カラスが白く染まったら
まるで全ての白を溶け込ませるような、やんわりと温かいミルクがカラスの好物だった。濃厚で程良い甘みがあれば、さらに良し。クチバシが湿り舌と馴染んでくるにつれて、心の袋を裏返しにされるような心地良さが訪れる。
この大きなコナラの樹の虚に作られたカフェは、ねぐらから少し遠くてもわざわざ来るだけの価値はあった。軽く疲れのたまった翼を休めながらホットミルクを一口ずつ味わい、午後のひとときをのんびりするのが毎日の日課である。
今日もカラスはいつもの窓辺の席に座って、この後は何をしようかとぼんやり考えていた。そろそろ蓄えが無くなりそうだから木の実売りのリスのところへ行って、ドングリの細かく砕いたやつを三袋くらい買ってこようかとか、そんなことだ。
やがて太陽が傾いてきて、そろそろ木々が昼寝から目覚めるんじゃないかという頃になって、ようやくカラスは重い腰を上げた。
「お会計をお願いします」
……。
カウンターには誰もいない。
「あの、お会計をお願いします」
……。
カウンターには誰も出てこない。カラスは言葉を変えた。
「どなたかいらっしゃいませんか?」
「へーい」
気の抜けた返事をして、店主のオコジョが顔を出した。全身が艶のある白い毛で覆われているが、尻尾の先だけ墨に浸したように黒い。
「アルバイトのアカネズミはどこだ?」
「さぁ、どこでしょう?」
「『どこでしょう?』じゃねえよ。なんでちゃんと見ておかなかったんだ? 客だろうが。で、いくらだい?」
「ミルク一杯なので、300シランですね」
「じゃあ400シランだ」
「ええ、分かりました」
そう言うと黒の羽毛から財布を取り出して、500シラン硬貨を手渡した。
と同時にオコジョは、
「釣り銭だ」
と言いながら50シラン硬貨を投げつけると、黒い尻尾を床にダンダン叩きつけながら、すぐに奥へ引っ込んでしまった。
そう。カラスは山の皆から嫌われていた。特に深い思考も経ずに、悪い奴だと思われていたからだ。でもカラスは誰かをアホォアホォと嘲ることもしなかったし、汚らしい身なりということもなかった。むしろ話しかけるときには必ず敬語であったし、背広を着こなした紳士の如く清潔な羽を持っていた。それに奉仕の精神というやつも持っていた。山の動物の中で一番というほどではなかったが、翼が汚れるのも躊躇わずに、さりげなく道の落ち葉を掃いたりしていた。
そんなカラスなら友達の一人もいそうなものだが、この山では誰もがカラスを避けていた。厄介なのは、誰かが先導してやっているわけではないし、誰かが止めようと言う気もないということだった。そんな不条理を目の前にしたら文句の一つでも吐くのが常識だろうけれど、カラスはこう言ってすぐに頭から払ってしまう。
「自分はカラスなんだから、しょうがないのさ」
ただそんな言葉とは裏腹に、我慢を重ねたカラスの心の掃き溜めには黒い泥が積もり積もってしまっていた。もしそこに手を突っ込んで一掴みやろうものなら、掌の奥の方にズンと重い歪みを感じることになるだろう。圧力とも熱とも分からないそれは、やがて体全体を侵食して灰色のキノコが生えてくるような粘土にしてしまうのだ。そのことにカラスでさえも気付いていないのだけれど。
今日もまた、カフェを後にしたカラスは「しょうがない、しょうがない」と呟いた。空は快晴。落ち込んでいるよりは空を見上げている方が楽しいということを、いつの間にか覚えていた。
そのまま、とりあえずの快適に身を任せて空を飛んでいた時だった。前方に何者か飛んでいる奴がいた。いつもなら気を使って見て見ぬふりをするのが習慣だったが、今日のカラスは何となく違う気分だった。雲ひとつ無い蒼穹は、心を軽く酔わせる効果があるのだろう。大胆にも「いいお天気ですね」と話しかけてみてしまった。無視されたとしても、きっと慰めてくれる青空が上にあったから、少し冒険をしてみたかったのかもしれない。
ところが。
話しかけた相手は、よく近づいてみるとただの風船だった。しかも「自然を大切に」だなんて、人間の子供が貰っても嬉しがらない文句が書いてある。やるせない。そのまま空気に溶けてしまいそうなくらいに、カラスはがっかりして、がっかりした。それでも紳士として、ちゃんとそれを掃き溜めへ放り投げるまではやった。いつも通り、変わらぬ様に。だが次の瞬間には黒く積み重なった汚泥が崩壊して、カラスの姿は腐った濁流に飲み込まれてしまった。
それで風船はパァンと割れた。くちばしで突っついたら、もう何も無くなったのだ。
その足で、いや翼で、カラスはフクロウの所へ向かった。フクロウは染物屋だったが、このご時世に繁盛することもなかったから、ただぼんやりと染料の入った壺の中身をかき回しているところだった。かき回された染料は渦を巻いて、夜の空に浮かぶ無情な銀河に似た模様を描いていた。そんなだったから、久しぶりの客があのカラスであってもなかなか愛想のいい対応をした。それはある意味、共鳴だったのかもしれない。
「おや、いらっしゃい。どうだい、この染料は良いだろう? なんでも雲を絞って乾かしたものらしくてね、こんな白をしているんだよ」
「それは素晴らしい白ですね。ちょうどいい。僕も白が欲しかったところです」
「そうかい。ではこの白で何を染めようか?」
迷いなど無かった。
「僕の羽根を」
「何と、君の羽根を!? 正気かい?」
「ええ。白は何者にもなれますから」
「君の黒は、この私が四方の海を渡って集めた何百何十という黒を使っても出せないんだよ? それを塗り潰そうだなんて、もったいない」
素直な感想だった。上等のビロードにも勝るようなカラスの深遠な黒は、素人目には気付かないかもしれないが、玄人であれば目ざとく見つけて褒め称えるくらいの代物である。
「いいんです。きっとこの黒がいけないんです。黒が僕の生き方を邪魔するんです。これ以上は無いというくらいに、思いっきり真っ白にしてやってください」
「……うぅむ。そうかい? もったいないねぇ」
残念そうに体を縮こませたフクロウは、今にもカラスの羽根をむしって染料にしかねなかったが、それを堪えるようにフクロウは小さな桶を用意して、そこへ雲の染料をどっぺりと注いだ。
「さ、お入りなさい」
「失礼します」
勢いよくぐぶりと潜り込んだカラスの姿は、ずぶうと出てきたときにはもう青空によく映える真っ白になっていた。きっと世界はこんな白から始まったのかもしれない。そう確信したカラスは、染料が飛び散るのも気にせずに翼をばたつかせて喜んだ。
翼を乾かしてフクロウの染物屋を後にしたカラスは、近くの沢で一匹のカニに出会った。カラスはもう別の生き物になったような心地だったから、その洗練された白い翼を見せびらかすようにしてカニの前に降り立ち、言った。
「どうです、真っ白でしょう。僕の身はこの通り潔白です」
しかしカニはハサミをカチカチとやりながら、白い泡と一緒に言葉を吐いた。
「なんだい、よく見ればカラスじゃないか。よくもまぁ、それで潔白だなんて言えたもんだね。どうせ外見だけ取り繕って、誰かに詐欺でもするつもりなんだろう?」
「いやいや、そんなことはありません」
「否定しなくたって良いのさ。堂々と詐欺師だって名乗ればいいんだ。どうせ皆、カラスはずる賢い奴だって知ってるんだから」
「違います。僕は詐欺師ではないのです。むしろ奉仕することが生来好きなのです」
「笑わせないでくれよ。外だけ変えたって、中身が変わるわけじゃないんだ」
「僕は変わったのです」
「黒い詐欺師から、白い詐欺師に変わったのだろう? そりゃあ大きな進歩だよね」
それでカラスは家に飛んで帰ってしまった。これではダメだと悟ったのだ。それにカニの言うことにも一理ある。外見が変わったところで、評価が変わるはずもないのだ。形の無いものを形の有るもので覆すことは難しいものだと、カラスは痛感した。
でも諦めなかった。家に帰るまでの間、頭の中ではどうにかして中身を知ってもらおうと考えていた。そして思い立った。本を書くのだ。思いの丈を熱意を込めて書き連ねれば読んだ人に思いが伝わることは、本をよく読んでいたから理解していた。どの世界でも、本は種となる。
それからしばらく、ねぐらに籠って本を書く日々が続いた。その白い翼を陽に当てたいとか、青い空に掲げてみたいとかいう衝動にかられても、カラスはそれを丈夫な精神で抑えた。むしろその力をエネルギーに換えたように、奉仕に対する情熱や深く尊敬している愛の心とかいうものを、自分の言葉で書いていった。文章を考えるたびに羽根がいくらか抜けてしまうくらい重いものを背負う作業だったが、筆はカラスが思っていたよりも早く進み、新品の真っ白な原稿用紙は見る見るうちに真っ黒になっていった。気付けばモモンガの印刷屋に頼んだ製本も出来上がっていた。カラスはその出来に心から満足し、これで誰もが自分への誤解を解いてくれるものと信じて疑わなかった。
早速モグラの本屋に頼み込んで、そいつを無料で売ってもらう約束をとりつけた。モグラは怪しんでいたが、きっとそれもすぐに晴れるだろう。本を読めば分かるのだから。
それでもどうしても拭えない一抹の不安を抱えた翌日。モグラから在庫が足りないと連絡が来た。その早さにはカラスも驚いたが、実際そうなっていて、どうも書いた本は噂になっているらしかった。
それからはもうカラスはニヤニヤが止まらなかった。自分の書いた本が、無料とはいえ、飛ぶように売れて読まれているのだから、嬉しくないはずがない。それにこれを読んでくれればカラスへ向かう視線が変わってくることは間違いがなかった。これでようやく精神が休まると、カラスはすっかり安堵していた。
ところが状況は全く違っていた。しばらく経った頃、カラスが良い気分でカフェから帰る道の途中に、とある家の窓から自分の本が置かれているのが目に入った。カラスは友達がいなかったから、誰かの家に自分の本が実際に置かれているのを見たのは初めてで、それはとてもカラスを上機嫌にさせた。しかし注意してよく見ると、どうやらページが破られているらしいのである。これは一体どうしたことかと思ったカラスは陰から様子をうかがうことにした。
やがてその家の住人であるタヌキの子供が姿を見せた。白い目をきょろきょろさせて何かを探している。やや間をおいて、見つけたとばかりに小さな手で拾い上げられたそれは、まさしくカラスの本だった。そして次の瞬間には、躊躇いもなくべりりと一枚ページを破って、ちーんと鼻をかんだ。後は丸めてゴミ箱へ。そんな無下に扱うんじゃないとカラスは静かな怒りを半分くらい覚えたが、どうもそういうことではなくて、もっと嫌な方向の気配があった。
子供の後ろに母タヌキが現れて、言う。
「こら、やめなさい。それで鼻をかむのは。インクが付いちゃうじゃない」
「だってこれは汚いものに使えって言ったじゃない」
「それはそうだけど、これじゃあなたの綺麗なお顔が汚れてしまうでしょ。これは窓ガラスを拭いたりするのに使うのよ。鼻をかんじゃダメ。分かった?」
「は~い」
それを聞いてカラスはもう居ても居られなくなって、通りがかった白ウサギに尋ねた。
「僕の本は役に立っていますか?」
「あぁ、無料だからね。最近の物価高でティッシュペーパーも値上がりしただろう? みんな大助かりだよ」
「読んではくれなかったのですか?」
沈んだカラスの表情は見なかったふりをして、バカに施しを恵んでやるかのように、わざとらしくウサギは答えた。
「あれは読むものだったのかい? それは知らなかった」
「本屋に置いてあるから本なんですよ。本は読むものでしょう?」
「でもねぇ、はっきり言って読みたくないよ。自分のことは自分で語るものじゃない」
「それが私を表す言葉なのです」
「どんな綺麗事を言ったってさ、行動が伴ってくれないと困るわけさ。『僕は命を愛しています』だぁ? 誰かに君はどんな奴かって聞いて本の言葉の通りに答えたとしたら、君に僕の葡萄酒をご馳走しようじゃないか」
それでもう、カラスは言葉を返すのをやめた。返せなかったのではない。返さなかった。返したかった。
数日後、山を突然の大嵐が襲った。前兆もなかったから、山の動物達は大なり小なり混乱した。荒れ狂う風は空気を押し潰すような轟音をたてていたし、砂利のような雨は濁った水で地面を覆い放題だった。それは山にとっては恵みでもあるのだが、大きな災いであることに変わりはなく、少なからず山に被害をもたらした。
沢なんかは危ないからカニの一家は一時的に洞窟へ避難したし、木の上でもカフェだとか染物屋の屋根なんかがやられた。とにかく多くの動物たちが損害を被ったのだが、特に噂になっていたのは山の神社で起こった事件だった。そこには山の守り神が祀られているのだが、そこにあった大きな鳥居が風雨で倒れてしまっていた。それはそれで事件ではあるのだが、それよりも重大なことにその鳥居の下敷きになった動物がいたのだった。
事切れたそれは、くちばしがあって、二枚の翼があり、そして体が真っ白であった。野次馬は口々に名も知らない動物だと言っていたが、そのうち数が増えてくるうちに気付きだした。そう、あれはカラスではないか、と。それを聞いたフクロウが見て言う。
「あの白は泥で汚れているが、確かに自分が染めた白に違いない。あんな白は雲の染料じゃないと出ないんだ」
それで、その鳥の死骸はカラスだということに落ち着いた。しかしそれで話が終わるはずはなかった。
「なんでカラスはここで潰れているんだ? あの嵐の中、こんな所になぜ来たのだろう?」
「決まっているさ。悪戯だよ。どうせ嵐のせいにして鳥居を倒してやって、みんなを困らせようと算段していたんだろう」
「本の件で仕返しでもしようと思ったのかねぇ」
「それがヘマをして自分で自分を潰したってわけか。こりゃ愉快だ」
「まさにこれは天罰だよ」
「神様が我らを守ってくれたんだ」
そんな話が辺りを埋め尽くしていたのだが、そこで白ウサギが口を開いた。
「しかし、どうやって倒したんだい?」
「そりゃあ押したんだろうさ」
「カラスだけでかい?」
「あの風があれば十分だろうさ」
さらに別の者が加わる。
「何か道具を使ったんじゃないか? あいつはずる賢いやつだから」
「それで分かった。樹を倒したんだ。それを鳥居に当てたんだろう。そこら中に倒れた樹が転がっているし、きっとそうに違いない」
探偵を気取ったような言い方だった。しかしそれをウサギの震える声が遮った。
「確かにそうなのかもしれない。でも、だったら、さ」
「なんだ、どうした? 早く言ってみろ?」
「あの本の最後に、あんなこと書かないんじゃないか?」
「あの本の?……、お前読んだのかい?」
「これでも俺は読書家なんだ。どんな駄作であっても、一通り目を通さないと気が済まなくてね」
「それで何て書いてあったんだ?」
その時にはもう、その場にいた大勢が白ウサギに注目していた。
「嫌な予感がしていたから、本を持ってきたんだ」
そう言ってカバンから本を取り出して小さな手で最後のページを開くと、全員に聞こえるようにできるだけ大きな声で音読した。
『僕はもうすぐ死ぬことにします。山の皆さんのために死ぬことにします。そう決めました。例え気付かれなくたって、誤解されたって、私は誰かの役に立ちたいのです』
風が吹いた。秋の到来を告げる、ちょっと冷たい風だ。
確かにちょっと調べてみると、鳥居が古くて倒れそうなことに気付いていた動物は少しばかりいたし、神社を管理するキツネはそれに気付かず放置していたことも分かった。でも誰もやろうとはしなかった。だから誰かがやらねばならなかった。結果、鳥居は倒れ、秋の冷たい風が吹き始めた。
秋が深まって、紅葉が山を彩る頃になっても、動物たちは何かの拍子にあの話を持ちだした。そして本当は自分はこう思っていたんだと、そんな弁解を秋の高い空の下で打ち明けて、立ち直るきっかけを探していた。それは格好の悪いことではあったけれど、秋の終わりに枯れ葉が落ちるのと一緒にどこかに行ってくれるんじゃないかというのが誰の心にもあったのだろう。
でも実際、それは存在している消失となった。冬が来る頃には過去に流れていき、春が顔を見せるとすっかり誰も話さなくなった。ただどこかで何かが変わっているのは確かで、その上にいつもと変わらない山の生活が成り立っていた。
さて。カラスはというと、冬になる前にはもう、この生活を楽しむまでになっていた。朝に寝て、夜に起きる。それでまずは月明かりを白い翼に当てて、うっすら銀色に反射するのを楽しみながら、目覚めのコーヒーをすする。その後は気の向くままに、寝息が聞こえる森の中を静かに飛び回っては、木の実をかじったり、ずうっと上まで飛んで行って渦巻銀河に近づいてみたり。
で、今日はというと、真新しい石碑の前にカラスは来ていた。そこには字の上手いフクロウの字でこう彫られている。
「親愛なる仲間へ」
その下にあるのはカラスの死骸、とされたものだ。もちろん本物があるはずはない。ここでこうして生きているのだから。下にあるのは、実はただの人形なのだ。白く塗って土汚れを少しつけてやっただけの簡単な作りである。それでもカラスが白くなったというのが広まっていたし、他に同じくらいの大きさの白い鳥がいなかったから、騙すには十分だとカラスは分かっていた。
だが別にカラスは最初から計画していた訳ではなかった。本を書いているうちに思いついて、偶然そうする選択肢を選ぶことになった。それだけのことである。カラスに言わせればハッピーエンド。誰もが望んでいた幸せに近づいたのである。カラスは感無量だった。こうしていけば世界を幸せにすることも出来るかもしれない、とさえ思っていた。それは裏表のない本音であり、悪意なんてカラスの頭の中には毛頭無い。
そうそう。カラスは最近、こう呟くようになった。
「あの白は何色だったかなぁ」