳴を上げる。逃がしてくれそうにない。鈴俊は仕方なく、立ち止まる。

「いいか、良く聞け。鳴陽祭は俺たちにとっちゃ、大きなチャンスだ」

 拳を握って息巻く同僚に、押されて一歩後ずさる。鈴俊は嫌な予感を感じつつも、続きを聞く。

「華姫ってのは、祭り中に一緒にまわる相手だ。鳴陽祭は、春の五穀豊穣と家内安全を祈る祭りだ。二人の男女が祭り中、花を贈りあえば永久に結ばれるとされている」

 言葉を切り、青年はこちらを窺っている。渋々、続きを促すと、彼は機嫌よく嬉しそうな声で話す。

「要するに、鳴陽祭中は休日だし、女の子誘いに行こうってことだ。ついでに、お前といれば女が寄ってくるし、お前は華姫探せる。一石二鳥だ。だから、一緒に祭り行こうぜ」

 うんざりとした表情で鈴俊が断る。青年は驚いた様子だったが、すぐに食いつく。気に入らなかったのか、距離を詰めてくる。

「ウソだろ。おいおい、英雄様不在で、俺みたいな冴えない将軍が出るわけ。そりゃ、蒼蓮の市民に石投げられるっての。頼む」

 手を合わせて頼みこむが、彼は無視して書簡を読み始める。青年はしつこく食い下がるものの、

「そろそろ仕事の時間だ。兵士の訓練、見にいかなくていいのか? 」

 鈴俊の一言に、そのまま凍りついた。

返事が返ってこないことに、気が付く。振り向くと、立ち尽くす青年の姿があった。愛想笑いを浮かべ、回廊の一点を見つめたまま微動だにしない。

(ふう)(れん)

 青年のただならぬ様子に、名を呼ぶ。

顔の前で手をふって見るが、気づいてはいない。

「風将軍、こんな所におられたのですね」

 押し殺した地を這う声が聞こえ、青年は笑みを引きつらせる。振り返ると、正殿へ続く回廊で黒髪の女性が立っていた。刃を潰した槍を手にしている。ここで何をしているのかと、問いたげな雰囲気だ。武官らしく、女性にしては背が高い。こめかみ上の髪を両脇で編み込み、後ろで結んでいる。後ろ髪は流されたままで、快活な印象を与えている。確か、女性の間で流行っている髪型だったはずだ。

情けなく、風蓮は逃げ腰になっている。毎朝繰り広げられる逃走劇に、彼女の機嫌は悪い方向へと傾いている。容疑者となった友人を差しだすことにした。触らぬ神に何とやら。面倒事はごめんだ。

「風蓮、後はいいから。(せい)(しゅう)と仕事に行って来い」

 絶望した表情の相手から、書簡を取り返す。幻影宮で一番怒らせてはいけない人物に、将軍をお返しする。友人が顔面蒼白になっていたが、自業自得だ。軍師に腕を掴まれ、連行されかけている。

「ご協力感謝します。総府長殿」

気品すら感じられる、晴れ晴れとした笑みで、軍師は上官を引っ張って行った。すれ違う官吏が二人をみて、ぎょっとしている。周囲の視線を集めながら、彼らは軍府へと消えていった。

始業を告げる鐘が鳴り響き、鈴俊は正殿へと急ぐ。官吏たちも回廊から、官府へと入っていった。




総府の執務室では、鈴俊が書類を片づけていた。終業の鐘が鳴り響いても、彼は筆を走らせている。夕闇の迫る執務室には、筆の音だけが響いていた。

角灯に火を入れ、机に置く。書きかけの草案にとりかかることにした。しばらく内容を吟味し、筆を置く。下官から上がった書類を決裁し、印を押す。気が付くと、机を埋めていた書類は全て片付いていた。日はとっくに沈み、半月が高く昇っている。

静寂に包まれた執務室には、かすかに皇子の残り香が漂っていた。

読書家であった皇子の本は、栞が挟まったまま、埃を被っている。面白いからと下賜されたそれは、返す機会を永遠に失った。皇子は剣の稽古から逃げ出しては、いつもこちらに顔を出していた。

かつては、よくこの件で皇子を咎めた。それでも何度も、彼は執務室に来ていた。彼の控えめな笑みが浮かんでは消えた。

争いを嫌い、日ごろから帝位を妹に譲ると公言していた少年。人の前に立つ事を好んだ皇女と、書と戯れることを選んだ皇子。皇女の陰に隠れがちであったが、強い信念を持つ人物だった。

皇女を太陽と例えるならば、皇子は月だろう。

表面は物静かで温和そうだが、内面は芯が強く、妥協を許さない。皇子は、暁国の遠征中に立ち寄った華州の街で、内乱に巻き込まれた。彼は民を守ろうと奔走したものの、力尽きてしまう。救出に向かった時には、全てが終わっていた。若すぎる死に、嘆いていた民の姿が目に浮かぶ。


種類別に書類を分けてから、背伸びする。片付けて、二山に分ける。

官吏たちはとっくに帰り支度を終え、蒼蓮に下りている時間だ。

そろそろ、宿直担当の官も様子を見に来るころだろう。先日も注意されたことを思い出し、苦笑する。早めに帰らなければ、また、笑顔で凄まれることになる。それだけは避けたい。

扉が叩かれ、部下の声がする。入室を許可すると、部下が走ってやってきた。拱手の礼をとり、蒼白な顔をしている相手に話を聞く。

「何があった? 」

 問うも、相手は口元を押さえたまま無言だ。いつもなら、すぐに報告してくる。焦るような雰囲気を感じ、助け船を出すことにした。

「反乱でも起こったか? 」

 ようやく我に返ったのか、部下は短く謝罪してから報告を始める。

奴隷商人を白藍州の門で摘発したとのことだった。

最近、民が奴隷に落とされる、人身売買が増えている。多くの住民が犠牲になり、水際で防げたのは今回が初めてだ。

商人を捕らえる時に、犠牲者が出てしまったらしい。調査官として経験の浅い彼にとっては、刺激の強いものであったに違いない。

部下に労いの言葉をかけて退出させる。申し訳なさそうに、部下は去って行った。


白藍州は蒼蓮の近くに位置する。今回は商人を摘発できたが、これは発生件数の一部に過ぎない。人身売買に犯罪組織が絡んでいることも考えられる。首都でも、先月、大規模な人身売買が確認された。組織だった犯行であるため、早めに手を打たなければ被害者は増える一方だ。

必ず、犯罪組織の拠点となっている州があるはずだ。

しかし、先帝時代から州を治める州官の権利は大きくなっている。下手に手を出せば、こちらが罷免されかねない。州官が一枚かんでいる事はまちがいないのだが。皇帝の圧政を経たせいで、州官は頑なに自分の州を守ろうとしている。密偵を送り込もうにも、どの州も入りこめる隙がない。さて、一体どうするべきか。

鈴俊は真剣な目で、官が持ってきた報告書を確認する。しばらく読みふけっていたものの、ある文に目が止まる。

「梨英州? 」

 書類から目を離し、調べてみるかとつぶやく。

また、扉が叩かれた。鈴俊は相手に気付かれぬように、息を吐く。高く昇っていた月を仰いでから、ゆっくりと彼は振り返る。

「入れ」

扉が開き、ヘラリとした緊張感の薄い笑顔が目に入る。風蓮だった。

武官として務めてから長いが、どうもそうは見えない。官服を身につけていても、官吏特有の凛々しさがない。友人として、いいやつであることは認めよう。しかし、もう少し将軍としての自覚や姿勢を示してほしい。

「お疲れ様。鈴俊」

 風蓮が声をかけてくる。よく見ると、右ほほに土が付いている。朝の件で、軍師に随分と絞られたようだ。ついでに、手合わせで軍師に手ひどくやられたか。投げ飛ばされる将軍の姿が容易に浮かぶ。

「お疲れ様。後、顔ぐらい洗ってこい」

 右ほほをさし示し、教えてやる。慌てた様子で、風蓮は顔をこすっている。身支度を整えてから、風蓮は笑みを深めた。

「よしっと。どうだ、かっこよくなったか? 」

「どうでもいい」

 書類を整理しながら、得意げな表情の友人につげる。

「どうでもいいって」

 肩を落として嘆くも、鈴俊は慣れたもので無視している。風蓮はこちらに背を向け、下を向いている。本気で落ち込み始めた友人を憐れんで、鈴俊が口を開く。

「夕飯、奢ってやるから。食堂行くぞ」

「本当か? 」

 顔を上げ、目を輝かせる風蓮。すぐに機嫌をなおし、満面の笑みでこちらを向く。変わり身の早さに呆れつつも、頷く。

蒼蓮近辺の地図を手に持つ。これ以上、一人で考えても仕方ない。風蓮に事件のことを相談することにしよう。せかしてくる相手をなだめつつ、鈴俊は扉を開けた。


世間話をしながら回廊を歩く。角灯を片手に、風蓮とたわいもない話をする。人気はなく、宮中は静寂に沈んでいる。しばらく歩いていると、食堂が見えてきた。

予想した通り、風蓮は朝から軍師と手合わせをすることになったらしい。本気を出そうにも相手が素早く、1本とられたとか。悔しがる友人に笑みを返し、食堂に入る。遅い時間のせいか、客は自分たち以外いない。顔見知りの下官が、人好きのする笑みで近づいてくる。入口近くに席をとり、注文する。下官は明るい声で返事を返すと、厨房に入って行った。思ったよりも、早く拉(ラ―)(メン)が届く。割り箸をとって、手を合わせる。既に風蓮は拉(ラ―)(メン)に手を付けていた。

風蓮がため息をはき、思わせぶりな態度をとる。朝の一件で、将軍としての矜持を破壊されたせいか、いまいち元気がない。面倒なことになりそうだったので放置しておいたが、相手はこちらを気にせず、口火を切る。

「最近、俺の妹どんどん綺麗になっててさ。近いうちに、嫁に行きそうで怖いんだよな」

 ズルズルと麺をすすり、風蓮がのたまわった。思いもしなかった方向の発言に、鈴俊の箸が止まる。一瞬固まった後、頭を整理し直す。慰めの言葉を頭の奥に押しやり、続きを促す。

友人の妹好きは重傷だ。面倒だがここで相槌をうっておくのが、得策だろう。

「妹が? 」

「ああ! 俺が言うのもなんだけど、すっげー美人。今、一四才なんだけど、これまた可愛いんだぜ? 」

 満面の笑みで、相手は力説する。風蓮とは似ても似つかない、控えめでしっかりとした妹だ。以前、弁当を届けに幻影宮に来ていた。何度か、手料理をごちそうになったこともある。

風蓮は幼い頃に両親を亡くしており、妹と二人暮らしである。

「昨日なんて、俺、帰り遅かったのに。夕食つくって待っててくれてんの。もうね、このために俺生きてるわって思ったね」

「いい子だな。(せつ)(らん)ちゃん」

 今時、珍しいぐらいのいい子だ。きっと、良いお嫁さんになる。

「だろ? しかも、兄様のお口に合えばいいんですけどってさ。雪嵐

がそう言ってて、思わず抱きしめたよ」

「それ、ナシだ」

 風蓮のおおげさな愛情表現に付きあわされる、妹が可哀想だ。

「俺の家じゃ、普通だから。大丈夫だ」

 真剣に親指を立て、いいきる風蓮。一気に馬鹿らしくなり、食事に戻ることにした。拉(ラ―)(メン)が伸びる。鈴俊は麺をすすり、食べる速度を上げる。

「そういえば、鈴俊のとこ、官学に通ってる弟がいたよな」

 官吏を目指して、弟は蒼蓮の大学付属官学に通っている。

官学――官吏育成学校の略だ。官吏の基礎知識を学び、大学を出て資格を得る。大きな州ならば、必ず一校はある。

「ああ、それが? 」

「いや、雪嵐も学校同じだし。鈴俊の弟と仲いいみたいだから」

風蓮は、苦虫をかみつぶした顔をしている。ニヤリと笑みが浮かぶのが、分かった。

「もしかして、氷夜が最近付き合いだした彼女って」

 鈴俊の言葉は、風蓮の大声でかきけされた。

「あーあ、止めろ! 聞きたくない。俺の雪嵐が汚れる! 」

「安心しろ、(ひょう)()はそこらへん、しっかりしてるから」

この世の終わりが来たような顔をしている風蓮。うつむき、無言で食事に戻る。少々、やりすぎたかもしれない。沈黙が続く。数分のことだと思うが、それ以上に長く感じられた。拉麺を食べ終わってしまい、割り箸を置く。続いて、友人も食べ終わる。

風蓮が真剣な目でこちらを見てくる。

「なあ、お前の弟ってどこ住んでるんだ? 兄として話を付けてくる」

 風蓮の目が据わっている、よほど嫌なようだ。訓練場で、新兵をしごいている時の目だ。氷夜の安全のためにも風蓮を止める。

「雪嵐ちゃんに兄様、嫌いって言われたいのか」

「嫌だな。でも、雪嵐がいなくなるのはもっと嫌だし」

渋い顔をする相手に、付き合いきれず話題を変える。


書類を見せ、官吏の報告について軽く説明する。

補足を交えつつ、事件について話す。風蓮の知恵を借りたいと思ったからだ。時折、相づちを打ちながら彼は話を聞く。

「氷山の一角というところだろうな」

考え込んだ風蓮の言葉に、鈴俊が頷く。

「ああ、どうやら捕まったのは組織の末端らしい。取り調べで、鳴陽祭近くになると大きな闇取引が行われていることは分かったが」

それ以外は分からないと、ため息を吐く。風蓮も真剣な表情になる。

「鳴陽祭の警備で手がまわらない時を狙ったのか」

 やっかいだなと思わずつぶやく。蒼蓮で行われているとすれば、官吏が手引きしているんだろうと、鈴俊は風蓮に予想を話す。

「俺なりに調べてみるよ」

対策を考えていると、風蓮が協力を申し出た。いつもの笑顔で、さり気なく気を使ってくる。友人の優しさに、何とかなりそうな気がしてきた。二人で、首都内で闇取引が行われそうな場所を予想する。――人通りが少なく、官吏の目も届きにくい所。

地図を広げて、二人で覗きこむ。

腕を組んでいた風蓮が、声をかける。右手で軽く、地図に触れる。

「絞りこむとしたら、ここだな」

 言いながら、蒼蓮のはずれを差し示す。人さし指は、蒼蓮郊外の住宅地を通り過ぎる。そのまま、秋街(しゅうがい)の上で止まった。

「秋街か」

 正直、盲点だった。秋街は蒼蓮の中でも、とくに法律が厳しい。自治地区であり、中央の官吏であっても手が出しづらい。他国との取引が多い街で、一年中人の出入りが激しい所だ。帝の圧政下において、唯一、治安を維持していた都市でもある。無意識のうちに、選択肢として捨てていた場所だった。

 確認するために風蓮を見れば、相手は腕を組んで言葉を続ける。

「最近、秋街でみょうなことが起こっていてな」

「犯罪を州官が隠しているのか? 」

「それだけじゃない。官吏自体が腐敗しきってる」

 俺の部下が久しぶりに里帰りしたら、酷い目にあったらしい。

それで秋街の状況が分かったと、彼は苦々しく告げた。

「情報ありがとう、助かった」

鈴俊は頭を下げてから、風蓮に笑みを返す。対策を頭の中で考えつつ、友人をねぎらう。

酒を飲んでご機嫌な風蓮と別れて、帰路を急ぐことにした。




次の日、始業の時刻を過ぎても風蓮の姿はなかった。朝議を欠席して、昼に執務室に顔を出すことはよくあった。だが、昼休憩になっても笑顔の青年は現れなかった。根は真面目な友人だ。体調不良かとも思ったが、軍府に届け出が出ていない。妹が来ていることもなかったらしい。本当に珍しい。嫌な予感がする。

軍府の武官たちも、どことなく元気がない。逆に心当たりはないかと、焦ったように質問された。苦い焦燥感に駆られるが、首を振るしか出来なかった。落胆した彼らの姿が胸に痛かった。

部下たちに慕われる将軍は、宮中にいない。

軍師である青秀も、今までにない事態に混乱しているようだった。飄々(ひょうひょう)とした中にも、強く不安の色をのぞかせている。

それでも、仕事に穴をあけるわけにはいかず、執務に戻る。

落ち着かない気持ちで、早めに仕事を終えた。事件に関して調べていると、密偵が犯罪組織の本拠地を探り当てたと報告が入った。

やはり蒼蓮のはずれ、秋街にあるらしい。今回は、私がおとりを引き受けることにする。

それを告げると、部下の顔色が変わった。部下たちは、なかなか首を振らない。それでも何度も言い聞かせ、説得する。

結局、納得してはくれたが、護衛をつけろと言われてしまった。

そのせいで、護衛を探さなくてはいけなくなった。あてはない。軍府に問い合わせて、誰かよこしてもらうのが一番かもしれない。



窓を見ると、日はまだ落ちてはいなかった。慌ただしく帰り支度をし、風蓮の家を訪ねることにした。

正殿の回廊を抜け、終業時間を過ぎたばかりで混んでいる階段を駆け降りる。官吏として、あまり褒められた行動ではない。すれ違う官吏が驚いているが、気にかけている暇はない。

城門を目指していると、軍師が声をかけてきた。立ち止まり振り返ると、相手は無言で腕を掴む。そのまま、反対方向の軍府へと歩く。

「青秀。悪いけど、後にしてくれないか。今から、風蓮の所行くつもりだから」

軍師は振り返って、早口で答える。その顔は、反論を許さない頑ななものだった。謀反を計画した時と同じ顔をしている。

「風将軍は軍府にいますよ。詳しい事情は後で説明しますから、付いてきてください」

 鈴俊はその言葉に頷いた。

軍府につくと、青秀は道案内をかってでた。終業の時間を過ぎており、帰宅途中の官吏が多い。気迫の入った掛け声も聞こえてくる。

階段を上り、回廊を抜けてある一室に通される。

扉の横にある長椅子に、友人の姿はあった。疲れたような表情でため息を漏らしている。傍らに妹の姿はない。

風蓮は鈴俊に気が付くと、疲労を滲ませた笑みを浮かべた。

「鈴俊か。悪かったな、よびだしたりして」

 痛々しさを感じさせるそれに、焦燥を感じる。やはり何かあったのだろうか。風蓮は重いため息を吐き、青秀に声をかける。

軍師は小さく頭を下げ、説明をひきつぐ。説明が進むごとに、風蓮の表情が歪む。しだいに笑みが消え、友人の瞳に鋭い光が宿る。

ついに膝の上で拳を握り、うつむいてしまった。


「雪嵐ちゃんが事件に巻き込まれたのか」

 恐れていた事態が起こってしまい、犯人に怒りを覚える。

うつむいている友人に声をかける。軍師が咎めるような視線を向けるが、あえて無視する。込み上げてくる熱いものを無理やり、消す。

「なあ、風蓮。私と一緒に来てくれないか? 」

「……雪嵐を助けたいんだ。それどころじゃない」

 友人は間を開け、小さく吐き捨てる。苛立ったせいで、早口だった。

「雪嵐ちゃんを助けにいくんだ。囮役として、犯罪組織の取り締まりに協力してほしい」

 風蓮は弾かれたように、鈴俊の顔を見上げる。きょとんとした驚いた表情はすぐに、怪訝そうな表情に変わる。真意を探るように見上げてくる相手に、言葉を続ける。

「昼過ぎに、蒼蓮の秋街で動きがあった。見慣れない馬車が、廃墟に入っていったってな。確証はないが、雪嵐ちゃんも中にいるかもしれない」

「廃墟? 」

「昨日、お前が怪しいって言ってた、州官の屋敷だ」

 手短に作戦を説明し、風蓮に協力してもらう。細かいところまで話し合って、ある程度見切りをつける。

 すると、軍師が話に加わった。

「愁軍を北に配置した方がいいですよね? この状況だと」

 風蓮は考え込み、頷く。

「俺は現場で鈴俊と注意をひきつける。指揮は青秀に任せる」

 青秀は膝をつき、拱手の礼をとることで応える。それを確認し、鈴俊は軍師を立たせる。

「作戦開始は、鳴陽祭だ」

 三人で顔を見合わせ、頷く。こうして、作戦は動き始めた。

同時刻、暁国国境沿いの街、梨英では祭りがおこなわれていた。十六年前の暁愁戦争で暁国は愁国から、梨英を奪いとっていた。

今では、梨英は暁国外交の大きな窓口となっている。

毎年、五穀豊穣を願い、暁祭は行われる。

民はこの日を祝うために、軒先に紅い旗を上げる。神話によれば暁の民は、太陽神の祝福を受けたという。

紅い髪や瞳をもつ彼らは、太陽神を強く信仰している。太陽神への感謝をこめて、この祭りは行われるのだ。

中心街の広場は、人であふれかえっていた。道行く人の表情は明るく、祭りは盛り上がっている。街は常以上ににぎわいを見せていた。

客引きをする売り子の声が辺りへ響き、商人や占い師が露店を構える。広場で赤や橙などの布をひるがえしながら、踊り子が舞う。太陽神が好んだとされる色をまとい、踊り子は笑みを零す。異国の踊りに目を止め、見物客は周りに集まっていた。演技が終わると同時に、歓声が上がる。地面に花が投げられ、木箱に金貨が集まる。

その横で演劇をやっている一座や、見世物師たちも声を張り上げている。闘鶏に興じ、歓声を上げる市民も目立つ。普段は見た目を楽しむために飼われているが、祭りでは鶏を戦わせる闘鶏が見られる。

祭りの期間だけは闘鶏が解禁され、賭博が絡む熱戦となるのだ。勝ち負けをめぐり、流血沙汰になることも多い。


広場にある噴水の縁に、二人の少年が腰かけていた。闘鶏を見ながら、氷菓子を食べている。頭に布を巻き、髪をまとめていた少年が相手に声をかける。表情に乏しいながらも、目が輝いている。

「初めてみたけど、暁祭ってすごいな。()(えん)はどう思う? 」

 感嘆した様子で、氷菓子を口に入れる。けずった氷に蜂蜜がかけてあり、てっぺんに花を模した飴細工がのっている。安価でありながらも、なかなか手がこんでいる。

 楽しそうに闘鶏に見入る相手に、仏頂面のもう一人の少年が答える。

「そんな面白いもんでもないけど。じいちゃんと、はぐれてるのに何でそんなに冷静なんだよ? 残月(ざんげつ)さんは」

 呆れたように言い、キョロキョロと辺りを見回す。

「走りまわったって、行き違いになるだけだ。どうせなら、楽しんだ方がいい」

氷菓子をつつきながら、焦っている梨燕をなだめる。表情に目立った変化は無いが、やや面倒くさそうな様子だ。氷菓子を口に入れつつ、横目で梨燕を見ている。それには答えず、梨燕は頑なに口を閉じている。梨燕はもう一度、何かを言おうとした相手を睨み、大通りに目を向ける。目当ての人を見つけ、黒目がちな目を大きくして、梨燕はある一点を見つめた。

氷菓子の容器をおき、立ち上がる。

人ごみをかきわけてやってくる老人に、大声で呼びかけた。

「じいちゃん、ごめん」

 祖父を見つけ、梨燕は頭を下げる。だが、老人に伝えるはずだった言葉は声にならなかった。祖父の厳しい表情が目に入ったからだ。竹さじをくわえたまま、髪を布でまとめた少年が目を見開く。彼は心底嫌そうに、容器を地面に置いた。目を伏せてから、ため息を吐く。

()(えん)、あきらめろ」

 呼ばれた少年は勢いよく振り返り、目つきを鋭くする。

「お前のせいだろうが」

 怒りを向けてくる梨燕に、残月は肩をすくめる。その後、祖父の怒鳴り声が広場に響きわたった。


「久しぶりにじいちゃんの拳、くらった」

 頭を押さえながら、残月が言う。無表情ながらもどこか、懐かしそうに目を細める。痛みにうめき、未だに頭を押さえている梨燕。彼は痛みをこらえ、どこかずれた感想をいう相手をにらむ。

「巻き込まれるほうにもなれ、アホ」

 その言葉も自由奔放な相手には、通じていない。

「今度からは気を付ける」

頷く残月に全く反省の色はない。

梨燕は額を押さえて、重いため息を吐く。残月はどこ吹く風で、出店に目を奪われていた。

祖父は二人のやり取りに、クスリと笑む。仕方ないないのうとつぶやきながら、二人の注意をひく。

「すまないが、わしは先に帰るぞ。私塾での講義が残っているからな」

二人のそろった返事がかえってくる。祖父は遅くなったら宿に泊まるよう言い含めて、帰って行った。


和やかな空気を打ち消したのは、娘の悲鳴であった。

一拍置いて、娘が人を押しのけて、走ってくる。ぶつかられた男や女が怒りの声を上げるも気にしていない。落ち着きなく、周囲に目をやっている。その横を商人の一団が通りかかる。人ごみに紛れた娘には気付かず、足音荒く走り去って行った。

いつもならば、気にも留めない光景だった。商人が商品を追いかけているだけ。同情を覚えても、すぐに忘れてしまう些細なこと。


しかし、残月は少女の髪を見て、目を見開く。娘を見つめていた彼は、少女の持つ色に驚いていた。鳶色の髪と、藍の目。それは、愁国の民がもつ色彩だった。以前、残月がよく見ていた色であった。

梨燕は、立ち止まった残月に首を傾げた。不審に思い、相手の視線をたどる。その先に、奴隷らしい少女が目に入る。商人をやり過ごし、緊張した面持ちで立ち尽くしている。

表情に乏しい友人が、珍しく困惑した表情で少女を見つめていた。彼が持っていた色彩と少女の色が同じであったことを思い出し、残月の肩を叩く。

「あの子、困っているみたいだし。声掛けてみようぜ」

 友人は訳ありのようで、あまり過去を話さない。里の前で行き倒れていたのを、祖父が拾ってきた。冬場だったので、放っておけなかったのだろう。普段から、仁道とうるさい祖父のことだ。塾生の前で、もっともらしいことを言いながら、拾ってきたに違いない。

最初はすぐに放り出そうかとも思っていたが、あまりの世間知らずで不安になった。

話を聞けば、路銀が尽きて、馬鹿正直に野宿をしていた。呆れた。よく凍死しなかったものだ。一応、近隣に親や兄弟がいないか探してみた。

結果は思った通り、該当者はなし。残月は身寄りがないらしかった。

祖父に知らせると、何やら難しい顔をしながら考え込んでいた。表情筋が全く仕事をしていない友人は、その時も無表情だった。

ただ、下を向いて黙りこくっていた。梨燕は何も言えなかった。

翌朝、二人して、祖父の私塾に呼び出された。祖父はもっともらしいことを言いながら、残月と梨燕を正座させた。何をいわれるのかと、心当りを探していると祖父が口を開いた。

「残月を引き取る」

 それから、仁道がどうだとか、祖父お得意の話を聞かされて終わっ

た。残月が釈然としない顔をしていたのが、おかしくてしょうがなかった。何があったのかはよく知らないが、残月が愁国出身である事だけは分かる。梨燕も元々、愁国出身だったが、帝の圧政から逃れて暁国に来たらしい。とはいえ、彼に愁国の記憶はあまりない。友人兼家族が困っているなら、助けてやるのが義兄の務めだ。一歳下の義弟に手を振り、少女に近づく。

「お嬢さん、今日、泊まるところあるの? 」

 その声に、ビクンと肩が跳ねる。見た目で推測するなら、年は十代半ばごろか。整った顔立ちで、白磁の肌がひどく印象的な娘だ。その顔はまだ、子供特有の幼い柔らかさを残しているが、同時に優美さを兼ね備えている。町を歩けば確実に視線を引くだろう、美しさを放っている。可憐という言葉が似合う娘だった。

少女は警戒した様子で、素早く距離をとる。愛らしい顔立ちに緊張の色を強くのせ、こちらをうかがう。伸ばした手は空を切った。念のため、もう一度、声をかけるものの、怪訝そうな顔をするだけだった。

「とにかく、怪我が無くてよかったよ。もしよかったら俺と――」

 言いながら近づくと、さり気なく距離をとられる。話し続けようとしたが、あまりの鋭い視線に言葉を止めてしまう。

少女は藍の瞳を細め、沈黙を保っている。

冬の空を思わせる瞳には、拒絶の色が色濃く表れていた。幼さの残る儚げな顔に似合わない、鋭い雰囲気をただよわせている。

――どうしよう。やってしまった。仕方ないので、残月に助けを求める。残月は早足で近づいてきて、梨燕に小声で言った。

「もう少し考えろ、梨燕」

あんな声のかけ方をされれば、俺だって警戒すると続ける。

淡々とした口調で、容赦なく痛い所をついてくる。どこまでも無表情なくせに、馬鹿にした声だ。梨燕に止めを刺したのは、この言葉だった。

「軽い奴だと思われたかもな」

 深く考えずに言った言葉をもう一度、考え直す。親切心で言ったつもりが、考えるうちに反感をかってもしょうがないものだと気づく。梨燕は決まりの悪そうな顔をし、頭をかいた。残月の視線から逃れるように、わざとらしく露店の方に目をやる。が、冷やかな視線を送ってくる少女と目が合い、いたたまれずに目を伏せる。体を硬くし、肩を落とす梨燕に、残月は唇をつり上げる。笑いをかみころす相手に梨燕は叫ぶ。

「代わりに、お前が声掛けてみろよ」

 梨燕が言いながら、残月の肩を強く押す。

苛立ち交じりの荒い口調にも、相手は気にしていない。それどころか、笑いながら、梨燕をあしらっている。

「そんなに怒るな」

 布を外して髪をさらし、あちこちはねた短髪を整える。疑問に思っていると、警戒されないようにだと、説明してきた。

「たまには、残月もましなこと考えつくんだな」

 感じたまま言葉を投げれば、残月がボソリと呟く。

「お前が付けてる日記、塾生の前で晒すぞ」

 笑みが消え、普段の無表情に戻る。低い声で梨燕を脅す。目が本気だ。慌てる相手を無視して、残月は少女の元へと歩み寄っていった。


残月は逃げようとしている少女に、改めて声をかける。

「さっきは、俺の連れがごめんね」

 優しげな笑みを浮かべて、近づく。少女は残月の顔を見た途端、固まってしまった。唖然として、まじまじと相手の顔を見つめている。少女はしばらく呆けていたが、慌てた表情で残月に向き直る。

「……えっと、気にしないでください」

 困惑した表情で、視線を左右に揺らす。残月を一瞥し、首を何度もひねっている。残月は少女の様子に驚いていたが、平静を装って続ける。普段では考えられないほど、愛想がいい。

「もしかして、どっかで会ったことあった? 」

 少女は首をかしげつつも、しっかりした口調で答える。

「たぶん、無かったと思います。あなたが知り合いに似ていて」

 残月はうまく少女から事情をききだし、梨燕と同じ問いをぶつける。案の定、彼女は行くところがなく困っているようだった。少女は少し思案して、言葉を続ける。後に続いた言葉にさすがの残月も、呆れかえっていた。

「まあ、何とかなりますよ。野宿には慣れていますし」

 梨燕はその言葉に、眉を上げる。どう見ても相手は年下だ。しかも追われていたような節もある。このまま、放ってはおけない。

「野宿とか馬鹿だろ。梨英はそんな治安良くないから、死ぬぞ」

 脅しつけるように言い、少女に詰め寄ろうとするが、残月に止められる。怯えた目で、こちらをうかがう少女の姿に毒気を抜かれた。日中は、衛士たちの目があるのでまだいい。しかし、夜は目が届かなくなるので治安は一気に悪くなる。何だかんだでお人よしな梨燕は、少女に梨英の怖さを丁寧に教えた。

「でも」

 残月は強情な少女にため息を漏らして、声をかける。面倒くさくなったのか、そのまま右手をつかむ。少女はきょとんとしている。

「いいから。雪嵐ちゃん。とにかく行こう」

強引に雪嵐の手を引いて、宿へと急ぐ。こうして、雪嵐は抵抗もむなしく、梨燕たちの宿に泊まることになった。

台帳を片手に客寄せをしていた主人は申し訳なさそうに、頭を下げた。

「本当に部屋一つしかあいてないんですか? 」

 残月が後ろの少女を確認して、問いかけるものの、宿屋の主人は頭を深々と下げるだけだ。雪嵐が申し訳なさそうに小さくなっている。その頭を優しく撫でてから、残月は梨燕を見る。人ごみではぐれたあげく、柄の悪い連中に絡まれていた張本人は、不可抗力だと声を上げる。

「この間は川に落ちたし、その前は人買いにさらわれかけた」

 表情は全く変わらないまま、声だけが鋭さを増してゆく。淡々と梨燕が巻き込まれた事を上げていく残月。

不穏な空気を感じ取り、梨燕は現実逃避をするため空を仰いだ。本人に悪気はないのだが、梨燕は厄介事を呼びこんでいる。両手の数では足りないほど巻き込まれ、今回も面倒事に巻き込まれることになった残月の機嫌はすこぶる、悪い。

「これで何回目だと思ってるんだ、梨燕」

 紙でも切れそうな声で問われ、梨燕は深くため息を吐いた。見兼ねた雪嵐が残月の袖を引く。

「あの、梨燕さんは悪くないです。えっと、許してあげてください」

 年下に請われ、許さない訳にもいかず、残月は相手を睨むに止めた。


「先に入りましたから」

 濡れて重くなった髪をまとめ、少女が部屋を覗く。湯殿に向かうことを告げていたのを思い出して、残月は頷く。疲れたのか、うつらうつらしていた梨燕を起こす。臥牀(がしょう)に腰かけていた梨燕は、慌てて長椅子に移動する。残月もそれにならい、長椅子に腰かける。梨燕が悪戯っぽい笑みを浮かべて、残月を見る。

「雪嵐ちゃんに手出すなよ、残月」

 意趣返しのつもりらしい。やつあたりされたことをまだ根に持っている彼は、ここぞとばかりにやり返すつもりだ。

「今すぐ帰れ」

 が、何ならほうりだしてやろうかと、凄まれて梨燕は目をそらした。どう頑張っても残月にかなわない梨燕は、すぐに降参した。雪嵐はというと、やり取りを見てクスクスと笑っている。愛らしい少女の笑みに二人は頬を緩めた。

残月が荷物整理を始めた時、何かが落ちる音がした。彼はしまったとでも言いたげな表情になり、慌てて床に視線をはわせる。本を読んでいた梨燕も手を止め、相方に視線を向ける。

角灯を床に置き、長椅子の下や机の影を見てみるも目当ての物はない。しばらく探してみるも、見つからない。梨燕が手を貸そうと立ち上がると同時に、雪嵐が何かを拾い上げた。

「残月さん、これですか? 」

 それは古びた短刀だった。鞘には龍の紋章がほられている。雪嵐は紋章にひっかかるようなものを感じ、見直そうとしたが、残月によって奪われてしまう。

「ありがとう。それであってる」

 素早く布で包み、隠してしまう。梨燕が不審そうに残月を見つめていたが、彼は素知らぬ顔で荷物整理に戻る。そうして夜は更けていった。



家に帰りつくと、梨燕はすぐに祖父に事情を話した。

「昨日、塾生から聞いた時はまさかと思ったが……梨燕、残月」

拳を作りながら、祖父は孫二人を問いただす。所謂、仁王立ちの恰好で祖父が見下ろしてきた。かなり視線が怖い。手負いの虎と、過去に称された実力は本物だ。怒気を滲ませながら、ゆっくりと近づいてくる。

人として間違ったことはしていないはずだ。雪嵐を守るためにはどうしても、不可抗力だったのだ。間が悪かったのである。偶然、祭りで宿の部屋が一室しか開いていなかった。だから、仕方なかったのである。

祖父の目と雰囲気が、しだいに鋭くなってゆく。梨燕は黒目がちな目に、焦りの色を滲ませている。残月も、梨燕と同じように首をすくめていた。正座してから、思わず視線をそらす。その先には、件の少女の姿があった。

オロオロしながら、ことの成り行きを見守っている。

「雪嵐ちゃんじゃったかの。すまないが玉栄の相手をしてくれないか? 」

 目元を緩め、人好きのする笑みで雪嵐を促す。

「分かりました」

 安堵した表情で素早く、頭を下げて背を向ける。足早に出て行った彼女の姿が見えなくなってから、祖父は拳を孫に落とした。


 祖父は二人を叱った後、衛所へ届けを出しに行った。その話を聞き付け、近所に住む元衛士や、腕の立つ塾生たちが集まった。彼らは雪嵐を慰めた後、梨燕と残月に冷たい一瞥をくれた。普段は協調性がないくせに、こんな時ばかり団結している。ひとりひとり、殴りたい衝動に駆られたが、梨燕は必死にこらえてた。青筋を立てる梨燕とは対照的に、残月はさっぱりしたものだった。外からじっと見つめている影があるとは知らずに、彼らは作戦を立てていた。



「何かさ、俺達。最近、運悪いよな」

 翌日、いつもの広場で噴水の縁にすわって、梨燕がつぶやいた。暦では初夏に入ったころ。夕暮れが遅くなり、日を追うごとに日差しは強くなっている。塾生が集まり始め、行くところがなくなった三人は街に繰り出すことにした。とはいえ、昨日のこともあって私塾の近くだけだが、それに、護衛と称して二人の塾生が後ろからついてきている。物陰から、こちらをじっと見ているのだ。帯刀して周囲を警戒する、塾生の表情は硬い。姿は見えないが、他の塾生たちも待機しているはずだ。梨燕は居心地悪そうに、ちらちらと後ろに目をやる。素早く、残月はそれを視線で制す。相手に気付かれてはいけないのだ。

周囲では後片付けに追われる見世物師が、慌ただしく動いている。祭りも最終日になり、連日の暑さもあってか、人はまばらだ。

「ああ」

 一応頷いているが、残月の声も硬い。相変わらずの無表情で、残月は雪嵐を目で追っている。雪嵐は、落ち着きなく街並みを見回していた。彼女は緊張した面持ちで、膝の上で拳を握る。

 囮役として、大捕物(おおとりもの)に参加することになったが、果たしてうまくいくのだろうか。なるべく普段のようにふるまうが、自信がない。残月は不安を押し殺し、雪嵐を気遣う。

「安心しろ。こっちの方が数が多いから、すぐに終わるはずだ」

 不自然にならないように小声で話す。頭を軽く叩きながら、励ます。雪嵐は少しだけ安心したように表情を緩めた。

「おやおや、随分と仲がよろしいようで。なあ、残月さん? 」

 からかい混じりに茶化し、梨燕が緊張をほぐす。笑みはまだ少々固さが残っていたが、先ほどよりは随分とましになっていた。


「ねえ、君達」

 気配を感じた時には、もう遅かった。さりげなく逃げ道を塞ぎながら、相手は歩み寄ってくる。思わず舌打ちしたくなった。今回は相手が悪い。さて、どう切り抜けようか。

残月はゆっくりと声の主を見上げる。白に近い青の髪をもつ女だった。相手は三人の前に陣取り、声をかける。優しげな笑みを浮かべて、こちらを見回す。

相手から値踏みするような視線を感じ、梨燕が表情を引きつらせた。

「秋蘭堂っていうお店にいきたいんだけど。知ってる? 」

 裏通りにある薬屋だ。雪嵐が怯えた目をして、こちらを縋るように見つめてくる。大丈夫だと手を握り、塾生たちを確認する。すぐにでも飛び出せる姿勢だった。大丈夫だ、いける。

碧眼に冷えた光を滲ませ、相手はもう一度聞く。

「お礼はするからさ、案内してくれないかな」

 梨燕が相手の迫力にのまれ、小さく頷く。何度も首を振って、承諾する。梨燕が頷いた瞬間、女は嬉しそうな笑みを浮かべる。

「ありがとう」

 雪嵐を後ろにかばい、残月は立ち上がる。梨燕と女の間に立ってから口を開く。

「秋蘭堂はこっちです。ついてきてください」

 さり気なく塾生の方へを目指す。しかし、女の一言で三人は足を止めることになる。

「そっちには衛士がいるんでしょ、それくらいあたしにも分かるわ」


気が付くと、見世物師が周りをかこんでいた。

皆、帯刀しており、身構えている。隙のない足取りと、放たれる殺気から歴戦の戦士だろう。不意に体が震える。雪嵐が右手をきつく握ってくる。梨燕の顔色が青ざめるのが見えた。塾生を確認するも険しい表情で動かない。助けは望めない。

今になってようやく恐怖が頭をもたげるのが、分った。力量が違う。例え、剣を持っていたとしても勝てない。そう痛感した。

もちろん、やすやすと殺される気などない。逃げるしかないと、理性が警鐘を鳴らす。状況は最悪だ。どうすればいいのか、分からない。

「度胸があるのね。君」

 面白そうに女が言った。その一言に残月は目つきを鋭くする。違った反応を見せる獲物に興味を引かれたらしい。女は震えながら俯く梨燕と、泣きそうな雪嵐を見やる。二人と比べ、残月は冷静だった。

「何が目的だ? 」

 噛みつくように言う残月に笑みを返し、女は言った。

「そうね。君たちに付き合ってほしい所があるのよ」

 にっこりと優しげな笑みを浮かべ、女は右手を上げた。それをきっかけに見世物師が、輪を狭めてくる。塾生が飛び出し、抜刀する。

「お代はいらないから、愁国の鳴陽祭を楽しんできて」

 女は笑みをふかめてそう言った。それと同時に、乱戦が始まった。

「いいか、相手は犯罪組織だ。本気だしてかかれ、いいな」

 いつもの笑顔が消え、殺伐とした雰囲気をはなつ将軍は声を張り上げて言った。大刀を腰に差し、訓練場で作戦の概要を伝え、彼は無愛想に付け加える。

「少しでも手ぬいてみろ、俺がそいつを三枚おろしにする」

その場にいた兵は姿勢を整え、即答する。その時の将軍の目は本気だったと、後に兵士たちは語る。普段の彼を知る人物なら、妹が関わった件だろうと推測するだろう。厳しい表情を隠そうともせず、彼は廊下を歩く。逆鱗に触れぬように下官達は風蓮の視界から逃れる。風蓮は総府に付くと、表情を引き締めて執務室へと入る。

「風蓮、やり過ぎだ」

 関係ない下官が怯えていると額を押さえながら、鈴俊が言った。

「はいはい」

 風蓮はいつものようにヘラリと笑みを浮かべる。本気で怒ったわけではなかったのだが、普段との落差で、より恐怖を感じる官が多かったようだ。まあ、そこら辺は官達に慣れてもらうしかない。

風蓮は、軍師が既に屋敷まわりをかこんでいることを伝える。戦場でよく見せる不敵な笑みを浮かべ、鈴俊と顔を見合わせる。

お膳立ては整った。後はうまく脚本通りにことを進めればいいだけ。

いつにないほどやる気の友人に、鈴俊は笑みを返す。

「期待してるぞ、風蓮」

「それ、上官が部下に言うセリフだろ。俺達は対等だから」

 鈴俊が同意し、作戦の最終的な打ち合わせが始まった。


鈴俊は秋街の地図を広げて、説明する。

「どうやら、また馬車が屋敷に入って行ったらしい。ある程度、時間をおいて、外部から客が集まるのを待ってから、鳴陽祭で闇取引を行うつもりみたいだな」

 いいながら、右手で地図を指し示す。風蓮は腕を組みながら、説明を聞いている。多くの犠牲者を出さないようにするためにも、細かいところまで話し合う必要がある。風蓮は真剣な表情で質問を飛ばし、意見を出し合って作戦を確認する。しばらく話し、彼らは立ち上がる。秋街に住んでいる風蓮の部下を通じて、屋敷に潜入することにした。


鳴陽祭の喧騒から離れた田園風景の広がる街、秋街。

治安がよく、愁国でも有数の街といわれている。しかし、それは今では表面上の物でしかない。裏通りに入れば待っているのは死。つての無い人間は、いいように利用されるしかないのだ。裏通りを抜けた、奥まった場所にその屋敷はあった。州官自ら、主催する闇取引では各国から人がやってくる。裏通りにひっそりと立つ酒場に呼び出され、鈴俊は不機嫌さを隠しもしない。風蓮は、警戒した表情で情報屋の前に立つ。裏方面にも顔が利く部下の紹介で、知り合った協力者だ。昔の幼馴染だとかなんとか。官吏にありがちな癒着ということではなさそうだったが、いざとなったら使える秘密だ。

協力者である情報屋は、真意の見えない笑みを浮かべて座っていた。

「おっ、時間どおりだね。やっぱり、官吏だからかな」

 話には聞いていたものの、胡散臭い。仕事はきっちりしてくれるらしいが、あまり信用したくない。こんな緊急事態でなければ、なるべく関わりたくない不審者だ。とはいえ、裏に一番通じているのは彼だ。敵に回せば怖いのはこの人物。その気になれば、官吏を社会的に抹殺することなど簡単にできる。無論、それ以上のことも。

味方に引き入れるにはどうするべきか、鈴俊は考えを巡らせる。悩んだのは一瞬だった。

下手な演技をするよりは素直に協力を頼むか、脅しをかけたほうがいい。鈴俊は情報屋を観察し、そう判断した。

「報酬ははずむ。ある犯罪組織を摘発したい、手引きしてほしい」

 単刀直入に用件を切り出し、相手の反応をうかがう。風蓮はじっと情報屋を見つめている。一見自然体に見えるが、いざとなればすぐに抜刀できる体勢だ。情報屋は笑みを浮かべたまま、考え込む。

「別に協力するのは構わないんだけどさ、報酬しだいかな」

 短い沈黙をはさみ、彼は答える。噂通りの人間だ。すぐに即答しないで、条件をできるだけ釣り上げようとする。部下が拾ってきた情報を使うのはもう少し後だ。考えるふりをして、相手を試す。

「銀貨六十でどうだ」

 彼のひょうひょうとした態度は消え去り、怪訝そうな表情になる。

「官吏ってのはそんな簡単に、大金をだすの? 」

 表情を取り繕い、笑顔に戻る。一瞬、嘲笑が混じったが、彼は自分でも気づいていなかったらしい。彼が最終的に払わせようとしていた報酬を、いきなり提示されて驚いたのだろうか。それとも、鈴俊が情報を持っていることに気が付き、警戒したか。冷徹に見えても情報屋はどこかに情を残す。鈴俊はその甘さにつけこむことにした。

「まあね。一ついいか」

 風蓮がこちらをちらりと見た。情報屋の半月型の笑みは変わらない。

「君の両親についてだ」

 途端、彼の態度が豹変した。虚を突かれたように笑みが消え、ゆっくりと顔が歪む。驚愕のみを刻んだ表情は見ていて、とてもおもしろいものだった。本来ならばそこで笑顔で黙るべきだった。

が、彼は致命的な弱点を晒してしまっていた。思ったよりも若い年下の相手に、鈴俊はタップリと時間を置き、止めを刺した。

「君じゃ、彼らは救えないよ」

 本人が痛いほど自覚していたであろう事実を指摘し、ゆさぶりをかける。風蓮が気の毒そうに見つめていたが、しょうがない。

「協力するか、組織ごと消えるか。どっちがいいかよく考えろ」

 風蓮が呆れたようにため息を吐いたのが、妙に印象的だった。結局彼は嫌そうな顔をしながらも、協力してくれることになった。

「とりあえず、組織について知ってること、全部吐いてね」

 にっこりとほほ笑む鈴俊に、情報屋は顔を引きつらせた。


「さてと、協力者は得たし。そろそろ行こう」

 いつにないほどご機嫌の鈴俊に、風蓮が疲れた様子の情報屋を見る。

「どうした? (ぎょく)(えい)

 玉栄は風蓮に視線をむけて、確認した。

「雪嵐って風蓮の妹であってるよな」

 それを聞いた途端、風蓮の表情が変わった。無言で玉栄の肩をつかむ。玉栄は風蓮の剣幕に驚き、固まっている。

「雪嵐はどこにいるのか知ってるのか。早く言え」

 痛みに顔を歪める玉栄に構わず、声を荒げる。何度も質問し、肩を揺さぶる。見兼ねた鈴俊が二人の間に入り、風蓮を引きはがした。

「いい加減にしろ、風蓮。気持ちは分かるが、今は仕事中。公私混同するな」

 彼は返事をせずに玉栄に近づこうとしたが、鈴俊に突き飛ばされる。

 しばらく睨み合っていたが、風蓮は冷静さを取り戻し、玉栄に謝る。

「とにかく、行こう」

 肩を押さえる情報屋を置いて、鈴俊は歩きだした。強引に友人の手を引き、州官の屋敷を目指す。

「やっぱ油断してたんだ」

耳障りな笑みを含んだ声がした。冷えた感触を頬に感じ、意識が浮上する。顔を背け、声の方に短刀を向けるが、それは強い力で弾かれ相手に取られる。残月は怒りをあらわに、起き上がって相手を睨みつけた。鉄格子が目に入り、意識を失う前の記憶がよみがえる。友人の姿を探せば、すぐ後ろで倒れている。一瞬、嫌な予感がしたが、呼吸はしている。少女も気を失ったまま目を覚ます様子がない。目立った外傷がないことから、見世物師たちは手加減をしていたらしい。女は取り上げた短刀の柄を見て、目を見開く。何度か残月の顔と短刀を見比べ、笑みを深めた。からかうような声音で続ける。

「そんな怒んないでよ、残月様」

人を馬鹿にした、愉快でたまらないと言った笑顔で女は離れる。前髪の隙間から、僅かに見えた傷跡にある人物が思い浮かんだ。三年前の内乱を引き起こした張本人がそこにいた。

「お前、あの時の州官か」

「正解、三年ぶりね。てっきり死んでたと思ったわ」

「それはこっちの台詞だ」

 鉄格子を挟んだまま、会話は進む。女は白に近い青の髪をいじりながら、忌々しそうに吐き捨てる。

「あたしが罷免されたのも元はと言えば、あんたのせいだし。それなりにお返しはしてあげるから、覚悟してなさい」

 そう言われても、残月の表情は変わらない。依然、鋭い目つきで女を睨み続けている。目立った反応が返ってこないことに興をそがれて、女は眉を上げる。

「本当にあんたって、変わらないのね」

 どうしたらその無表情、崩せるのかしらと考え込む。女は何かを思いついたのか、わくわくした楽しそうな表情になる。残月は女の考えに気付き、梨燕に駆け寄る。そして、梨燕を庇うように座り込む。このままでは梨燕が危険だ。八方塞がりの状況に残月は焦りを隠せないでいた。

ちらりと梨燕を一瞥してから、彼女は背を向ける。

見世物師の恰好をした男が足音荒く、駆けこんできた。

女は面倒臭そうに対応していたが、すぐに顔色を変えて走りだす。慌ただしい様子に何かが起きたことを知り、残月は友人を揺さぶった。



「でさ、どうすんの。 本気で」

 うまく州官の屋敷に潜入したはいいが、すぐに州官に見つかり、乱戦となっている。本来ならばもっと後に動くつもりだったが、作戦は前倒しになってしまった。鈴俊は風蓮の言葉に肩をすくめる。

「正面突破で、思いっきり暴れる」

「適当だな、おい」

 風蓮は苦笑しながら、飛びかかってきた兵士を切り捨てる。鈴俊は切れなくなっていた剣を床に捨てる。落ちていた槍を拾い、風蓮の横に並ぶ。心底、面倒くさそうにため息を吐き、愚痴を零す。

「一応、文官なんだけど。何で毎回、こんなことになるんだか」

 息をつく暇もなく追手に見つかり、追いかけられる。

風蓮が大刀を抜き、振り向きざまに切りかかる。急所を切られ、相手は倒れた。距離を詰めてくる新手の敵に、風蓮が声を張る。

「ほら、くるぞ」

「はいはい」

鈴俊は飛びかかってくる兵士を薙ぎ払い、手首を返し突き込む。急所を突かれて呻き声を上げる相手の体を蹴り、槍を抜く。隙を狙ってくる兵士の急所を的確に突き、僅かに槍を引いて剣を跳ね上げる。槍を回転させ、柄で剣士の脇腹を打ち、穂先で背後に突き込んできた一撃を防ぐ。同じ槍使いには自分から相手の槍を狙い、絡め取る。大きく槍を引き、得物をたたき落とす。そうして丸腰になった相手は体を反転させて、柄をぶつけ沈める。

鮮やかな手さばきで、次々に兵士を沈める鈴俊。

「やっぱさ、鈴俊。武官に戻った方がいいんじゃねえ? 」

 全く衰えていない鈴俊の腕に、風蓮が口笛を吹く。鈴俊は兵士を沈めてから、答える。

「体力馬鹿は一人で十分だ」

 軽口を叩きながらも、二人は兵士とやりあっている。それに恐れをなしたのか、兵士たちが向かってくるも、瞬く間に切り伏せられる。

「危ない」

 鈴俊が声を張り、風蓮に警告する。風蓮が慌てて、体をすくめるとすぐそばを矢が通り過ぎて行った。

「相手も本気だな」

 これ以上、矢が飛んでこないうちにと、鈴俊が足を速める。風蓮もそれに倣って、走り始める。怒号と剣戟の音が大きくなり、聞きなれた軍師の声が聞こえてきた。見慣れた愁軍の旗も目に入り、順調に作戦が成功していることを知る。愁軍が突入を開始し、相手もなりふりかまわなくなってきているのか、焦げたにおいがする。

「やばいな、あいつら、火放ちやがった」

 口元を布で押さえ、風蓮が言った。鈴俊は無言で足を速め、回廊を駆け抜ける。立ちふさがる兵士を床に沈め、とにかく前を目指す。一人の兵士が焦ったように回廊の奥に走る。絵をどかし、何かを始める。不審な行動をとる兵士を捕まえ、風蓮が大刀を突き付ける。

「何してるか言え、そうすれば命だけは助けてやる」

 兵士は青ざめた表情で、答えた。

(りん)()様がとらえた民を移動しろと」

 それだけ聞けば十分だった。鈴俊は兵士を睨み、早口で命令する。

「さっさと地下牢に案内しろ。抜け道はあるのか? 」

「は、はい。この下に」

 素早く隠し扉を開け、中を差す。鍵を奪いとり、兵士を脅して案内させる。風蓮は牢をのぞき込み、声をかけながら、民を解放した。

「愁軍がきたから、大丈夫ですよ。指示に従って、避難してください」

 鈴俊も声をかけながら、鍵を開けていく。

「これで最後か? 」

「はい、私の記憶が正しければ」

 奥まった場所にある鉄格子に触れ、鈴俊が兵士に問う。兵士は敬礼しながら、鈴俊に答えた。風蓮は民に声をかけながら、誘導している。

「誰かいるのか? 」

 中から硬く不安げな声が聞こえた。鈴俊はその声に耳を疑う。混乱したまま、確認するために震える声を投げた。

「残月様、ですか? 私です。鈴俊です」

角灯の光に照らされた少年は、数年前に行方不明になっていた皇子だった。鈴俊は即座に拱手の礼をとり、頭を垂れる。風蓮もすぐに頭を下げ、膝をついて拱手する。二人の様子に兵士も平伏し、額を地面に付けた。民も角灯に照らされた少年に気が付き、平伏する。

失っていたと思っていた存在が目の前にいるのである。喜びと同時

に皇女の姿が頭をよぎり、鈴俊は何も言えなかった。風蓮も興奮を隠せない様子で、頭を垂れている。残月は一歩、前に進み出て言った。

「顔を上げてくれないか、皆」

 そろった返事を返し、二人は立ち上がる。が、他の人々は平伏したままだ。

「え、残月が皇子? うそだろ」

 茫然とした表情で梨燕が呟く。しかし、平伏した人々を見て、疑念は確信へと変わる。顔を引きつらせ、平伏しようとした梨燕を残月が制止する。

「やめろ。梨燕にまでそんな扱いされたくない」

「でも、じゃない。ですけど」

「止めろって。本当に止めてくれ、敬語はなしでいい」

 本当に嫌そうな表情を見て、梨燕は渋々立ち上がる。どうしたらいいのか分からないでいる友人に、残月は頭を下げた。

「隠しててごめん。俺は全部捨てて逃げた腰ぬけだ。父上のことだって止められなかった。煮るなり、焼くなり好きにしていいから」

 今にも平伏しそうな勢いの残月に、梨燕は苦笑する。

「お前が悪いわけじゃないけどさ、こうしないと気が済まないんだよな」

 そう言って拳を握り、軽く残月の頭を小突く。

「は? 」

「これでチャラってことで。後、お前、ウジウジしすぎ」

 きょとんとした様子の残月に言う。

「俺は確かに、愁国から暁国に来たけどさ。お前のせいじゃねえから」

 安心させるように言い、彼はヘラリと笑う。残月も安心し、笑みを返した。しかし、納得しない民もいた。

「ふざけんな! 俺の女房はてめえの父親のせいで死んだんだ」

「そうよ、あんたが止めてくれればあたしの妹は死なかった」

「全部、あんたのせいじゃない」

 怒号が響き渡り、怒りに駆られた民が口々にののしる。

そんな中、静かながらも怒りを押し殺した声が響いた。

「いい加減にしろ。確かに残月様にも責任はあるかもしれない。だけど、皇族を根絶やしにすればすむ話か? 」

 鈴俊の剣幕に民は口をつぐむ。風蓮もギラギラした眼で民を睨んでいる。今まで黙っていた雪嵐がゆっくりと前に進み出て、言った。

「私の両親は、謀反の疑いをかけられて亡くなりました。皆さんの気持ちは分かります。でも、本当に残月様だけの責任なんでしょうか」

 風蓮も雪嵐に同意する。

「俺だって、腹立ってしょうがなかったけどさ。仇を討ったけど、すっきりしたのは一時だけだ。逆に落ち込んだ」

「それでも残月様に手を出すなら、私はお前たちを切らなければいけなくなる」

 鈴俊がそう締めくくると、民は沈黙した。

鈴俊が周りを見渡すと、人々はこの上なく複雑そうな顔をしていた。老婆は人ごみをかき分けるようにして、残月に近づく。風蓮が老婆を止めようとしたが、逆に残月に止められた。残月の手をとり、老婆は言った。

「どうか、この国をよくしてください。私の里ではまだ飢えて死ぬ子供がたくさんいるのです。どうか、よき国を」

 老婆の話を聞き、残月は頷く。

「何ができるのかはまだ、分からない。でも、何かできることがあるならば少しでも国の手助けになるならば、あなたの願いに添えるように努力したいと思う」

 梨燕はそっと残月から離れ、鈴俊と風蓮に頭を下げた。

「どうしようもないぐらい不器用だし、むこうみずな奴だけど、どうか支えてやってください。俺はこれからの愁国がどうなるのか見たいと思います」

 鈴俊は少年の肩を叩き、頷く。

「私でよければ、全力で仕えさせてもらおう。君が安心して愁国に戻れるように、それまで待っててくれないか? 」

 梨燕は真剣な表情で応える。

「何年でも待ってますよ」

最初に怒号を発した民が、口を開く。

「先帝のせいで、愁国はひどい状況だ。俺みたいに身内だから恨みをぶつけてくる奴もたくさんいる。それでも、帝位につく覚悟はあるのか? 」

 それにしっかりとした声で残月は答える。

「それくらい、とっくに覚悟している。むしろ、気に入らないならば首をとってくれても構わない」

 真剣な表情に民は言った。

「その言葉に嘘がないか、俺たちは見はるとしようか。なあ、皆」

 民は、互いに頷きあう。

こうして、愁国に新たな歴史が生まれたのである。

後の歴史書には、破天荒な将軍、外交官として名を上げたその妹、暁国出身の剣士、将軍をも恐怖させた女軍師など多数の人物が出てくる。しかし、その中でも特に有名なのは、善政を敷いた初代愁国帝とそれを支えた総府長であろう。彼らの活躍は世代を超えて、語り継がれたという。


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