猫魔ホテル
猫魔ホテル
1
黒姫館にいこうと思った。
東京駅から新幹線で長野駅へ、さらに乗り継いで黒姫高原駅にやってきたが、それらしい建物はなく雪ばかりだった。
迷子になった。雪風に逆らって歩くと、小さな洋館が見えた。
看板に〈ホテル猫魔〉とあったので、がっかりした。
遭難するよりはマシか。
白い息を吐き出し、門をくぐった。
丸い外灯の上に雪がかぶって、淡く暗い明かりをつくっていた。扉を引くと、ちゃりん、と鈴が鳴った。
ホテルのなかは樵の隠れ家のように狭かった。木目の残る壁に掛けられた四角いランプの明かりが、入ってすぐ左手にあるカウンターと、その向かいにある二人掛けの白いソファと、奥にある食堂テーブル四台を照らしていた。二階へ続く階段がカウンターの奥にある。その上が客室のようだった。一階の敷地面積からみると、客室は三、四部屋ほどしかないだろうと推測できた。
ホテルは見たところ無人だった。
「ごめんください」
私は声を張り上げようとしたが、思いのほか喉の痛みが激しく、ガラガラと詰まってしまった。
「だれか、いませんか」
私は遭難しかけていたのである。すぐに毛布やストーブ、暖かいスープなどがてきぱきと用意されてもいいはずだった。
いわゆる幽霊ホテルなのか、と疑った。しかし、玄関の鍵は開いていたし、薄暗いものの明かりもついている。営業時間を過ぎて、ひとけが去った薬屋のようにも見えた。
私が多少落胆していると、
「おいでませ」
という声がした。すこし鼻にかかったような、鼻炎症の気配のする、わりとかわいらしい声だった。
見たところ、周りに誰もいない。
私は雪がべったりとはりついた靴のまま足を出し、カウンターテーブルに近寄った。中に従業員が一人しか入れないほど狭いカウンターだった。
「どこです?」
私は、声の主を求めて尋ねた。
「ここですよ」
猫なで声が、再び耳に飛び込んできた。真下からだった。私はかがんで、カウンターテーブルの内側を覗き込む。
猫が一匹、いた。
猫は丸椅子の傍の地べたに人間のような体制で背筋を真っ直ぐに伸ばし、座っていた。まるまると太った、巨体の猫だった。白と茶色の混じった毛は、珈琲牛乳のようなやわらかさだ。毛並みは、あまりよいように見えなかった。頭のてっぺんが、少し、茶の毛が薄くなっていた。猫なのに、どっぷりと構えていて、ホテルのヌシのような重々しさがあった。
猫には詳しくないので、ぱっと見で、年齢はわからない。しかし、立派な腹といい、堂々たる態度といい、物腰といい、じぶんよりはだいぶん年嵩だろうと受け取った。
「あなただったんですか」
私は納得して言った。
「そうそう、私です」
彼は、猫にそっくりの人間なのか、それとも人間にそっくりの猫なのか、いくら眺めても、私にはわからなかった。なにせ、彼は蝶ネクタイをしていたし、緑黄色のベストのセーターを着ていた。ただ、彼が猫だろうと人間だろうと、私には不都合がないことには違いなかった。
「冷えてしまいますよ」
ネコマさんは、そう言うと、バスタオルくらいの大きさのふっくらとあたたかい空色のタオルを、差し出してくれた。
「ありがとう」私は受け取ると、濡れた頭を中心に拭いていった。
「お泊りですか?」
「いや、少し休ませていただきたい。なにしろ、雪道で、ほとほと疲れました。別のホテルに行くつもりなのですが、たどりつけるかどうか」
「どこのホテルですか?」
「黒姫ホテル、というホテルです」
「予約はされていますか」
「していません。今朝起きて、急に旅に出ようと思い立って、東京からここまで来たのです。しかし、平日なので空いているだろうと」
「空いているかもしれませんが、泊まるのは無理でしょうね」
「え? それは、なぜでしょう」
私は、丁寧な応対をする大柄な猫に、好感を持った。すぐに頭が明快に戻り、猫には見えなくなることだろう。
「残念ながら、黒姫ホテルは、冬季は長期的に休業しています」
「本当ですか? それは困りましたね。それにしても、冬季に休業するなんて、よほど商売っ気がないようですね」
「なんでも、主人が極度の寒がりで、冬眠しているようです。私も寒がりなのは、似たようなものですが、働かないと、余計に寒いですからな」
ほっほっほ、と、猫の主人は口元をゆがませて笑った。ますます、気さくでおもしろい主人だ、と思った。
「黒姫には、詳しくないのですが、このへんは、ウインタースポーツが名物なのですか?」
「その通りです。スキーやスノーボードに来た若者たちが泊まるホテルならば、この周辺にたくさんあります。スキー板やスノーボード板のレンタルと、リフト券セットの価格で、一万円弱で、泊まれます。よろしければ、ご紹介しましょう」
猫は、棚からクリアファイルを取り出して広げ、ふんふん、と、近隣ホテルのチラシや価格表を参照しはじめた。じぶんのホテルより、まず先に、近隣の格安ホテルを勧めてくる主人の商売っ気のなさが、私はすっかり気に入ってしまった。
猫の薦めるホテルの説明が面白かったので、しばらくは止めずに、熱心に聞きながら、私は、この〈猫魔ホテル〉に泊まることを決めていた。
話の間の隙を縫って、私は尋ねた。
「ところで、あなたのお名前は、なんとおっしゃるのですか?」
「猫魔伸夫と申します。気さくに、ネコマとお呼びください」ネコマさんは少しの間を開け、右腕の毛をぺろりと舐めた。顔を上げる。「お客さんのお名前をお伺いしても?」
「ああ、これは、失礼しました。大友博といいます」
私はネコマさんの少し匂う息にも、ほれぼれして、見とれていた。彼が猫にせよ人間にせよ、そのような男というのは、なまめかしいものだということを、私は知った。
そして〈猫魔ホテル〉とは、主人の名にちなんでついたものらしいことが、分かった。
猫に、立派な名前があったので、私は、安心した。なにしろ、きちんと苗字と名前があるので、だいじょうぶだ。
*
案内された客室は南西の角部屋だった。ツインベッドの、標準的なビジネスホテルほどの広さだった。
片側のベッドに荷物を置き、ユニットバスに浸かって温まると、冷えていた全身があたたかくなった。濡れた服を干し、鞄に詰めてきた部屋着のパーカとスウェットパンツを着た。しかし、すぐには眠る気が起きず、部屋から出ることにした。
「まあ」
再び下の階へ降りていくと、あまり驚いていないような声の感嘆詞が聴こえた。振り向くと、従業員が一人、給食を配給するような白いトレイを片手に、立っていた。田舎の僻地に似合わない、若い娘だった。
「もしや、お客さまですか?」
「ええ」私は頷きながら、それ以外にないだろう、と思った。
「そう、よかった。いらっしゃいませ」
その娘は、黒髪黒目の、ごく標準的な体型の、のっぺりしていてぱっとしない顔立ちだった。長い黒髪を二つに結ってお下げにしている。黒いワンピースの上に、フリルや装飾が一切施されていない白いエプロンをかけていた。地味なメイドの恰好だ。わざとなのか地なのか計りかねたが、客に対してほほ笑みもしない女だった。
「外は、お寒かったでしょう。なにか、暖かい飲みものをご用意しましょう。なにに致しますか」
「じゃあ、スープかなにか、あるかな」
「では野沢菜のスープをお持ちしましょう。そこの食堂に、てきとうにおかけ下さい」
「ありがとう」
「でも、嬉しいわ。最近はお客さまなんて、もう何ヶ月もいらっしゃっていなかったんですよ」
「――何ヶ月も、ということはないだろう。毎晩来てくれる、吉良次郎くんがいるじゃないか」
声に振り向くと、ネコマさんが二本足で、ふらつくこともなく歩き、村里の長老のような落ち着いた物腰で、私たちのもとへやってきた。私は息を止めて、ネコマさんのすらりと伸びた背筋を見つめていた。彼が傍までやってくると、私の太ももと同じくらいの背丈だと分かった。
ネコマさんの姿を見るなり、メイドは素早く三歩ほど後退し、ソファに脚をぶつけた。彼女は胸のところでトレイを抱えこみ、一言の返事もなく、うつむき加減になった。その様子を見て、おや、と私はいぶかった。顔を合わせるだけで逃げるなど、雇い主に対して、失礼きわまりない態度である。
「なにを言っているんだね」はて、メイドはなにも言葉を発していなかったはずだが、私の耳が遠いだけだろうか。ネコマさんはやんわりと咎めた。
「あの子は、優しくて、気のいい青年じゃないか。それに、おまえのことを気に入っている。そんな滅多なことを言うものじゃないよ。もう、百日ほども、毎晩、通ってきてくれているんだ。なにをそんなに嫌うことがある。いい話じゃないか」
メイドはどうやら、その常連客をよほど嫌悪しているらしく、身体を震わせるそぶりをした。
「軽薄そうだというんだろう。見た目で決め付けてはいけないよ。おまえを気に入ってくれる男がいるなんて、この先十年、あるかないかだと思いなさい」ネコマさんの口調は、母親が息子をたしなめているさまを思わせた。それにしても、なにもものを言わないメイドの気持ちがよく分かるものだ。住み込みでともに働くとは、こういうことなのかもしれない。
メイドはふい、とそっぽを向いた。
「困った子だね」
ネコマさんはため息混じりに、器用に肩をすくめた。手のひらの肉球はほんのりピンク色だった。私の目は釘付けになった。
「しかしね、きみがどう思おうと、今夜もきっと彼は来るだろう」
「この天気ですよ」
口を挟んだのは私だった。窓の外は真っ暗でなにも見えない。風の音だけが聴こえてくる。雪国は素人なのに、ここまで辿り着けたのが奇蹟である。
「どんな天気でも、彼はいつも来てくれるのですよ」
「しかし、こんな雪では、道中で遭難してしまいませんか?」私は、見知らぬ吉良次郎くんの身を案じた。
「そうしたら、きみが助けてあげるんだ」
ネコマさんはメイドに向かって尖った小さな歯を見せ、ほほ笑んだ。メイドは主人の笑顔を躱し、一言の断りもなく背を向け、厨房のほうに小走りで引っ込んでいった。
メイドのゆれる黒髪を見送ってから、ネコマさんは肩呼吸で軽く息を吐いて、私に詫びた。
「いや、申し訳ない。あの娘は喋らない子なのです」
「さきほどは僕に対し、すらすらと話していました」
「なぜでしょうね。私にだけはずっとあんな調子なのです」
「喋らないのですか? 一言も?」
私は好奇心のみで尋ねた。ネコマさんが現れたとたん、メイドは狩られようとしているウサギのように身を縮めた。ネコマさんにあらぬ嫌疑がかかるような顕著な態度である。
「はい。そうなのです。ここに来たお客さん方とは口をきくのですが、なぜか私にだけは、さっぱりで」
ネコマさんは弱ったように笑い、目を半分ふせた。これ以上、くわしく追求するのを私は遠慮することにした。主人と言葉を交わさずにメイドの仕事をどう勤めあげているのかという疑問だけが残った。まてよ、筆談と言う手もあるか。
私は一足先に、食堂の椅子に腰かけた。
木製の丸いテーブルの中央には、火のついていないキャンドルと、亀の置物が置かれていた。よく見れば、背中にローマ字の装飾字体で、『カシオペイヤ』と書かれていた。よく意味がわからなかったが、気に入った。テーブルの上は他に、灰皿もマッチも置いていなかった。考えてみれば、よく意味の分からないホテルではある。しかし、静かで、いい場所だった。なんというか、ここには、世俗的なものがない。エレベーターとか自動ドアとかテレビとか、そういうものがないのだ。
「にゃあ」
少し遠くで、猫が鳴いた。
猫が何匹か住んでいても不思議ではない、と思って辺りを見回したら、私の足元に、まっしろい毛玉のような子猫がころがっていた。
子猫は長毛で、ペルシャホワイトに似ていた。
なんの意図があるのか、子猫は私の掛ける椅子の脚のまわりを休みなく旋回していた。
しかし私は、鳴いたのは白猫である、という確信が持てなかった。それよりもっと深く淡い響きだったような気がしていた。もしかして、と私は背後に振り返った。カウンター席に腰かけているネコマさんが、小さく、あくびをした。むにゃむにゃ、という効果音が聴こえてくるようだった。
ネコマさんは、事務仕事が終わったのか、帳簿を閉じると、カウンターテーブルに飛び乗って、そこから、ぴょんと器用に床に飛び降りた。彼は、私の座る机の真向かいの席まで歩いてきて、そこにちょこんと座った。前足をつかずに、腰だけで身体を支えている。
「ここ、よろしいですか?」
よろしいもなにも、すでに座っていたので、いまさらよろしくないもない。私は頷いた。
「もちろんです」
ネコマさんと話すのはとても面白かったので、大歓迎だった。
ネコマさんはベストの右ポケットから、煙草と百円ライター、そして携帯灰皿を取り出した。コンビニもないこのへんに煙草の自販機が、はてあったろうか、とふと思った。
ネコマさんは、前足両方を使って、煙草を口から器用に離した。猫の足で、よくもまあそんなふうに上手に煙草が吸えるものである。私は、ほほう、と感心した。そして、ネコマさんは美味しそうに、口から煙を吐き出した。「吸っても、構いませんか」ネコマさんは、いつも確認するタイミングが、ずれているようだ。
「ええ」私は同意した。
ほんとうは、私は煙草の煙が苦手だが、なぜかネコマさんの煙草には不快さはまったく感じなかった。こころなしか、普通の煙草よりも柔らかい香りに思った。
「見たところ、雪をすべりにきたようには、お見受けできませんな。大友さん、もし、失礼でなければ、なにを目的とした旅なのか、話していただけませんか」
私は頷き、旅の目的を話し始めた。
「黒姫館に来たのです」
「なるほど。では、なぜ、黒姫館へ?」
「黒姫という名がいい」
私は一言つぶやいてから、目を閉じ、軽く、陶酔した。
「確かに、良い名です。しかし、黒姫とは、ただの長野県のひとつの地名に過ぎません。この町の名ですよ」
「黒姫館という、言葉の並びも、格別にいい」私は言うと、ますます、陶酔した。
「そこは、よくわかりません」
ネコマさんは、そこは同意しなかった。けれど、私の陶酔はくじかれることなく、続いていた。
「で、なぜ、黒姫館へ?」
「今、説明したとおりですが」
「どんな場所だかご存知ないのですか」
「さっぱり存じません」
「つまり、大友さんは、黒姫館という名のつく場所に行ってみたかっただけなのですか」
「そうです」
私は、会社に出勤もせずに電話も入れずに携帯電話の電源を切って新幹線に乗り込んで長野まで来た。その理由はしごく簡単で、黒姫という名がなんとも素晴らしいからだった。
黒姫館となると、さらにいい。
ことさら重要なのは、トリップしていても、ネコマさんの喋りは、なんら影響がないということだった。相手の心情をまったく損ねることなく、柔い抑揚の声で口を挟む。このひとは天才なのではないか。
「ところで、大友さんは、その黒姫館のことを、どこで知ったのですか。人から聞いたのですか」
「いいえ、電車のなかです」
「では広告かなにかで」
「いえ、そうではなく、電車のなかで聴こえてきた話し声から、知りました」
ふんふん、と熱心にネコマさんは頷いて聞いてくれていた。私はこのひとにならば、いくらでも喋れるような気がした。幼少の頃に見ていた風景もあますことなく思い出せるような気がした。だからこのように長い話をはじめた。
ことの始まりは昨朝だ。通勤電車のなかだった。私はいつものようにシートの角に腰かけて、朝刊を三つ折にして、見出しに目を通していた。乗り換えの激しい駅で、乗客が入れ替わり、私の斜め前に高校生が乗ってきた。紺のタイを締めた女の子二人組である。縁なし眼鏡の黒髪を肩にくっつけた地味な女の子と、頬紅の薄化粧をほどこして、髪を淡く茶の色をつけてお団子にくくっている女の子だ。
ふたりは長い間だまって視線も交わさずに並んでいただけだったので、制服が同じなだけの他人なのだと認識していた。
しかし、二駅ほど過ぎた頃、突如、なんの前触れもなく、声がした。
「さっきの話だけど、その子の名前は、くろひめっていうの。黒いお姫さまと書いて、黒姫」
眼鏡の子だ。
ひどく聞きづらい、細い声だった。
眼鏡はお団子に、真面目入った顔で話をしていた。お団子は、それほど真面目に聞いているわけでもなく、携帯電話の画面を見ていた。私は三面記事から目を逸らし、眼鏡の少しふっくらとした白い頬の輪郭を盗み見た。目はなにも映していなかった。言葉の対象を見出すことなく、ひとりごとのように、もそもそとした低い声を発する。
「その子は、古い洋館に住んでいるの。黒姫館というところ」
眼鏡はそれきり、黙った。
私は知らないうちに汗をかいた。その話を聞いているだけで、新聞を握る手に力がこもり、インクの染みが指についてしまった。
耳は眼鏡の発するひそやかな口調の言葉だけに傾いていた。眼鏡はお団子が聞いていないことに気づいてか、その話を続けることを諦めてしまったかのように、黙っていた。その他、車輪の音、その他の客の笑い声、車内アナウンス、携帯電話のメロディ、すべてを押しのけて私は眼鏡が黒姫についてもっと話をすることを望んだ。
「へー。どこにあるの、それ」
話半分に聞いていたお団子が、メールを打ち終えたらしく、眼鏡にチラとだけ視線を投げた。話を繋ぐためだけに発せられていた。どんなにやる気のない相方であろうと、話を繋げてくれたことに心から感謝した。
「え?」
「その、場所だよ。建物の」
「黒姫だよ」
「ん、どこそれ」
「たくさん雪が降る、高原」
「そんなとこあるんだ」
駅に停車した。ふたりの女の子は当然のように動き、下車していった。
それだけだった。
じっさい、黒姫館がどんな場所なのか――それ以前に、実在するのか――私は一切の下調べをしなかった。クロヒメという響きと、真っ暗な黒髪の姫を思わず漢字の並びだけで、じゅうぶんだ。その名は、貯金をはたき、会社を無断欠勤し、雪のサトに向かうほどに、素晴らしい。
黒姫館という名の建物に、心はまっすぐに、向かっている。
「では、黒姫高原が長野県にあることも知らなかったのですか?」
「そうなんです。会社に着いて、同僚に尋ねてから、ようやく知ったのです」
「それが昨日のことなのですね」
「ええ」
「昨日の今日とは――大友さんは、フットワークが軽くていらっしゃいますね」
ネコマさんは愉快そうに目を細めた。私もネコマさんに笑ってもらえると、たいそう愉快でたまらなかった。
「その夜、僕は〈黒姫〉の夢を見ました。いや、そうではなく、〈黒姫〉のことを思いながら眠りについたのです。一晩中眠れませんでした。ずっと〈黒姫〉のことを考え続けた結果、このような結論がでました。あの眼鏡の少女が言っていた、黒姫館には、〈黒姫〉という名の、いかした娘が、屋根裏に住み着いているのです。光が筋上にしか差し込まない、まっくらで狭苦しい、かびだらけの部屋です。〈黒姫〉はひとりぼっちでそこに住まっています。〈黒姫〉は、昼間には、のんびりとたっぷりのお昼寝をします。そして、夜に、活動します。住人が寝静まった夜中に、ねずみのようにこっそりと柱から降りてきて、一階に降り立ちます。暗い部屋でも夜目が利くのです。〈黒姫〉の大きな黒目が、すこしふくらみます。〈黒姫〉は、こっそりこっそりと歩き始めます。〈黒姫〉は食べ物をあさり、冷蔵庫の中のものを、拝借します。たとえば、チーズだったらひとかけら。ワインだったら一舐め、フランスパンだったら小分けにきったものを一つまみ、ラズベリージャムをのせて、摘み食いするように、もぐもぐと食べてしまいます。それで、一日の食事は終了です。気付かれないように、ちょこっとずつだけ、食べて、あとは、いたずらを考えます。たとえば、小さな男の子の部屋の、怪獣やプラモデルが飾られている棚を、ほんのちょっとずつ、人形の立ち位置を変えます。気付かれるか、気付かれないか、その程度です。また、よくなくなる台所の軽量カップと、紅茶の葉っぱを蒸す金網を、床下に隠してしまいます。廊下には、つるっとすべりやすくするために、ほんの少し、ワックスを塗ります。ひとしきりの思いついた悪戯をやり終えると、〈黒姫〉は、屋根の上にのぼります。そして、ぺたんと床におしりをつけて、星空を、いつまでも、いつまでも眺めます。夜が明ける頃まで、眺め続けて、流れ星を五〇個も数えるころに、また、もそもそと降りていって、屋根裏部屋に戻り、まるくなって、眠りに落ちます。〈黒姫〉は、気ままで、さびしい、独り身の生活を、送っています。その娘は、僕が会いに行くのを、ずっと、待っているのです」
私が話す間、ネコマさんは、ほう、ほう、となんども相槌を打ってくれたので、私も、調子にのって、ついつい、喋りつづけてしまった。
「大友さんは、想像力も巧みでいらっしゃる」
「いやいや、とんでもない」
想像力ではなくこれは本当の話なのだと主張しようかと思ったが、証明するのが困難なので、やめておいた。
「なるほど。よくわかりました。ところで、大友さん」
ネコマさんは吸い終えた煙草を、灰皿におしつけて、丁寧に火をもみ消した。
「うちにも、黒姫がおりますよ」
私はネコマさんを見つめ、え、と声を上げていた。
「ほんとうですか?」
「ええ。あの、メイドです。彼女は、クロヒメという名です」
「あの子が? 本名ですか」
「ええ」
私は黒髪のメイドを脳裏に思い描いた。さきほど会ったばかりなので、想像は容易である。わりと小柄な、年頃の娘だ。
正直、私はあの娘の名前が納得しかねていた。ただの平凡な娘に黒姫という称号が与えられていることに、がまんならない、と憤慨した。あれは私の〈黒姫〉では、ないのだ。
「でも、あの娘は、お金で雇われている人間でしょう? 仕事もこなしている。僕の〈黒姫〉とは違いますよ」
反論するが、ネコマさんは穏やかに、怒りの私をたしなめた。
「いや、あれは勝手に、このホテルに住みつきましてね。毎晩のように、食料を盗まれるものですから。それなら、いっそのこと、働いてもらおうかと。名もない娘でしたので、クロヒメ、と呼ぶようになりました」
「名もない? 記憶喪失なのですか」
「そういうことですな。まあ、ようするに、私が父親がわりなのです」
メイドが頑として主人と口をきかないこととそれはなにか関連があるのかもしれない、と思ったが、どんな関連かちっとも分からなかった。
「なぜ、クロヒメという名をお付けに?」
「ここが黒姫という地域だからです」
「女の子に、生まれ故郷の名を付けるものなのでしょうか?」
「田舎ですからね。それに、私は不精ですから。ほかに気の利いた名が思いつかなかったので」
その時、スプーンと食器がすこし擦れる音がした。ネコマさんと私は、いっせいに後ろに向いた。
メイドのクロヒメが、猫ほどの静かな気配を漂わせて、ゆっくりと歩み寄ってくる。私の前に、湯気をたてたスープ皿を置いた。
「ありがとう」
内心むかむかしながらも、私は、お礼を言った。クロヒメは、さらりと、無臭で、清潔な香りがした。
「さあ、ごはんよ」
クロヒメがこってりした油ののった魚の煮物を据えたプラスチックの皿を手に、ゆっくりとかがみ、遊びを続けていた白猫の前に置いた。白猫はごはんを前にすると、おとなしくお座りをして、むしゃむしゃと、ブリの肉をかじりはじめた。
「大友さん、先ほどのお話ですが」
クロヒメはかがんだまま、上品なのに表情の乏しい顔を向けた。やはり、遠い。私の〈黒姫〉ではない。
「これから、その黒姫館へ行かれるおつもりですか?」
「ええ、そのつもりです。この天気では、しばらく足止めでしょうが」
「出かける際には、このあたりの地図をお持ちください。コピーを差し上げますわ」
「それは、どうもありがとう。あなたは、黒姫館についてなにかご存知ですか」
「いえ、存じませんわ」
私はその言葉に、地元の人間が知らないのでは、相当に知名度が低いのだろうと推測した。
「聞いたこともないのですか?」
「ちっとも」クロヒメは真顔で客の目的地を全否定した。
「ああそう。じゃあ、自分で探します」
「そうなさってください」
見下されているのかもしれなかったが、私があると思ったのだから、黒姫館はぜったいにあるのである。それに私は、あの電車で行き会った眼鏡の女の子を心から信用しているのだから仕方がない。
「ふうむ……」
ネコマさんは、ポケットから懐中時計を出して眺めながら、そわそわと肩をゆすった。
「ああ、もう夜も更けてしまったな。真っ暗では、さすがに今から来ることはないだろう」
「え、なんの話です」
私はわかりながら、会話のために問うた。
「吉良次郎くんのことだよ。里美吉良次郎くんといってね。さっき聞いていただろう? うちの常連客なんだ。なあクロヒメイドうして、吉良次郎くんは来ないんだろう。そんなこと、今までだったら考えられないな」
クロヒメは下を向いて食器を片付けようと積み重ねているところだった。この話題には耳も貸さない心積もりらしい。
「そうですね。ふつうに考えて、この天候に、身の危険を感じたからではないでしょうか」
私が代わりに言うと、ネコマさんはかぶりを振った。
「いやいや。彼は雷雨のときにも来たし、濃霧で一メートル先も見えないときにもやって来た。天候には左右されないはずだ」
「人間ですから。なにかの事情で、来られないときもありますよ」私は深刻な顔を見せるネコマさんを心配した。
「きっと、たいしたことではない」
「ううむ。でも、もしかして、吉良次郎くんの身に、なにかあったのだとしたら」
ネコマさんは、まるで同居している息子が帰ってこないことを心わずらうように、吉良次郎くんに心を寄せていた。
そんな心配をよそに、クロヒメは、嬉しさをこらえきれずに、ふふふ、と含み笑いを漏らした。おや、と思って私は彼女に視線をむけた。トレイを胸に抱えるように持って背を向けた。なるほど、笑うとこういう顔なのだな、と私は思った。
「今、もう来ないだろうと思ったね、クロヒメ?」ネコマさんはクロヒメに向かって反論した。
「いや、そんなことはない、彼は明日には来るはずだ。きっと」
ネコマさんはそう告げて、私に頼むように視線をよこした。ネコマさんの茶色い、透き通った瞳から、光が放たれ、まっすぐに私に突き刺さってきた。
「ええ、きっと。僕もそう思いますよ」
私は肩を背もたれにあずけて、ネコマさんに言った。ネコマさんの柔らかいほほ笑みが返ってきたので、私は心地よく瞳を伏せた。
*
窓には、雪風がまだふきつけている。
がたがた、と木枠が揺れる。
ごうんごうん、と風に叩かれ、建物がきしむ。
そんな音も、身体の芯から疲れていた私には影響がなかった。軽い夕食をとると、子どもが夜になるのを待てずに眠るような時間帯から、すやすやと眠り始めた。
このホテルには客がめったに来ないことが予測されたが、ベッドはきちんと整備されていた。ツインベットの片側の、糊のついたぱりっとしたシーツで、私は、深く、遠く、眠った。
目が覚めて、まぶたを開くと、まだ暗かった。まだ、雪が止んでいないのだろうか……後頭部に硬いものが当たっていた。肩がやけに凝っている。暗闇が広がっている。香りが硬質で、冷たく、無臭だ。眠りについた部屋とは別のものだった。
私は、ようやく、異変に気付いて、上体を起こした。毛布一枚すらない、フローリングの真上で、身体を横たえていたらしい。背中じゅうが痛かった。しかし、不思議と、寒さは感じなかった。
試みてみたが、腕が動かず、指先の感覚が失われていた。見れば両腕は、背中のところでロープで縛られ、私は床に転がされていたのだった。
私は立ち上がろうと順番に足を伸ばしたが、頭の天辺が、ごんっと天井にぶつかった。まっすぐに立てないので、膝を曲げて座り込んだ。天井が低すぎる。
そこは、屋根裏部屋だった。
闇に慣れてきた目で、私は辺りを見回した。光のない空間には、木と霜の匂いだけしかしない。私は、屋根裏部屋に監禁されているらしい。
屋根裏といえば、すぐに〈黒姫〉を思い浮かべたが、人の気配はしない。誰かがいるとしても、いいところ、鼠くらいのものだろう。
「事情を察してくだされば、と思います」
聞き覚えのある声が、真下から聴こえた。梯子をギシギシときしませながら、女が屋根裏まで上ってきた。手にはわずかな明かりを灯したランプを提げている。
室内が照らされ、黒ずんだ壁ばかりが四方を囲みこんでいる部屋だけが私の目には映った。私はあぐらをかき、落ち着いた心持で、座り込んでいた。
私は現れた黒い女に目配せした。
クロヒメだった。
クロヒメは、エプロンを外し、野暮ったい黒いワンピースと黒タイツという、真っ暗なものをまとってやってきた。
「事情とは?」
私は密やかに尋ねた。こんな夜の闇で、わめいても誰も助けに来ないことは分かりきっていた。メイドであるクロヒメが、せっかく来た珍しい客を監禁するほどの事情が、あるというらしい。
「ご主人さまが大変なのです」
「ネコマさんのことですか」
クロヒメは頷いた。
「ひとつ、尋ねてもいいですか?」
「ええ」
「なぜ、大友さんは、ものごとに驚かないのですか?」
私は少し考え込んだ。
「そうですね。あまり驚きませんが、変でしょうか。あなたも僕を脅している割には、とても落ち着いていますよ」
「緊張して全身の感覚がありません」
「暗くて、よく判別できませんね」
「もう、いいです」
クロヒメは、そっと、ため息を付いたようだった。私が座り込んでいる場所から少し離れた、隅っこのほうに、膝を抱えて、座り込んだ。暗い部屋で、ぼんやりと浮かび上がる明かりを挟むと、学生の頃に行った怪談話をほうふつとさせる。
「ご主人さまはあの通り、どんどん猫になりかけています」
「猫?」
「ええ。猫です」
クロヒメは断言して、繰り返した。
「ご主人さまは、もとは人間でした。でもある日ご主人さまは、身体が縮みはじめました。茶色い体毛も生えてきました。肉類が好物だったのに魚を好むようになりました。ふいに、にゃあ、と鳴くようになりました。今はまだ、かろうじてホテルの主人として仕事をこなし、人語を理解し、しゃべることができています。でも、確実にご主人さまは完全な猫に向かって進んでいます。にゃあ、と鳴く回数は日増しになり、一日五〇回ほど鳴くようになりました。カウンターからジャンプして降りるようになりました」
私はネコマさんの様子を思い起こした。確かに彼は、猫のような人間のような、奇妙な身体をなしていた。ネコマ、という名前が似合う男であった。
「なぜそんなことになったのか、理由はわかっているのですか」
こくり、とクロヒメはわずかに頷いた。
「〈猫魔〉の呪いです」
「え、ネコマさんの呪いですか?」
じぶんで我が身を呪うとは、いささか、シュールである。
「違います」クロヒメは少し怒ったらしく、わずかに口調を強くした。
「このホテルには〈猫魔〉の呪いがかかっています。だから、お客さんもほとんどいらっしゃらないのです」
お客さんが来ないことを、よくわからない呪いのせいにしてしまうのは、割と強引で、こじつけの感が否めなかったが、聞き流した。
「それが、猫になってしまう呪いというわけですか」
「そうです」
「でも、お見受けしたところ、あなたは猫にはなっていないようですが」
「わたしも徐々に猫になっています」
そう言われ、はあ、と生返事をして私はクロヒメをじっと観察した。クロヒメはどう見てもただのメイドの娘だった。どちらかといえば瞳が切れ長で、猫目の部類に入る。しかし、犬か猫かで人間をおおまかに二分類した場合に彼女は猫である、という強引な分類方法だ。
「とてもそうは見えませんが……」
私が正直に、そう言った。しかし、クロヒメの頭に、黒い耳が、ひょっこりと生えていた。私は幾度か、まばたきをした。数秒もすると、耳は幻だったかのように、かき消えていた。
「あなた、コスプレイヤーですか?」思わず私はそう尋ねた。
「コスプレイヤーの意味がわかりかねます」
クロヒメは大真面目に、黒い瞳を闇の中に黒光りさせて、答えた。そうとう、怒っているようだ。
監禁されているのは私の方なので、怒らせるのは下手なやり方だった。
「わたしは、若く、体力があるので、猫になる速度が遅くて済みます。けれど、ご主人さまは、そうはいきません。中年なので」
「あの、悪いのですが、核心をついてもいいですか? 猫になる前に、さっさとホテルを出て、逃げればいいのではないかと……」
「ご主人さまはこのホテルが命なのです。今は亡きお父様から譲り受けた、遺産であり、生きる証です。いわば、ご主人さまの故郷そのものと言えるでしょう。〈猫魔ホテル〉を捨てるわけにはまいりません。わたしは、ご主人さまを説得しました。けれど、あの人はここを出る気はないとおっしゃいました。ご主人さまはじぶんが猫になっていることに気付いていらっしゃいません。わたしは思い切って『猫のすがたになってもいいのですか』と、ご主人さまに問いました。でも、『たとえ猫になっても蜜蜂になっても、私はここにいる』と彼はおっしゃいました」
「あの、ちょっといいですか。あなたは、ネコマさんとはまったく喋らないのでは?」
「ええ、喋りませんわ」
「じゃあ、今の会話はどうやって?」
「わたしとご主人さまは言葉を交わす必要がありません。心で通じ合えるのです」
「こう言っては難ですが、うさんくさいですね。ネコマさんは話しかけてくるのだから、応えればいいのでは? あなたはこうして言葉をきちんと喋れるのだから」
「……胸が詰まるのです」
「はあ」黒い衣服で覆われた胸に手を当てるクロヒメは、半分だけ目を伏せた。
「あの人と一緒にいると、言葉なんかどうでもよくなります。言語の価値は一瞬で消えうせるのです。だから、なにも、答えることができないのです」
話を聞く限り、当人は幸せそうだし、いいではないか、と思わないでもなかったが、人間が猫になって生活するというのは、さぞかし不自由であろうと思われた。そもそもが、完全な猫になってしまえば、ホテルの経営じたいが、仕事として立派にこなせなくなるだろう。人間だったときの記憶や認識も薄れてしまうかもしれない。
しかし、今のような、半分人間で半分猫、といったような状態のネコマさんのままでいるぶんには、なんら問題はないような気がした。ただし、それはきっとかなわぬことなのだろう。
「では、僕も同じなんでしょうか。僕も猫に?」
もうすでに、気付かないうちに猫になっている可能性もあるのだろうか。
私は視線を落とし、身体を確認した。じぶんは、平均的な三十代の健常者の男の身体と思われたが、猫になっているのを認知できないだけで本当は猫になっているのかもしれない。人間はじぶんが雉でもなくオランウータンでもなく人間であることなど、いちいち確認しながら生活していない。じぶんの肉体を平常だと信じて――信じるという意識さえ持たずに――過ごしている。猫でも同様に、じぶんが猫である(猫という言葉の認識は持たないとしても)ということを考えずにそれそのものとして、あくびをしたり毛づくろいをしたりする。私の目に猫の身体に見えなくとも、それはさして決定的な証拠ではない。違和感をおぼえることなく自然の摂理のうちに猫になっていたとしたなら、私にはその変化を永遠に実感することができない。
と、色々と考えをめぐらせてはみたが、本当に猫になっていたら、こんなに人語である言語を介して思考をめぐらすことができることが、猫になっていない証拠ではないだろうか、と思えてきた。
「大友さんには今のところ、その兆候がみられません。きっとわたしと同じく、期間は長くかかるでしょう」
いったいどういう基準で判断しているのか、わからなかったが、自信たっぷりのクロヒメには、せっつく隙がなかった。
主人がもうほとんど猫。メイドも猫耳。実際を見せられてしまえば、すでに私の右手の小指や、右側の肝臓が、猫のそれに変化していても、おかしくはなかった。
「ではあの青年は? 毎晩ここに来ているという、吉良次郎くんはどうなんです」
「あんな人、知りません」
クロヒメは即答し、それ以上の説明はしなかった。そこで私は、その青年は〈猫魔ホテル〉の滞在時間が短いことで、大した影響はないのだろうと判断した。
「お願いがあります。大友さん、〈猫魔〉の呪いを解いてください。そうすれば、この宿から出してあげます。ずっとここに留まれば、大友さんだって、いずれは猫です」
「ああ、それは困った」
私は、監禁されながらも、まったく困っていない口調で言ったので、クロヒメは、そこが不満のようだった。
「もっと困ってください」
「それは、無理です。でも、〈猫魔〉の呪いというのが一体なんなのか、正体がなにもわからないのに、来たばかりの僕に解けというほうが、無理な話ですよ」
「わたしにもわかりません。呪いを解く方法を、ずっと、一人で探しているのです。仕事のない間は、いつも考えています。でも、わからないのです。承知してくださらないと、ここに、ずっといてもらいます」
「春になるまで?」私は尋ねた。
窓のない屋根裏の隙間から、薄く細い光を見た。
2
夢見が悪かったのか、それとも強く激しい雪風のなかで歩き疲れたのか、二度寝のあと目が覚めたのは昼下がりに近かった。重たいベージュのカーテンを開けると、これこそが呪いだと言わんばかりに、窓にはいまだに雪がたたきつけていた。これでは、身動きはとうぶん、かないそうもない。
帰るも、帰らないも、私に選択権はなかった。
私は私服に着替えると、スリッパを履いて部屋を出た。一階のラウンジに行くと、昨夜のままのように、ひと気がなく、静まっていた。時計のうえでは、もう昼食の時間すら過ぎているが、太陽光はないし、昼間であろうと変わらず、薄暗く、周囲に住宅や商店などの建物も一切ない孤立した宿なので、漂流しているかのように、静まったままだ。ここには時間が存在しないかのようだった。
とはいえ、今から夜までなにも腹に入れないのは困ると思った私は、朝食と昼食を兼ねた軽食かなにかでももらえないのか、だいたい料金の中に含まれているだろう、時間を過ぎたらもう出してもらえないのか、とふつふつと一人で考えながら、テーブルのまわりをうろついていた。
カウンターを覗いても、ネコマさんはいなかった。クロヒメの姿もなかった。仕事もせずに(といってもこんな秘境の土地で客もなくたいした仕事もないであろうが)、一体何をしているのだろうか。
私はしかたなく、食堂の奥にある厨房の扉を開けて、中を覗き込んだ。大して活用しているとも思えないほど整然とした印象の、こぎれいな厨房だった。大きな冷蔵庫の中には、カニがまるごと、鮭がまるごと、スイカがまるごと、など、いずれも調理されていないものが詰まっていた。冬季になぜスイカがあるのかと疑ったが、色彩はきれいだったので気にしないことにした。
私は最下層の棚に、カチカチに固くなったベーグルサンドを発見した。これを電子レンジで暖めるのも気が進まずに、自然解凍しようと、ペットボトルから湯のみにお茶を汲んだものと一緒に、食堂へ運んだ。一人で摂る食事は思った以上にぜいたくで、静かに心は晴れていった。かなり品度が落ちたベーコンレタスベーグルサンドではあったが、私は昔から、食べるものにはうるさくないたちであった。口に入れば皆おなじ、食べられるものならなんでもいい、飢えなければ構いもしない。
食事が終わって、たっぷりと食休みを取り、食器を片付け、ついでに水洗いをした。その後、軽くホテルの中を視察することにした。他にすることがなかったのである。ここには、長期滞在する予定もなかったので、最低限の着替え以外に、ほとんどなにも私物は持ってこなかった。
別段、昨夜クロヒメがなんやかんやといっていたことは、たいして気になっているわけではない。呪いがほんとうにあるかどうかはさだかではないが、ネコマさんを猫にさせているなんらかの原因がひそんでいるに違いない。
先ずは一階のフロントから始めた。カウンターの出入り口には律儀に、およそ無意味と思われる鍵がかかっていて、入れなかった。しかたなくカウンターテーブルをまたいで、内部に侵入した。
棚は引き出しになっていて、どこを引いても、錠がしてある。このへんは、ぬかりないようだ。客の個人情報などを盗んでも意味はないので、私はカウンターをそのへんで切り上げた。
一階にはめぼしいものがなかった。地下にはワイン庫でもあるのかもしれないが、むろん、客が入れるようになっていないだろう。調べるといっても、あたりまえの話だが、主人に管理されている限り、私にはすき入る暇がない。
次に二階へのぼり、私が使用している部屋以外を、ひとつひとつドアノブをひねってみたが、びくともしなかった。客間はぜんぶで五部屋しかなく、あとは奥部屋のスタッフルーム、つまりネコマさんの私室だった。思えば、どこにも、クロヒメの部屋がないような気がしたが、まあいいか、とすぐに忘れた。
私はネコマさんの私室の前に辿り着くと、なにか壁に木の札が掛けてあるのを見つけた。
『お昼寝中』
と毛筆体で書いてあった。
確かに、猫になりかけているネコマさんには、成人の人間と同じ量の労働をするのには体力的に無理がある。子猫は一日十八時間眠るというのを、なにか本で読んだことがあった。成猫でも昼寝をするのは道理だった。私は腕組みし、なるほど、と唸った。だからひと気がまったくなかったのだ。
できれば、今ここでネコマさんの寝室に侵入して、私物を物色するべきなのかもしれなかったが、さすがに気が引けた。
ネコマさんの寝巻き姿、ネコマさんの歯磨き、ネコマさんの……。さまざまな付属品まで思い浮かべそうになり、想像を打ちとめた。それら、めくるめく一連は、見てはいけないものの部類に入るだろうと思えた。
ネコマさんの部屋の扉から目を逸らすと、奥まった場所に、小さな部屋をひとつ発見した。扉を開けると、真っ暗な二畳くらいの部屋だった。蛍光灯の明かりを灯すと、そこには、掃除用具や、ティッシュ箱やトイレットペーパーのストック、缶詰の山などが詰まっていた。掃除用具の倉庫として使っているようだ。
ふと、倉庫のなかに動く気配を捉えた。
猫が三匹、端っこの毛布の上に、いすわっていた。白い子猫、茶色い猫、大きな灰色の猫、の三匹である。いずれも仰向けになって、毛布の上ですやすやと昼寝をしている最中だった。白猫は昨晩、夕食の席でみた子と同一であろう。このホテルに、住み着いているらしい。
「鈴木さん、おはよう」
とつぜん背後から声がした。
「僕は鈴木ではないですよ」
私は、現れた娘に、声をかけた。
「知っています。わたしは、この子に挨拶したの」クロヒメだった。クロヒメは、すっと部屋に足を踏み入れると、毛布のなかで眠る、鈴木さんという白猫を見下ろした。
「阿部さん、おはよう。窪田さん、おはよう」
言いながら、クロヒメは、茶色、灰色の順に猫を愛でるように、それぞれの頭の毛にそっと触れた。
「どうやらあなたには、名づけのセンスがないようですね」
「この子たちは、かつての人間のお客さんなのです。いずれも本名なので、センスの問題ではないです」
クロヒメは白猫を撫でながら、反論する。どっちにしても、センスの問題なのではないかと、私は思った。客だったとしても、今は完全な猫に見える。
「ところでメイドさん。このホテル、鈴木さんたち以外にも猫を飼っているのですか?」
「いいえ。通常はホテルで猫なんか飼いませんわ。鈴木さんたちは、こういう事情だし、特別にうちで保護しているのです。なぜ?」
「いえ」私は顔を逸らしてほほ笑む。「ここには本物の猫が一匹もいないなんて、なんだか不思議ですね」
「それより、わかりましたか」
「なにがです」
「呪いを解く方法」クロヒメは白猫の鈴木さんがお気に入りらしく、睡眠中の鈴木さんの腹を撫でて、遊んでいた。
「そんなすぐにわかるわけがない」私は口調を強めた。
「それは、いわゆる、逆ギレですか?」
「違います。普通の怒りでしょう」
逆に切れるのは、自分に非がある場合に相手を責めるときである。クロヒメは、どこか言葉の使い方がずれていると思ったが、それはネコマさんが少し話していた、「育った環境が恵まれていなかった」に由来するものなのだろう。特に突っ込んで尋ねることは、避けた。
「ご主人さまのお昼寝の時間は、徐々に、長くなっています。最初はほんの一時間ほどでした。今は毎日、五時間は眠っていらっしゃいます」
「それは、寝すぎですね」
「そんなごくふつうの感想を、言わないで下さい」
では他にどうしろというのだ。私は、クロヒメとの会話をあきらめた。
*
客間からラウンジに降りていくと、カウンターにいるネコマさんが見えた。椅子に腰掛け、右手で頬杖をつき、左手で、なにやら分厚いファイルのルーズリーフに、帳簿をつけているようだ。文字は書けるのだろうか、と見つめていると、ネコマさんは顔を上げた。
「に、に、に、……ごほん。こんばんは、大友さん。いい天気ですね」
もしかして、ネコマさんは、にゃあ、と鳴こうとして、人間としての本能がそれをせき止めたのかもしれなかった。
「もう夜だというのに、今日はじめてお会いしましたね」
「ええ、こんばんは」
私は挨拶を返した。そういえば、もう夜が近づいてきている。今日は、昼まで寝ていたこともあるが、本当になにもしていない。
「しかし、いい天気ではありませんが」
「いやいや、それでいいのです。挨拶とは、えてして、意味をともなわないものなのです」
ネコマさんは、そう言うと、おっほっほ、と笑った。私は、のほほんとした彼の笑いかたが、とても好きだった。
昨日と違い、ネコマさんは、サスペンダーでチェック柄のズボンを吊るし、ブラウスには赤いタイをつけていた。猫には見えるが、人間だった頃も、そうとうの、おしゃれな紳士だったに違いない。猫用の衣装も、いったい、どこで調達してくるのだろうかと思えるほど、ネコマさんの肢体にぴったりと合う服装であった。
後ろから、クロヒメが、夕食をトレイに載せてやってきた。ごろごろと角ばった玉ねぎが表面に見えるビーフシチューである。
「どうも、こんばんは。おいしそうだね」
返しながら、そのとおり、挨拶はなんと無意味なものか、と私は思った。
クロヒメは返事もせず、小首をかしげた。ネコマさんと口をきかないどころか、ネコマさんを前にすると、私との会話も自粛するらしい。その本意がよくわからない。
「ベーグルサンドも、きみが? 意外に器用なんだね」
ネコマさんの前で私と公共的会話をするのが、迷惑きわまりないらしく、クロヒメは一礼して通り過ぎ、テーブルに食器類を並べるのに忙しくしていた。
現在、〈猫魔〉には従業員と客を含めて三人しか居ないため(むろん、ネコマさんを一人と換算して、である)、それぞれ別に食事をとっても味気ないとの理由から、私は、ネコマさんとクロヒメと一緒に朝食を囲むことになった。
クロヒメが三人分のスープを運び込んでいるところで、ネコマさんが、ふいに告げた。
「そういえば、クロヒメ」
クロヒメの肩がぴくりと震えた。名を呼ばれるだけで、クロヒメの暗い混沌とした表情には、明るみが射した。
「吉良次郎くんは、今日も来ないんだろうか」
またその話か、という失望の色がクロヒメの瞳をかすめた。
「いつもは夕食の準備が整う頃には、席に着いているものな。今夜は、昨日よりは雪が強くはないのに……本当にどうしたんだろう」
「それほど心配なら、彼に電話をしたらどうですか、ネコマさん?」
私は助言したが、ネコマさんは、重苦しい表情で、力なく首を横に振った。
「いや、それはできないんだよ」
「なぜです」まさかこのホテルには電話がないのか、そういえば見かけないが、と私はいぶかった。
「吉良次郎くんには、放浪癖があってね、特定の自宅というものを持たないんですよ。だから、うちのホテルが定住地のようなもので、ここを通して連絡をよこす人もいるくらいで。で、うちから吉良次郎くんに連絡を取るときは、必ず、おしゃれ泥棒屋に連絡を取ることになっていて」
世間一般では定住地を持たない人間を浮浪者と言うが、吉良次郎くんは〈流浪の自由人〉という定評にとどまっているらしい。言葉というのは便利なものである。
「あの。なんなんです、その、おしゃれ泥棒屋というのは」
「ああ、ただの喫茶店ですよ。吉良次郎くんがよく行くところなんです。黒姫駅の近くにある、老舗でしてね。お客さんもほとんど来ないような、寂れた店です。吉良次郎くんは、クロヒメとのデートも、あそこを利用しておりまして……」
クロヒメは止めていた足を大またで動かし、主人を無視してダイニングテーブルにスープ皿を置いた。
「違う。それは、きみがかわいくて、からかっているだけだよ」
クロヒメは目を細めて不満げに振り返るが、ネコマさんはほほ笑んで、取り合わなかった。
「クロヒメ、今日はもう遅いから、おしゃれ泥棒屋に、吉良次郎くん宛に電報を打っておきなさい」
いまどき連絡手段として電報を打つ人がここに存在したことに、私は感激した。
「電報は115だよ」
クロヒメはうなだれ、こくんと頷いた。従順なメイドになり、席を立つと、いそいそと階段をあがっていった。電報を打つことは、このホテルではよくあるようだった。
クロヒメの操作は、ネコマさんにはお手の物である。今度からは、いちいちネコマさんの名前を出して話をすれば、スムースに進むかもしれないな、と私はひそかに学習した。
「さて、少し雑談でもしましょうか」
「ええ、そうしますか」
私はネコマさんに同意した。雑談とは、さて雑談をしよう、と取り決めしてからするものではないような気もするが、ネコマさんに提案されてしまったら、もう私たちは、雑談をするしかない。
「ネコマさんは、お米とパンならどちらを好みますか?」
私は言いながら、ほんとうに雑談にふさわしい、どっちでもいいような話題だ、と思った。
「そうですね、私は日本人ですから、やはり第一の主食はお米でしょうね。お煎餅、お餅と、バリエーションも利きますし、なにより歯ごたえがあって、食べたという感慨をもたらす、最高の食材ですね」
ニッポンジン、と強いイントネーションで発音するのを、私は黙って頷きながら、聴いていた。
「しかし、パン食も捨てがたいですね。実は私、アメリカ暮らしが長いもので」
ネコマさんの話は非常に好奇心をそそる刺激的な内容で、一言も聞き漏らすまいと思ったが、私はそれよりも、食卓に並ぶ夕食に目がいってしまった。
ビーフシチュー、フランスパン、星型チーズのサラダ、ライス、珈琲。
ネコマさんの人間としての自尊心をそこなわないようにしてか、クロヒメは、せいいっぱいの気を遣っているようだった。キャットフードなどの食事は出さなかったし、缶詰も使わなかった。冬季に、どうやってそんなに食料を保存しているのか不思議だが、お箸もスプーンも用意した、人間の食事だった。ブラック珈琲が、早く飲めとせきたてるように、濃い芳香を立てている。ふつう珈琲は食後の締めに出るものではないかと思ったが、そんなことを気にしている場合ではない。
これは、ネコマさんの身体に悪いのではないか、と私はいぶかった。いくら、ふつうの猫よりも少し背が高く、二本足で歩き、紳士(風のデザインの)服を身につけ、ネクタイを締め、人語を喋り、冗談がうまく、社交場でも人を寄せ付けるような貫禄のある男であろうとも、しょせんは、猫になりかけているのだ。私は、もう心配で仕方なくなって、話半分に、ネコマさんを見ていた。吹雪が止んだら、無理強いにでも、栄養バランスの優れたキャットフードを調達しなくてはならない。
ネコマさんは、クロヒメの意図など気付きもしないというふうに、上機嫌に雑談を続けていた。これほどおもしろい主人なら、食事よりも雑談をメインコースにしてもいいくらいだ。
「それにしても、遅いですね。クロヒメはなにをしているのでしょう。あの娘は少しとろいところがありまして。せっかくの料理が冷めてしまう。先に、珈琲だけでも頂きましょうか」
「あ、ええ」
同意すると、まもなく、マグカップを手に持って、ネコマさんはブラックのまま珈琲を一口、飲んだ。
カラン、とグラスが擦れる音が響いた。
ネコマさんが、珈琲スプーンを手からすべり落とすと、きょほんきょほん、という、くしゃみとセキの中間のようなものを立て続けに出した。きょほん、きょほん、きょほん、と続けた。
「大丈夫ですか?」
なあに、平気ですよ、という顔で、ネコマさんはにこりと笑った。
その時、階段から降りてくる足音が近づいてきた。クロヒメが憮然とした顔で、澄まして近づいてきて、無言で椅子を引いて着席した。
「では、頂くことにしようか」
主人の一言で、食事が始まった。ネコマさんは、再び珈琲カップを手に取った。なおも珈琲に挑戦しようとするネコマさんの勇ましい精神力に、私はひれふすような思いだった。
ネコマさんは、うまそうにものを食べるひとだった。スプーンで、ビーフシチューをゆっくりとうまそうに啜った。こうしていると、なるほど、猫ではなく、威厳のある主人を前にしているようだ。
右側のクロヒメに視線を送ったが、つんと澄ましたままで、行儀よくサラダの紫キャベツを食べていた。
ふたりとも、一言も言葉を発さずに、食事に専念した。まあ、もとからクロヒメは話をしたくもないのだろうけれど。食事中は、喋ってはいけないという決まりでもあるらしい。私もその暗黙の決まりに従った。
しかし、ネコマさんの見事な食べっぷりのおかげで、食欲は彼に吸い取られてしまったかのように、半減した。食後の紅茶をクロヒメが淹れているときにも、皿には半分ほどベーグルサンドを残してしまっていた。
クロヒメが給仕の顔をして私の椅子の傍らに立った。
「ああ、済まないね。口に合わなかったわけではないんだよ。でも、どうも調子がよくないようでね」
私が食べ残した半分のシチューやサラダを、トレイに載せながら、クロヒメは首を静かに横に振った。それから、クロヒメは背を向けた。エプロンの大きなリボン結びが目に入った。
*
「ネコマさん、どうしたんです」
異変に気付いたのは、クロヒメが厨房の奥に姿を消しているときだった。私はネコマさんと談笑しながら、食後に三人でカードゲームでもしようという段取りになった。
「そういえば、たしか、吉良次郎くんが、UNOをうちに置いていって、そのままだったんですよ」と言って、ネコマさんが、保管してあるというUNOを取りに行こうとした。
カードゲームやボードゲームといった類は、だいたいホテルに常備してあるもののような気がするので、なぜ客の方が持っているのかという疑問もあったが、そんなことは一瞬のうちに吹っ飛んでいた。もう、カードゲームどころではなくなったからである。ネコマさんが、椅子の上に直立したまま、焦点のさだまらない目で、ゆらゆらと顔をくねらせているのである。
「あの、ネコマさん。ネコマさん?」
私の呼びかけにも答えない。やがてネコマさんは、腕も肩も張っていられなくなり、べろーん、と椅子から転げ落ちた。私は腰を浮かせて、その様子をただ見守るばかりだった。
椅子から立ち上がり、腰をかがめ、ネコマさんを見た。柔軟な猫の身体なので、怪我はないようだが、椅子の四脚の足元に頭をもつれながら、仰向けになって、完全に気絶しているようだった。
「あ、あの。平気ですか」
ネコマさんは何も答えずに、ゆっくりと呼吸をしはじめた。眠っているようだった。まったく緊張感のない、みごとな猫らしい寝方だった。
いくら疲れていても、なんの前触れもなく、倒れこむように眠ることがありえるだろうか。これは、もしかして、呪いの延長なのでは?
ばたばた、と階段を駆け下りる音が響いた。
クロヒメが、倒れたネコマさんのそばまで駆け寄ってきた。震える手で、ネコマさんに触れるか、触れるまいか、考えあぐね、固まっていた。クロヒメはぶつぶつとつぶやいた。
「どうしよう、ああ、どう、どうしましょう」
クロヒメの頭からは、ひょっこりと、黒い猫の耳が飛び出していた。
「どうなっているんだ」
私はクロヒメの隣にかがんだ。ネコマさんはただ、そのへんの猫があくびをするように、すやすやと眠っているだけにしか見えなかった。
「わかりません」
「単なる、食後の昼寝じゃないのか」
「でも、完全に猫になろうとしているのかも……この眠るっていう行為は、たぶん、変化の兆しですよ。睡眠中に、ご主人さまの身体が、劇的に変化しているんです」
「そんなの、どうしてわかる」
「女の勘です」クロヒメは生真面目に、黒目をまっすぐにネコマさんの閉じた瞳に向けながら、言った。
「よりによって、そんな頼りにならないものを、この場に持ち出さないでくれ」
「なんとかしてください」
「なんとかったって」
私は首をひねった。とりあえず、ネコマさんを安全な毛布の上で寝させてやるくらいのことしか、思いつかない。
クロヒメに頼んで毛布をもって来させ、テーブルを隅に片付け、ネコマさんを寝かせた。ネコマさんは、とてもではないが、危険な状態には思えなかった。息は規則正しく、時折、口元をもごもごと動かしている。楽しい夢でも見ているのだろうか。
「早急に呪いを解かなければ」クロヒメは色めき立って、叫んだ。
「呪い云々の以前に、食事の内容が、まずかったんじゃないか」
私は指摘したが、彼女は心外というふうに肩をいからせて振り向いてきた。
「――大友さん」クロヒメが静かに問う。
「呪いを解く方法を、もう、お分かりなんですね?」
私は、なんとなくだけど予想は付いていた、と白状した。
「きっと、鍵は、ネコマさんの部屋だよ」
「なぜですか」
「きみも入ったことがないんだろう。メイドなんだから、当然だよね」
クロヒメははっきりと傷ついたような瞳を、こちらに向けてきたので、私は、ほほ笑んだ。
「このホテルの中で、きみがまだ調べていない場所は、ネコマさんの部屋しかない。そうだろ? なら、そこに秘密があるに決まっている。ずっと調査していて、そんなことも思いつかなかったのかい」
クロヒメはただ、震える上唇をぎゅっと固く結んでいた。彼女に構わずに、私は階段を登り始めた。クロヒメは、猫耳をしょんぼりと垂らしたままで、すごすごと、あとからついてきた。
なんの抵抗もなく、扉は開いた。
よく考えると、猫のすがたで、鍵を開け閉めするのは骨が折れる。だいいち、こんな重たい扉を開閉するだけでも重労働だ。鍵を開け放しているのは、道理だった。
ネコマさんの部屋は、私が宿泊している一室よりはるかに手狭な部屋だった。猫が寝泊りしていると思えば充分な広さといえるが、最初から猫だったわけではあるまい。
六畳ほどのフローリングに、大きなクローゼットが一台、古めかしい鏡台が一台、シングルベッドが一台、帽子が何個もひっかけられている焦げ茶色のコートスタンド、花柄の深い桃色の絨毯の上に置かれていた。
左手にはトイレが併設されたユニットバスがあったが、そちらも広くはなかった。ただ、シャンプーやワックス、ブラシ、髭剃り、シェービングクリームなど、上質なものが欠品なく揃えられており、整頓されていた。
「きみ、なにか不審な点を感じないかい」私は背後にいるクロヒメに訊いた。
「例えば、どんなのですか」
「呪いの気配だよ。きみによると、僕は鈍感らしいからね、すぐに猫にならなくて済むんだろう。つまり、ずいぶんと呪いにかかっているらしいきみのほうが……」
「何も感じません」
彼女は勝手に主人の部屋を調査していることを恐れ多いと思っているのか、うつむいて何も目に入れようとしない。
「そうか。とりあえず、物色するしかないな」
「気が引けます」
見れば、クロヒメの猫耳は消えていた。これで、だいたい、どんなときに猫耳が出現するのかが、把握できた。
「ポイントは絞ることができる。ふつうに考えて、呪いというのは、誰かの恨みによることが多い。たいがい、もう死んだ人だとか、先祖だとか」
私はひときわ目立つ鏡台の前にかがんだ。鏡は二面の板によって閉じられている。板には赤い蝶の装飾が施されていた。左右に開くと、三面鏡となったので、思わず感心してしまった。今どき、こんな立派な鏡台は、嫁入り道具としても重宝されていないだろう。場所をとる上に、収納できる引き出しが狭く、ここに置かれている理由がつかめない。
「なぜ鏡台がここにあるのか、分かる?」
「いいえ。でも客室用の鏡台には見えませんね。古い家具みたい」
私は三つしかない引き出しを順々に開けていった。マッチやティッシュ、乾電池、輪ゴムなど、たいしたものは入っていない。三番目の引き出しに、写真立てが伏せて置かれていた。私は木枠の写真立てを手に取った。
枠にはめ込まれている写真のなかには、少し太った女がいた。年齢は三十歳前後ほどで、口元にホクロがあり、気がよさそうにカメラに向かって、ほほ笑んでいる。
私はそっと、写真の上に手をかざした。写真を覆っている透明なプラスチック板には、亀裂が入り、みっつに割れていた。さらに、写真には、爪で引っかかれたような跡があり、真ん中の顔の部分が、三本の細い線で引き裂かれていた。見ていて、あまり気分がいいとは言えない。
「誰だろう」
私はクロヒメにちらりと目配せした。クロヒメは暗い瞳で、私が提示した写真の女を、一秒にも満たない間、思いつめた目で見つめて、すぐとりやめた。
「知らない人です」
「たぶん、ネコマさんの、母親か、奥さんか、恋人だろうね」私は全く当たり障りのない解釈をして、述べた。
「つまりこの鏡台は、その人から譲り受けたものだろう」
「ええ、そうでしょうね」
クロヒメも同意する。彼女の表情は平静そのものだったが、猫耳がとつぜん、出現し、ぴんと緊張に張りつめ、いきり立っているように見えた。
「でも、なんで、傷ついているんだろう。ネコマさんが、自分でやったんだろうか」
「知りません」へそを曲げているクロヒメを無視し、私は空想にふけった。
本当にそうならば、その女に込められた想いは、男の情けない未練というしかない。あの、物腰の柔らかい猫に(たとえ、元は人間だとしても)、そんな激しい感情がひそんでいるとは、想像しただけで、私は少し、わくわくした。
写真はそのままに再び伏せ、捜索は続いた。
「とりあえず、呪いが何か分からないから、この部屋にあるもの、ぜんぶ破壊するっていうのは、どうだろう」
「そ、そんなの――」クロヒメは五秒ほど絶句した。「ご主人さまに叱られます。ぜんぶ私物なんですよ。それに、それでなにも解決しなかったらどうするんですか。ほら、呪いに関する物品を破壊したら、もう二度と解けないかもしれない。なにか特別な儀式とかが、必要かもしれませんし」
「きみはきっと、ホラー映画の観すぎだよ」
「ホラー映画なんて、一度も観たことありません。このホテルにはテレビもないし、この辺りには映画館もないんですから」
「じゃあ、オカルト小説の読みすぎだね」
「わたし、本なんか読みません」
「単に読めないんじゃないの」
「え、なんですって」
クロヒメの長い黒髪が、ほとんど直毛のように、揺れることなく、沈んでいるのを、私はただ見ていた。
「いいや、なんでもない」
その時、白猫が、ひょろひょろと扉から迷い込んできた。
「あ、鈴木さん」
クロヒメに呼び止められても、白猫はふりむきもせずに、瞠目して、いきり立って、部屋の真ん中で、背中をぶるっと震わせ、興奮を表した。
――にゃア! にアア!
白猫は鳴いた。見えないなにかを威嚇するように喉を鳴らした。私はそっと、三段目の引き出しから、例の写真を取り出した。写真を白猫に見せると、白猫はよりいっそう歯を見せて、にアアア! と写真立てに飛び掛ってきた。私は右手を差し出していた。
*
咬みつかれた右手の甲は、傷は浅く、血もあまり出ずに痛みもなかった。ソファに隣り合って腰かけ、クロヒメに手当てをしてもらいながら、私は、じっと彼女の長いまつ毛を見ていた。
包帯が巻き終わると、クロヒメは私から少し離れて座り直し、救急箱を閉じて、膝の上で、ぎゅっと指を重ねた。
「本当はわたし、見覚えがあるんです。あの女の人」
「誰なの?」
そうだろうとは思った。あの女の人には、なにかがあるのだ。でなければ、白猫があんなに敵意をむき出しにして鳴くことはないだろう。
「その方が誰なのかは……存じません。ただ、いつだったか、ある日、彼女は、ご主人さまに会いにきたのです。とても物腰の柔らかな、優しい微笑のご婦人でした。彼女はこのホテルに何日か滞在し、ご主人さまとは、中睦まじげに、接していました。二人が一緒にいるのを見ると、わたしは、ついぞ何も言えず、なにも聞けなかった。あなたは誰ですか、の一言を、何度も飲み込みました。そして、わたしはご婦人と対等に渡り合えるように、いい女にならなくては、と決意を致す所存でした。しかし、不思議なことに、それから先、わたしの記憶が少し途絶えているのです。ふと気がつけば、ご婦人はいつの間にかホテルから姿を消していて、ご主人さまは、あの通りの、猫らしき姿になっていました。空白の時間になにが起こったのか、思い出すことができないのです。それから、ご主人さまは、そのご婦人のことは一言もおっしゃいません。どこへ行ったのかも、どんな関係の方なのかも……。わたしも、そのことを怖くて尋ねられずにいます」
ぐっと右手に力を込めているクロヒメの話が終わるのを待って、私は足を組むと、口を挟んだ。
「一つ、訊いてもいいかな」
「ええ」
「なぜきみは、そこまでネコマさんが好きなのかな?」
「好きなのではありません。わたしは、ご主人さまをお慕いしているのです」クロヒメは誠実に告げた。
「それは、言い方が違うだけで、同じ意味なんじゃないか?」
「微妙なニュアンスは、大切にしなくてはなりません。なんでも、『超ヤバイスゴイ』だけで感情表現を済ませてはいけません」
「それだけで感情表現を済ませている人は、いないよ」
「都会では、皆そうだと聞きます」
「それは間違った情報だね。僕は東京生まれの東京育ちだけれど」
「認識を改めます」
「そう言いながら、きみ、全く改める気がないね」
「ええ。もちろん」クロヒメは悪びれもなく、さらりと肯定した。こちらを見もしない。彼女の目は、毛布にくるまり、横たわって眠っているネコマさんにだけ、向かっている。
「でも、奇妙なのは、きみは年頃の娘さん、ということだ。いくら世話になっているといえ、父親ほど年の離れている男を好きになるものなのかな。若い男のほうが好ましいのがふつうの女性ではないのか。ほら、青年がきみを気に入っているんだろう。吉良次郎くん。ここのご主人か、吉良次郎くんかならば……僕がきみだったら吉良次郎くんを選ぶな」
「なぜです?」
異人を見る目で私を睨んでから、クロヒメは颯爽と立ち上がり、スカートの裾をふわりと揺らした。
「なぜといわれても。単純さ。若い者同士なら、釣り合いが取れるだろう。世間的な障害も少ない」
「わたしとご主人さまに、物理的になんの障害がありますか。ご主人さまは中年とはいえ、性的不能なわけではありません。失礼なことをおっしゃらないでください。生むほうのわたしはまだ若いのだから、なんの問題もないです」クロヒメはゆっくりと歩み、ネコマさんの傍に足をまげて座り込んだ。
「あの、そういうもんなの? そういう次元の問題なの?」
「他にどんな問題が?」
「そう、あとは老後の問題なんかがあるね」
「老後?」
「年の差は大きいだろう。このままでいけば、ネコマさんのほうが、早くに亡くなる。きみはひとりで、長い間、残されてしまうよ」
「そうしたら、わたしはまた、新たな伴侶を見つければいいことではありませんか。夫婦のどちらかが先に死ぬなど、当たり前のことですわ。なにを言っているの」
「うーん。まあ、いい」
私はその話題を続けることに自信をなくし、打ち切った。もしかしたら自分は、世界の受容のやり方をどこかで間違えていたのかもしれないと、クロヒメの毅然とした態度に、そう思わされた。
「とにかく、はっきりしたんだ。その写真の人を探し出せばいいんだよ。他にヒントはなにもない。この人が、この呪いをかけた当人なのだと解釈するのが自然だろう」
白猫、もとい鈴木さんは、明らかに、写真の婦人を毛嫌いしていた。なにかを思いこさせたのだ。
「でも、どうやってですか」クロヒメはしょげた瞳を半分つぶりながら、ネコマさんに憐憫の情を向けていた。
「え、きみ、もしかして分かっていないの?」
私は思わず、ソファから腰を浮かせて身を乗り出していた。クロヒメは見られまいと慌てて、顔をそむけた。
「そ、そんなことは……」言いながら、後ろ姿の彼女は、黒い耳を生やしていた。
「あのね、その女性は泊まったんだろう。正確な時期はわからなくとも、客の個人名簿を見れば、ある程度は対象が絞り込めるじゃないか。あとは一人ひとり、電話でもして当たればいい」
クロヒメはうつむいたまま、テーブルに膝をつき、肩をすくめた。
「本当は、わたしも気付いていましたけれどね。能ある鷹は爪を隠す、ですわ」
「ああ、そう。頭が良いんだね。でもそれを言うなら、上手の猫は爪を隠す、じゃないかな」
「わたしはまだ、猫ではありません」
「それはどうかな」
クロヒメが慌ててじぶんの頭に生えた猫耳をぽんぽんと叩くと、猫耳はふっと姿を消した。新しい手品のような技を見て、私は我知らず、にやりと口の端を曲げていた。
*
クロヒメはカウンターの奥からスケジュール管理表と客の名簿を取り出し、ぱらぱらとめくって眺めた。すぐに目を離し、私がいるソファに持ってきて、二冊を差し出してきた。
「じゃあ、お願いします。大友さん。あのご婦人の候補を、この中から絞ってください」
「なぜ僕がやるんだい」
「だって、こうやってコキを使うためにあなたをここに留まらせているんだもの」クロヒメは真顔で説明した。
「しかし、客の個人情報を、客である僕が目にすることはまずいだろう」
「細かい人ですね。そんなの、誰にも言わなければ問題なし、です。個人情報なんて保護したって、たいして意味ありません。だいたい皆、他人の住所や血液型や誕生日なんて聞いたって、興味がなくて、すぐに忘れるもの。どうでもいいものを囲い込んでも、無駄なだけです」
個人情報保護法は、そういう個人の問題で成立したのではないだろうに……と思ったが、このまま口論をつづけても発展はない。私は従順に、言われたとおり作業に取り掛かった。
じっさいには、情報といえるような情報は記載されていなかった。お客さんが少ないというのは本当で、唯一の常連客の吉良次郎くんを除けば、本当に純粋な客は月に一組、二組ほどしか泊まっていなかった。原因は立地条件が悪すぎるからに違いないと、私は分析しなくても分かるような結論をつけた。
ほぼ白紙状態の「泊り客スケジュール表」と顧客名簿を照らし合わせながら、何日間かは滞在した女性客の名前をリストアップしていった。名簿には電話番号と氏名、あとは隅に好物が書かれていた。食事を作るときに参考にするためだろう。二度と来ることのないだろう一度限りの客に、リピーターを期待して好物を聞いている様を想像するに、からからと乾いていて、愉快だった。
過去一年間くらいを確認して、五名の女性客をリストアップして、電話番号を書き出した。
「できたよ」
「ご苦労様です」クロヒメは間違った日本語を使い、私の苦労を称えた。
「このあとは電話かな」
「いいえ、もう時間も遅いので、ご迷惑です。この方たち全員に、電報を打ちましょう。さっそく、文章を考えてください」
「それも僕が考えるの?」
私はあきれたが、クロヒメになど任せたら破壊的な文書になることが予測されたので、文句を言う気にはならなかった。
そこで私は困惑した。この中にいることは確かなのに、見つけるには、どんな内容の文書を送ればいいのか、分からないのである。
私はフロントの受付からメモ用紙とペンを借りて書き始めた。
――様
寒中見舞い申し上げます。先日は当ホテルをご利用いただきありがとうございました。冬季キャンペーンで抽選の結果、お客さまのご家族さまに特別に二泊三日、宿泊食事すべて無料でご招待いたします。有効期限はありません。この文書を一緒にお持ちください。スタッフ一同、心よりお待ちしております。
猫魔信夫
こんなものか――私はペンを置いて、読みが押した。そこで気付いたが、そんな大人数を無料で招待したら、すさまじい赤字である。このホテルの経営自体が破綻する可能性が出てくる。客の分際で勝手に客を招待するのは、まずいような気がしてきた。しかし、他に思いつかないし、なにせ自分が損害をこうむるわけでもないので、いいか、と、ノートをクロヒメに渡した。彼女はこむずかしい顔をして、じっと文字を目でなぞっていた。
「どうかな」
怒られるのを予想して身構えながら、尋ねてみる。
「いいと思います」
「え、これでいいのかい?」私は拍子抜けして、背中をソファに沈めていた。
「ええ。大友さんは、やっぱり利用しがいがありますね」
「それは、褒められているのだろうか……でも、やっぱりこれじゃあ、ネコマさんに悪いよ。考え直すことにする」
よく考えれば、これで客がどさっと来たとしても、肝心の張本人だけはなんらかの事情で来られなかったとしたら、非常に気まずい。まるで欠損だらけの文書である。私はクロヒメからノートを取り返し、再び白い紙に向かって、うなりはじめた。
あなた、私を覚えておいでですか。雪が降ると、あなたにまたお会いしたくなります。ぜひ私のホテルにいらっしゃってください。できれば、なるべく早くに。私には、もう、時間がないのです。
猫魔伸夫
追伸――この電報にお心当たりのない方は、当方のミスですので、すみやかに破棄してください。お手数をおかけして申し訳ございません。
私は読み返し、鼻を鳴らした。完璧である。「あなた」としておけば親しみがこもっているし、曖昧なのに当人の心には直接ひびくであろう。「時間がない」という文句は、大げさではあるが、嘘ではあるまい。
私は満足してクロヒメにほほ笑むと、さきほどピックアップした婦人たちにこの文書の電報を送る手配を済ませた。電話局に電話するだけで電報が送れるのだから、便利な世の中だ。電報をつかっている時点で、便利とはほど遠いのかもしれないが。しかしその際、担当オペレータのきれいな声の女性に、この文書を読み上げなければならなかったのが、意外に苦渋したが。
電話を切った私を、後ろからクロヒメが眺めていた。クロヒメはささやくように言った。
「今日も、来ませんでしたね」
「え?」
一瞬、なんのことだか分からなかった。クロヒメは私の返事を待つことなく、食堂の床で横になっているネコマさんに近づいた。
「ご主人さま……」
ネコマさんはまだ猫のようには小さくなってはいなかったが、目を覚ます気配はなかった。
「電報の返事は来たのかい?」
私の問いに、クロヒメは首をふるふると横に振った。
「来るはずがありません」
「どうして」
「だってわたし、最初からあの人に電報なんて打っていないんだもの」
ネコマさんの命令に、言葉なく素直に従っていたクロヒメを思い出した。
「今日はもう、寝るとしよう。ネコマさんを、部屋まで運ぶんだ」
クロヒメは小さく頷いた。
「おやすみなさい」
クロヒメはそうささやくと、そっと、ネコマさんの額の毛に、撫ぜるように触れた。
ネコマさんは心地よさそうに身体を仰向けに投げ出し、猫そのままに気ままに、眠っている。
猫になれば私も、人間世界という些細なしがらみから、解放されるのだろうか。ずっとここにいれば。
でも、ずっとここにいるわけにはいかない。私は黒姫館に行かなくてはならない。そこで誰ともつかない誰かを待ちぼうけている〈黒姫〉に、会いに行かなくては、ならないのだ。人間として。私だけだ、彼女を見つけられるのは。闇に隠れている姫よ、屋根の上で星の数を数えているきみよ。
3
粉雪の舞う午前、私は早急に準備を済ませた。
ネコマさんの部屋のクローゼットからこっそりとくすねた、人間だった頃の遺物のダウンジャケットとカシミヤのマフラーとカラシ色のニット帽をかぶり、長期旅行とは思えない小さなサイズのトランクを手に、部屋を出た。正面玄関には扉に大きな鈴がついているため、出入りしてはすぐに見つかる。私は自分の泊まっている客間へ行き、窓を開けてバルコニーに出た。五センチはある雪に足を踏み入れると、溶けかけの雪が革靴にしみ込み、あっという間に靴下までしみ込んできた。
「ああ、大友さん、おはようございます」
無意味な挨拶には、どんな意味が含まれるのか。真上から声は聞こえた。
屋根の上にクロヒメはいた。大きなスコップを構えている。黒いニット帽子、黒いダウンコート、黒いジーンズといういでたちで、ビニール製の黒い長靴を履いていた。長靴を履いた猫だな、と私は感心して思った。首を長く伸ばして、働き者の黒猫に声を掛けた。
「何をしているのー」
「雪おろしです」クロヒメは慣れた手つきで、スコップの背で屋根の雪を押し出した。
「見ればわかるよ」
「なら、訊かないでください」
「それもそうだね」
私は、屋根からぼろぼろざくざく、と美しさもなく落ちてゆく白い重いものを見つめながら、気付いた。ここにきてから一体何日がたったのか、よくわからなくなっていた。そのうち、じぶんの生い立ちも、目的も、仕事の有無も、気にならなくなるに違いない。
ネコマさんは、カーテンが閉じられた自身の暗い部屋で、眠ったままだった。
雪が弱まった隙をみて、陽の高いうちに、クロヒメは買出しにいくことになった。
「僕も行こうか。重いだろう」
「慣れているから、大丈夫です。それより、ご主人さまをお願いします。それに、来客があったときに誰もいないのは、ホテルのあるべき姿としてまずいので」
それを言うならば、客である私に半強制的に〈呪い〉を解かせたり留守番や看病を押し付けたりしている時点でホテルの経営理念に反しているじゃないか、だいいち客なんて自分以外に一人も見ていない、本当に来るのか、と思ったが、クロヒメには一刻も早く出て行ってほしかったので、余計な口は慎むことにした。
ご主人さまに異変がないか気をつけて見守ること、喉がかわいたらすぐに水をスポイトで掬って口に含ませること、目を覚ましたら、あたたかいスープを温めてスプーンで食べさせること――などを、クロヒメはくどくどと私に説明した。要するに手厚く看病して、という注文だ。そう一言言えば済むものを、クロヒメはものすごい剣幕で念を押してきた。
「いいですね。私の留守中にご主人さまになにかあったら、それ相応の覚悟を」
この隙に私に逃げられてはたまらない、と思ったのだろう。
クロヒメは先ほどと同じ黒ずくめの恰好で、ピンク色の耳当てを装着した。
「すぐに戻ってきますから」
「もっと、ゆっくりしてきていいよ。ついでに、デートとかしてきてもいいよ」
「しません」
クロヒメは怒ってか、玄関の扉を必要以上に強く閉めた。
私は久しぶりの開放感に、ほっと耳を済ませた。静かだ。
もともと、二階建ての宿に三人しかいなかった。唯一の話し相手であるクロヒメが扉の向こうに姿を消すと、よけいに静けさが増した。午前中なのに夜半前のような静寂だった。
私は食卓の上でラップに包まれていたものを、レンジで温めて、食堂に戻り、珈琲にミルクを混ぜながら、無意識に頬杖をつき、足を組んで斜めに椅子に腰かけた。
ネコマさんがこの場にいないというだけで、どうにも気が引き締まらなかった。気が抜ける、というだけではない。この〈猫魔〉全体が、緩んだ暖かい川に半分浸かっているかのように、沈んでいる。ネコマさんがいなくては、このホテルは、もうなんの存在意義もない、改築を望まれる不吉な幽霊屋敷のようなものだ。
食器を片付け、軽くテーブルにふきんをかけて、厨房も整頓し、それから言いつけどおりにネコマさんの様子を観察した。いつ起きてもいいように、鈴木さんたちの餌皿に使っている青いプラスチックの丸い皿に、ミルク、水、それから魚の缶詰を出したものをそれぞれ分けて取り出し、ネコマさんの眠るベッドのサイドテーブルに並べた。
私はネコマさんの部屋を出ると、ぐるぐるとマフラーを巻きつけ、それこそ首が絞まるくらいに巻きつけて、気合を入れすぎたと反省して少し緩めて――改めて、正面玄関にすっくと立った。扉の向こうに暗に見えるのは私のかわいい〈黒姫〉だった。
ドアノブに手をかざした瞬間、先にドアのほうが動いた。ちゃりん、と鈴が鳴って、一枚扉が外側へ動き、開いた。いつから超能力を使えるようになったのか、私にはてんで憶えがない。このホテルに滞在しているうちに、能力を培ってしまったらしい。
ぴゅう、と冷たい風が耳のそばを撫でる。
扉の奥には、少年がいた。
年のころは中学生。白い肌に、頬を真っ赤に染めていた。ニット帽とダウンジャケットはいずれも南海のような真っ青で、ズボンの膝には雪くずが滲んでいた。スニーカーは霙に濡れていた。形は大きいが、中身が詰まっていなさそうなドラムバックを持っていた。
幼少の頃のクラスメイトのような、そんな既視感を呼び戻した。幼き日の学校の転校生のような新風が、彼の全身をとりまいていた。
「おっさん、誰?」
少年が口を開くと、もはや、そのへんにいるただの子どもに戻っていた。礼儀がなっていないらしく、身長差があっても顔をあまり上げず、上目遣いで挑戦的な視線をよこしてくる。
「客だ」
負けずに私も無礼に返した。
「入ってもいい?」
「入るだけならね」
言われなくても、という堂々たる態度で、彼は扉を閉めた。少年は帽子を脱いで雪をふりはらった。髪の毛はショートカットというには少し毛先が肩で跳ねるほど、長く伸びていた。靴を脱ぐが、靴下までぐっしょりと濡れている。
「さむい。タオルある?」
「さあ」
「探してくんない?」
「もう一度言うが、僕は客だ」
「じゃ、ホテルの人つれてきて」
「今、誰もいない。買出し中だ」
「なんだよ。シケてるな」少年はつまらなそうに唇を曲げ、ホテル内を見回した。態度は大きいが、今までここには来たことがない、という緊張交じりの目つきで、フロアを観察していた。常連であるとも思えない。
「きみは本当に客か?」
「そうだよ。なんか悪いか」
「悪くはないよ」
客が客を差別しても仕方がないと諦め、私はカウンターの奥の棚を探り出した。たしか、このへんからネコマさんがタオルを差し出していた。私もネコマさんのように、さりげなくタオルを濡れた頭にかぶせてやる、程度の器量があればいいのだが。
「いいから、早くタオルくれよ」
「ああ、今探してる。あった。投げるぞ」
「いちいち言わなくていいよ」
バスタオル並みに大きな白いタオルを投げると、少年はうまく受け止め、全身に包むようにくるりと巻いた。
「なあ。シャワー浴びていい?」
「ちょっと、待ってくれ。さすがに分量をわきまえたらどうだい」
「分量って? 体積とか?」
「ちがう。チェックインもせずに、勝手に部屋を使うわけにいかないだろう」
「でもおれ、招待客なんだけど。従業員がいないほうが、よっぽど悪いと思わねえ? 商売する気あんの?」
「このホテルは、少し特殊なんだ」
「そうらしいね。裏切られたよ」
「なら、帰るか?」私はそれを促進するように言った。
「うん。ただメシ食ってからね」
少年は濡れた靴下を脱ぎ、足を拭くと、スリッパを履いて上がってきた。
「仕方ないから、誰か帰ってくるまで、そのへんで待つよ」彼はロビーのソファを指差した。
「ああ。それがいいだろう」
私は同意して頷いたが、少年には今すぐ帰って欲しいのが、本当のところだった。客である少年をひとりこの呪われた〈猫魔〉に残して、じぶんだけ外出するわけにいかないからだ。泥棒でもされたら、かなわない。
「暖房、弱くない? ここ床暖ないの?」
「ユカダンってなんだい」
「もういい」
少年はまったく私に興味がないらしく、悪いそぶりもみせずに、さっさとそっぽを向いた。相手が会話をする努力を一瞬で放棄してしまうときの気持ちが、なんとなく理解できた。
*
「きみ、だれか連れの人はいないの?」
「それがなにか悪い?」
「いや、いや」
じぶんだって一人で東京から長野に来ていることを思うと、少年がひとりでホテルに泊まりに来ていることを、とやかく言う権利がない気がして、私は会話を打ち止めした。
その代わり、鍋に火をかけて白菜のコンソメスープを温めた。寒いとき小腹が空いたときいつでも間食できるように朝食を大目につくっていたことが幸いした。一文にもならない客への施し。これで少しは時間を埋めることができる。
時計をちらりと見る。クロヒメが出かけてから、二時間ほどは経過していた。こんな田舎町の雪道だと、徒歩の買出しだけでも重労働で、時間もかかるのだろう。そのついでにぶらぶらとデートでもされてしまえば、私は長いこと、気詰まりな、見知らぬ少年の相手をしなければならなくなる。さすがに彼をロビーに放置して、ひとりでぬくぬくと部屋にこもる気も起こらない。そこはかとなく、クロヒメに復讐されている気がした。
少年はすっぽりとかぶるタイプのセーター姿で、持ち込んできたらしい塾のテキストを広げていた。教科は数学のようだ。休暇に来たというよりも、勉強しに缶詰に来たのだろうか。
少年は、スープを給仕してきた私にちらりと目配せした。
「なにそれ。勝手に食っていいものなの?」
「もし、帰ってきたメイドに怒られたら、僕のせいにしていい」
「うん。そうする。どうも」おとなしく彼は筆記用具をてきとうに脇に避けて、スプーンでスープを掬い始めた。
胃腸を活動させた途端に腹が減ったらしく、少年は自宅から持ち込んできたというカップヌードルシーフードを、お湯だけポットから拝借して蓋をした。冷蔵庫のなかに何を残してきたかを把握もせず出てきた私とは正反対の、まことにしっかりした子だった。
さて、と。私は大変困ったことになった。私は腹が減ってもいないし、さしあたってやることもない。かといって食事中の少年のそばに同席しても、特に話すこともない。
少年がカップ麺をすすりだして、しばし経過してから、宙ぶらりんな――このホテルにさした目的もなく滞在していることが浮遊体の塊だ――私に声をかけた。
「なにしてるんだよ。おっさん。座れば」
「あ、はい」
素直に返事をして、私は椅子を引き、テーブルから少し距離を置いて腰かけた。
「なあ。猫魔って福島のスキー場あたりの地名だろ。猫魔山のところ。なんで長野の黒姫で使ってんの。紛らわしいよ。黒姫ホテルでいいだろ」
「え、そうなの? 福島県? 知らなかったよ」
「なんでそんなことも知らないんだよ。バカじゃねえか」
「たぶん、そうだろうね」
「ムカつく言い方、すんなよ」
認めたのに、なぜムカつかれるのかが解せない。
「でも、黒姫ホテルは、この近くにあるんだ。名前がかぶるから、つけなかったんだよ。あと、ネコマっていうのは、ここの御主人の名前だから」
「そんなことわかってるよ。まともなこと言うな」
ボケても、まともに答えても気に入られないことを思い知らされ、私は黙した。
「で。ここのホテル、どんな支配人なの? 見てみたいんだけど。なんでいないの? 買い物?」
「ネコマさんという人だよ。猫魔伸夫さん。どこにいるのかは知らない」
「ネコマって、その人、猫?」
少年は動かし続けていた箸をそこで止め、私を見上げた。その問いかけは非常に子どもらしいと言える。なにを期待するわけでもなくただ義務を果たすように告げたのだろう。
「うん」
私は正直に答えていた。
「はぁ?」少年は答えが気に入らなかったらしく、睨みをきかせてきた。
「いや、まあ。ごめん、人だよ」
「ボケなくていいんだよ。おれがボケたんだから突っ込むんだよ、そこ」
「ごめんなさい」
私はただ平たく謝るしかなかった。理不尽ではあった。私の人生上、子どもと接する機会がまったくなかったので、雑誌やテレビで特集される「子ども」の情報しかないのだ。
「その人、どんな人か教えてよ」
「待ってくれ。さっきからきみ、礼儀というものがなっていないんじゃないか……」
「おれ、榎木天馬、中二。招待状は電報でうちに届いてた。タダで家族が泊まっていいらしいから、来た。以後よろしくお願いしますお会いできて光栄です。で、どんな人?」少年は真心のこもらない形式的な挨拶を、よく舌を噛まないなと感心するほど早口で済ませると、詰め寄ってきた。
「そうだ、テンマくん。その招待状を、ちょっと見せてくれないか」
「なんで客に見せないといけないんだよ」
「たしかに、そうだね」
私は納得し、すぐに引き下がった。
招待状の電報とは、昨日の夜に私が打った、愛の告白めいた怪文電報のことに違いない。あの文面で、なにか心当たりが彼自身にあったというのか。例えば愛情のもつれといったことは、ないだろう。もし、あるとすれば――
私は思わず、喉の奥を詰まらせた。
「ねえ、きみのご両親はなにをしてるの? 家族で招待されたのなら、一緒に来ればよかったじゃないか」
「旅行で、いない。あ、海外ね。たしか北欧だったかな」
「きょうだいは? 祖父母は?」
「きょうだいはいない。おばあちゃんたちは、関東のほうに住んでる。ほらな、予定合わせるのって、めんどいよ」
「ああ。よくわかるよ」
全然わからなかった。通常なら予定が合わなくても、中学生が一人で、こんな辺鄙なホテルに来るとは考えられなかった。おそらく彼の目的は、ただメシを食べに来ただけではない。
「ね、ネコマって人のこと教えて」テンマくんは長いまつ毛の大きな瞳をぱちっと開けて見上げてくる。無邪気に尋ねているようで、彼は、探りに来たに違いない。テンマくんは、ネコマさんを、母親の浮気相手だと確信しているのだ。
「僕もよく知らないよ。ここに来たばかりだから」
「話したんだろ。なら人柄くらいわかるでしょ」
どうしたものか。私は窮した。少なくとも人間のネコマさんにあったことは一度もないので、彼が「どんな人」かは、私には説明できないのである。しかし、それより問題なのは、この少年の母親が本当にネコマさんと何らかの痴情のもつれが存在するのかが、わからない。電報は『当たり』がひっかかるのを願って、無関係のお宅にまで回してしまったのだ。
どうすれば判明するのか、私は頭を絞った。例のご婦人の写真をテンマくんに見せる、という手はあるが、安易に使えない。もし本当にテンマくんの母親があの婦人ならば、ここに写真が存在することが、ネコマさんと母親を関連付ける証拠になってしまうからだ。それは、少年にとって酷な現実となってつきつけられるだろう。
しかし……、待てよ、と私は改めて熟考した。あの温厚で、どっしりと構えたネコマさんが、夫と子どものいるご婦人と密かに通じていることを、よく想像してみたまえ。当然のごとく、逢引はこのホテルの室内だ。どうやって猫と……そうではない。猫になる前だとしても、ネコマさんが不倫とは、現実味に欠ける。根拠は何もない。しかし、違う、そんなはずがない。そう信じたい。
「ここ、テレビないのかよ」
「ああ、ないね」
「部屋にもないの?」
「なかった」
「じゃあCDプレイヤーとかは? ラジオは?」
「そういえば、そういうものは見かけない」
「んだよ。何もねえのかよ。プレステ持ってきたのに」
用意のいい子だ。頭がいいだけある。
「なら、帰るか?」私はいくらかの期待を込めて、尋ねた。
「でも今日、土曜だぜ」
テンマくんは立ち上がり、空になったスープ皿を手に持って、当然のように告げた。私は、今日が何曜日であろうとじぶんの生活にまったく影響がないし、興味もなくなっていることに気付いた。曜日感覚が薄れるどころではなく、ウィークリーは七日単位でめぐっていることすら、忘れていた。
*
暇だからホテルの中を見学する、と言い出したテンマくんの目は、どんな細かい引っかかりも見逃さない視察の鋭い眼だった。ネコマさんと母親の関係を探り出すつもりなのだろう。なにか出てきたあとではまずいので、私は彼のあとを追うことにした。
「おっさん、なんでついてくるの?」
「僕も暇だからね」
テンマくんは、階段をのぼりながら背中を向けている。最初から一階は調べるつもりがないようだった。確かにフロアと厨房にはなにもない。テンマくんは子どもの勘の良さで感知したらしい。なんともおそろしい。
「テンマくん、きみのお母さんはどんな人なんだい」
「はぁ? なんで?」
「いや、ただの日常会話だよ」
「普通いきなり母親のこと聞くか?」
出足不調。私は反省し、後悔した。まずは天気の話をするべきだった。ここに来るまで雪で大変じゃなかったか、とか、足は霜焼けにならなかったかとか。どうでもいい、知りたくもない話題でつないでいき、その流れに沿ってあたかも自然に母親の話題に持っていく。これが話術に長けた人間の力量なのだろう。無理である。
「だいたい、おれが最初に質問しただろ。ここの支配人のこと。さっさと教えろ」
「ああ、忘れていた」
テンマくんは客室のドアノブをいちいちひねっていったが(私もやった)、抵抗なく開いたのは私の借りている客間だけだった。テンマくんは、ホテルがこのご時勢にオートロックでないことに顔をしかめていたが、さらに鍵を閉めていないという、ずさん極まる私に対して呆れていた。
「おっさん、泥棒に入られるぜ?」
「こんなところに、入るわけがないじゃないか。他の客なんていないし」
「それがおれだよ、おれ」
「まさか」
私は口の端をゆがめるテンマくんに、ほほ笑んだ。猫の眠る倉庫と、ネコマさんの部屋は客間から離れ、東側の奥のほうに位置するので、まだ行っていない。私の部屋でしばらく引き止めるのが得策だ。
「中に入るかい?」
「どうも」
テンマくんは、ほとんど利用していないと言える私の部屋に足を踏み入れ、首を伸ばして簡素なクローゼットとツインベッドを眺めた。
「そうだ。きみ、家族写真とか持ってない?」
「なんで?」
「いや、見てみたいから」
「普通そんなもん、持ち歩くか?」中学生男子としては、正しい見解と思われた。
「うん、そうだよね。あ、でも携帯電話があるじゃないか」
「それがどうした」
「ほら、最新式のやつなら、写真撮れるんだろう」
「最新式じゃなくても、撮れると思うよ」
「そこのメモリーに入ってるんじゃない? お母さんの写真」
「さっきから、おっさん気持ち悪いよ。なんでそこまでおれの母親にこだわるんだよ」
「僕は、人妻が好きなんだ」
私はつい、誇大妄想的な嘘をついていた。
「はぁ? マジで?」
「うん」
「マダムフェチって、珍しいよな。ロリコンならいそうだけど」
「時代と逆行する人間なんだ。僕は年上、それもだいぶ年上を好むんだよ。きみの母親だからどうってわけではなく、ただ人妻の情報を無作為に知りたくなってしまうんだ」
「別に教えてもよかったんだけど、そんな奴には、教える気が起こらない」
これ以上のないほどの正論を言われてしまった。なんのためについた嘘か、ちっとも分からない。
「テンマくん、ネコマさんのことを色々と教えてもいい。ただし交換条件だ。僕にも、きみのお母さんのことを聞かせてくれ」
私はそう話を持ちかけて、向き合うためにツインベッドの片方に腰かけた。テンマくんにも着席を視線で促すと、彼もおとなしく、私の向かい側のベッドに座った。
「それなら、いいよ。じゃあ始めはそっちから」
「ネコマさんのことか……ネコマさんは、アメリカ暮らしが長いそうだ」
ネコマ暦が二日くらいしかない私にはネコマさんの情報など、数えるほどしかない。
「あと、ごはんかパンだったらごはん。かなりのお洒落で、ネクタイはたくさん持っていそうだ」
「そんなことはどうでもいいんだよ。その人、結婚してるの?」
そうきたか。直球だ。私は、加湿器が欲しいほど喉が乾燥してきた。
「未婚だと思うけれど。いや、尋ねたことはないから、確証はない」
「ふーん」
「じゃあ、次はきみのお母さん」
「悪いけど、教えられない」
「え――なぜだい」
「おれの母さんは、おじさんの好みには合わないよ。人妻じゃないから」
どうやら、それが交換条件の情報に値しそうだ。
「それ、離婚したってことかい」もっと他に柔らかい言い方があったかもしれないが、考える余裕がなかった。
「ううん。一度も結婚してない」
「きみの父親は?」
「死んだって、聞いているけど、おれは信じてない」
にー、とドアの外から猫の鳴き声が聞こえてきた。にーにー、と不器用に鳴いている。
「あ、猫だ」
簡単に意識を奪われたテンマくんが、ベッドから立ち上がり、ドアに向かって大またで歩いていく。私は嫌な悪寒に震えていた。腰を浮かすと、ひどく腹まわりが冷えていた。
テンマくんが扉を開けると、ドアのすぐそばには鈴木さんがいた。鈴木さんはテンマくんに今にも飛び掛りそうに、前足の爪を立てて、歯を見せて、興奮している。
「うわ、なんだよ、こいつ」
「鈴木さん、一体なにがあったんだい」
「おれは榎木だよ」テンマくんが横目で睨んでくる。
「僕は、猫に訊いたんだ」
私は鈴木さんに導かれるように、ネコマさんの部屋に急いで移動した。テンマくんも後ろからついてきた。
ネコマさんの私室の扉は、換気のためにわずかに開いていた。閉めるのをすっかり忘れていた。飛び込むように部屋に入る。毛布がぐしゃりとつぶされ、放置されていた。
私は毛布を手に取り、引き剥がすように持ち上げた。猫は毛布のなかのどこにもいなかった。私が触った箇所はしっとりと湿っていた。見れば、サイドに置いた牛乳と水の皿が、半分くらいずつ減っていた。絨毯が湿っている。牛乳の臭いがしみ込んでいた。
「くせえなぁ。こんなとこに牛乳なんて置くからだよ」
テンマくんはその状況を見るなり、顔をしかめた。
ネコマさんがいなくなった。むやみに動き回って、液体をこぼしていったのは、彼なのだろうか。
「鈴木さん」出入り口あたりにある鈴木さんの瞳が、光って見えた。私はそこに向かって進んだ。
あの紳士のネコマさんは、災害時や他人による障害などの強制的な理由がない限り、慌てて皿をひっくり返したまま部屋を放置して出て行くことは、考えられない。
部屋に残されたミルクの臭いが、ネコマさんはもう、規律のある紳士足り得ないのではないか。ネコマさんが紳士でないなら、なにになったというのだ。死んだのとほとんど同じである。
私はホテル施設内を隅から隅まで探した。鍵が厳重に閉まっている客間は覗くとしても、部外者がそこまで探求していいものかというくらい、倉庫の端っこまで掘り返して探した。ネコマさんは、どこにもいなかった。
猫トリオの鈴木さんと安部さん、窪田さんも心配そうに、というより不満を露にして、今にも戦闘が始まりそうに鳴き続けていた。
ネコマさんがこの建物、〈猫魔ホテル〉からいなくなる――これほど信憑性に欠けることはない。建築の骨格である大柱を失うのと同じことだ。崩れ落ちる。五分と持たない。
「なにを探してるの?」
「猫だよ」
「そのへんにゴロゴロいるだろ?」テンマくんは鈴木さんたちに目配せした。
「この子たちじゃない。もう少し大きい、栗色の猫だ」
「そいつ、血統書付きなの?」
「そういう問題じゃない。とにかく、探さないと」
もうこの場所に長居できなくなる、というよりも、この場所がかき消えてしまう。地図からも人々の記憶からも。危機感を抱き、私はネコマさんの部屋の窓を調べた。鍵がかかっている換気はすべて空気清浄機によって行っている。しかし他の窓はどうか。私は念入りに外へ開けている箇所がないかを検討した。
テンマくんは事の重要性が知れないためだろう、鈴木さんたちの相手をしていた。顎を撫でようとしても、大久保さんは噛み付くような勢いだったし、安部さんも、するりとテンマくんの小さな手を躱してカーテンの奥に隠れた。テンマくんはことごとく猫に嫌われていたが、特に落ち込む様子もなく頭をかいた。
「こんなにうろちょろして、猫アレルギーの人とか困るじゃねえか。ここの経営方針、だいじょうぶかよ?」
「たぶん、猫アレルギー、および猫が苦手な客は断るんだろう」
「商売にならねえじゃん。従業員は帰ってこないし……」
「窓から出たことは考えられないかな?」
私は廊下の端にある縦長方形の窓を調べた。開閉式になっていない、陽光を入れるため、もしくはインテリアのための窓らしい。
「猫だぜ? わざわざ、じぶんから寒い場所に行くかよ」
「でも、もう中にはいない。外しか考えられないよ」
「あ――」テンマくんが深い思考に没頭するような目の色で、そっと手のひらを耳に当てた。
「どうしたんだ?」
「黙れ」
私は口を噤み、物音のひとつも立てないように真っ直ぐに起立して、次のテンマくんの言葉を待った。
「上のほうから気配がする」
彼は確信的な瞳を閃かせた。
「泥棒か、ネズミだ。このホテルに屋根裏ってある?」
*
わずかな柱の木のきしむ音、なにかが動く気配、風かもしれないのに、それとは違う、と彼は言う。テンマくんの異様に冴えわたる耳のお陰で、私は屋根裏部屋に続く階段を探し当てることができた。
「屋根裏部屋があるじゃねえか。最初から言えよ」
「入り方を知らなかったんだ」
「でも、登ったことあるんだろ?」
「あるけど……」
屋根裏部屋は、荷物置場の最も奥まった、小さなスペースの天井にあった。埃だらけで薄暗いので、天井を四角く象った淵に気付くのが難しかったのだ。それを難なく、テンマくんは見つけだした。音がする方へ進んだだけ、と彼は言った。
「きみ、すごいね」
「まあね。勘はいいほうだから」
梯子の色が趣味悪いとかなんとかつぶやきながらも、テンマくんは先に登っていった。あっという間に彼の姿が視界から消えた。
「ちょっと、待ってくれ。泥棒だったら、どうする……」私は息を切らしながら、屋根裏に顔を出した。
闇のなかに一対の瞳があった。私の背中には、雪のなかを一人きりで歩いていたときよりも大きな震えがきた。
――〈猫魔〉?
このホテルを巣食う魔物だと、瞬時に私は解釈していた。
「おっさん、この猫でいいわけ?」
テンマくんはなんの恐れも知らずに、四つん這いで進み、〈猫魔〉の腕の脇を持ち上げた。
にゃあ、と〈猫魔〉が鳴いた。
その声にどんな解釈も敵わなかった。いつか聴いた音色だ。ネコマさんだった。〈猫魔〉ではない。
だいぶ身体は縮んでいた。人間にしては小さすぎる身体から、猫にしては少し大きな体躯に変わった。ネコマさんはただの猫になっていた。わかっていたことなのに、私は呆然と床に座り込んだ。
「ねえ、聞いてんの?」
テンマくんはネコマさんをなめらかな手つきで抱き上げた。慣れた様子なので、彼は猫を飼っているのかもしれない。ネコマさんは心地よさそうに、テンマくんの腕の中に沈み込み、線になるほど目を細めて、今にも眠りに落ちそうに身をまかせた。
「うん」私は臆して囁いた。
「その子で、いいんだ。ありがとう」
「ううん」
テンマくんはそれが当然であるように、ネコマさんを抱いている。息子が父親を抱いているのか。それとも少年が猫を抱いているのか。ネコマさんはなにが起きているのか理解しているのか。ネコマさんはもうネコマさんではないのか。猫になってもネコマさんでいつづけることはできないのか。〈猫魔〉の呪いは本当におそろしい呪いと言えるのか。そもそも、呪いなのかどうか。喜劇の間違いではないか。なんとも、いいがたい。
ネコマさんはテンマくんがよほど気に入ったのか、下の階に戻った後も、テンマくんの膝にのっかったままだった。ネコマさんを膝に乗せ、テンマくんは、食堂でテキストを広げて勉強をしたり、自宅から持ち込んだポテトチップスをつまんだり、携帯ゲームをしたりしていた。その間、私はフロントの掃除を行った。掃除機のような電気器具はそろえられていなかったので、箒で床を掃き、雑巾で乾拭きした。
どん、どん、と玄関の扉に体当たりする音が聞こえた。大きな紙袋を胸に抱えた女が、ふさがっている手でノックができないたメイドし、と腕ごとぶっつけていた。テンマくんは、やっと従業員が帰ってきたのかよ、という呆れた目線を向けた。
私は玄関に駆け寄って、内側から扉を押し開ける。ちゃりん、と鈴が鳴った。
「おかえり」
寒さのためか目を赤くしたクロヒメは、私を真っ向から無視して、靴を脱いで駆け上がった。私は扉を閉める。大きな紙袋ひとつ、ビニール袋みっつをフローリングに放置すると、彼女は一目散に階段を駆け上がった。しずくがぽたぽたと落ち、床が濡れるのも構わずに走った。
「あの人、誰?」
「ここのメイドさんだよ」
「ふぅん。支配人とは、どういう関係?」
テンマくんは興味がなさそうな顔をしているが、彼の目はテキストの文章をなぞりながらも、少し宙を泳いでいた。
そのネコマさんはテンマくんの膝でまるくなっているということを、私の他には、誰も知らないのだろう。
「そうだね。よくあるような、主人とメイドの関係なんじゃないかな」
「ふつう、主人とメイドの関係ってどんなものなの?」
「そういえば、知らない」
テンマくんの問いに、てきとうに合わせながら、私はクロヒメの再来を待った。ネコマさんの部屋は元通りに片付けたはずだ。牛乳で濡れた毛布は洗濯機にまるめこんで入れた。
平常の表情と思われるクロヒメが、階段を下りてきた。私はメイドとしての彼女を呼んだ。
「メイドさん、お客さんが来ているよ。早く、部屋を貸してあげてくれ」
クロヒメの黒目が、見下ろすようにテンマくんを捕らえた。
「ご主人さまはどこ?」
彼女はまだ気付いていなかった。なにも映していない目で、ぐるぐると、頭を回し、ホテルを見渡した。
「どこですか。ご主人さま」
「一緒に買い物に行っていたんじゃないの?」尋ねたのはテンマくんだった。クロヒメはむきになって、初対面の客にも真っ向からかみついた。
「とんでもない。だってご主人さまはご病気で……いえ、ご病気かどうかもわたしには判断がつかなかったけれど、大変で、お部屋でお休みになっていたんですよ。ご主人さまを見ませんでしたか」
「会ったことがないから、知らない。ていうか、おれもずっと探してるんだけど」
クロヒメの視線は、テンマくんを通り過ぎ、私に向かってきた。私はなにも語ることなく、傍にいるテンマくんに目線を転じた。クロヒメはとんとんとリズムを刻んで駆けてきた。テンマくんのすぐ隣までやってきて、かくん、と膝を追って座り込んだ。
「な、なんだよ、あんた」
テンマくんは椅子を引いて、少し後退した。クロヒメはテンマくんの膝小僧に顔が当たるくらいに近づいて、栗色の毛並みの、大きな身体の堂々たる体躯の猫を――紳士の名残だ――見つめた。
クロヒメは肩が外れたようにがくんと落ちていった。床に手をつき、凍える声で、ご主人さま、と囁いた。
「メイドさん、きみに電報が届いているみたいだよ」
私はクロヒメが郵便受けから取ってきた郵便物の束が床に落ちているのを、拾い上げた。
「そんなの、あとでいいです」
「でも、この宛名は……」
「宛名がなんだっていうんですか」
「きみが待っていた電報のようだ」
「待っている電報なんて、この世に一通たりともありません」
「そう言わずに、読んでみなさい」
私はクロヒメの目の前に、一通の封書を押し付けた。クロヒメはしくしくと流れる涙を拭きながら、乱暴に封を開けた。くしゃくしゃに紙を広げて、並んでいる活字に目を落とした。
クロヒメはなにも、見ていなかった。
「……大友さん」
「はい」
「代わりに読んでくださいますか。わたし、いま、とても文字を読む気分じゃないんです」
クロヒメはしおれた便箋を私の腕に押し付けてきた。
「文字を読む気分じゃないって、どんな気分だい?」私はからかい半分に尋ねた。「きみ、本当はまったく文字が読めないんだろう?」
「なぜ……」
なぜわかった、といいたかったのかもしれなかったが、クロヒメはそれ以上言葉にならず、ただ力を失って便箋を床に落とし、自身は腰を床におろして座り込んだ。
「大事な電報を僕に代筆させただろう。客の名が載った帳簿も、自分では読まなかった。でもそれは構わないよ。教育を受けなかったのならば、できなくて当然だからね」
「あなたはまた、わたしのことをばかにしているのでしょう?」クロヒメは前髪が目にかかるのをそのままに、感情のない目線を向けてきた。
「そんなことはない。気を悪くしたのなら、謝ろう」
ほんとうはずっと見下していたのかもしれない。彼女は言葉づかいも、成人の女にしてはひどくつたない。どこかずれているのだから。私は長い間、この娘に対する違和感を拭い去ることができなかった。
私は電報の封書を拾い上げて、封を切った。
「メイドさん。きみあてに、吉良次郎くんからの電報だ。
『――俺の姫君、これでよくわかったかい。君は、ご主人にはふさわしくない。調子にのっていないで、早く、ばかげた夢からは目を覚ましなさい。ご主人を元の姿に戻したいのなら、思い出せ。君が住んでいた場所を。故郷を。そうすれば呪いは解ける』――」
クロヒメは座り込んだまま、はっとした瞳をこちらに向けた。
「どういう意味でしょう」
閃いたような顔をしているが、なにもわかっていないらしい。まぎらわしい女だ。私は首を横に振った。
「さあ、僕にはなんとも。でも、これで、少しは真相がわかってきたね」
「え、どんな真相ですか? 吉良次郎が、いつものようにわたしに意地悪をしてくる、最悪な奴だっていうこと? 今回は遠隔な意地悪で、ほとほと呆れたわ。わざわざ電報なんかで、送ってこなくても。でも、あの人の性格なんか、最初からわかりきっていました」
「きみは、その、言っては悪いけれど」
「言って悪いのならば、言わないでください」
「いや、あえて言う。バカだね」
「屈辱ですわ」クロヒメは唇を噛んだ。なるほど、悔しそうな表情である。涙が塩辛そうだ。
「まあ、そうだろうね」
私は軽く流して、本題に入った。
「ネコマさんに〈猫魔の呪い〉をかけたのは、間違いなく、この吉良次郎くんだってことさ。彼を見つければ、ネコマさんは元に戻れる。ただし、彼はそうすんなりとは、呪いを解いてくれそうにないけどね」
「吉良次郎が――」クロヒメは、最低限の人間としての信頼はしていたのか、にわかには信じがたいようで、しばらくの間押し黙った。
「わかりました。あなたが言うなら、そうかもしれません。でも、あのご婦人は? なんの関連もなかったのですか」
「いや、そんなはずはない。猫たちが毛嫌いしていたし、きみもなにかあのご婦人に、思うことがあるはずだ」
「もちろん、いくらでもあります。あのご婦人のことを思うだけで、ずきずきと頭痛がしてくるのです。だから、なるべく考えないようにしています」
「頭痛か。それ、なにか大事なことを思い出しかけているんじゃないかな。確か、記憶が一部、途切れているんだったね?」
「ええ。あのご婦人がここに来てから、一部記憶喪失です」
「なあ、思い出してくれ」私はじっと、クロヒメのしかめ面を覗き込んだ。「あのご婦人の写真の傷跡は、鋭い爪の跡だったろう? あれは人間の仕業じゃない。ひっかいたのは猫の爪なんだ」
クロヒメが視線を転じた先には、鈴木さんたち三匹の猫がいた。
「この子たち?」
「いいや、当時は呪いが掛かる以前だ。そのとき、猫を飼っていなかった、ときみは言ったな」
「ええ」
「でも、猫はいた。その猫は主人とご婦人の仲むつまじい様子を見て、嫉妬心に狂い、主人の部屋に忍び込んだ。棚に飾られていたのだろう、ご婦人の写真に飛び掛ったんだ」
私は指で差すことをためらい、手のひらを表にして、手を胸のところで抱えているクロヒメに差し出した。
「それがきみだよ。メイドさん」
「ばかなことをおっしゃらないで。わたしは人間ですわ」クロヒメの黒い瞳が、金色の輝きを得た。
「いいや、きみは猫だ。どんどん猫になっている、ときみは言っていたね? それは逆だよ。猫だったのが、どんどん人間になっていったんだ。だから変身した前後の記憶がない。ネコマさんと会話ができないのは、猫と人間が会話できない時代のなごりだ。人間のネコマさんはきみに話しかけるけど、猫だったきみは言葉を返すことができない。もちろんきみのなかに喋りたいという気持ちはあるだろう。しかし、それは怖いことでもある。猫と人間の関係の一線を越えることになる。会話は、これまでの安定した関係を崩すことになりかねないからね。必要以上にきみはネコマさんの部屋に入ることを拒んだ。無意識に苦しい記憶を閉じこめようとしているんだろう。あと、字の読み書きができないとしても、通常ならネコマさんに字を習うだろうと思ったからね。それができないのは、習う環境になかったからだ。つまりきみは猫だった。猫のきみがご婦人に嫉妬し、あの写真をひっかいた。それを見た吉良次郎くんは、きみの願いを――人間になりたいという願いを叶えようと、きみが呪いだといっているものを、きみにかけたんだ。魔法と称したほうが的確かな? 失敗したのかどうか知らないけれど、その魔法はネコマさんにも、鈴木さんたちにも同じようにかかってしまった。だから彼ら人間は猫に、猫のきみは人間になった……簡単なことだ。実に簡単なことだろう?」
クロヒメは話を聞いているのか聞いていないのか、その場にずるずると崩れて床に尻をついた。
「言葉攻め。立派なセクハラじゃないか」
おそらく初めて耳にする声だった。ヒク、とクロヒメの喉がひきつるような音が聴こえた。
私は反射的に腰を浮かし、辺りを見回した。カウンター席の椅子に脚を組んで座っている青年がいた。
「なかなかやるじゃない。でも、俺のヒメに手を出すなんて、度胸あるね」
青年は薄紅色の唇でほほ笑む。おそらく彼が吉良次郎くんだろう。魔法使いのように出現したことが根拠である。淑人たる気質の黒髪のクロヒメにとっては対極の位置にある、手入れの行き届いた茶髪の長髪と白い肌、胸元が少しはだけたシャツ、細い身体に、中性的な顔立ちは、遠くから観賞して愉しむには充分な美をそなえていた。
吉良次郎はカウンターに肩腕をついて身体を支え、ひらりとテーブルを飛び越えて着地した。背がすらりと高く、舞台俳優のように姿勢が整っている。長い脚を伸ばして、呆然と座っているクロヒメの傍へ歩み寄り、かがんだ。彼はクロヒメの真っ青な目元に目を落とした。
「吉良次郎」
ささやくような声でクロヒメは言った。親の敵にでも遭ったような目だ。
「ばかな娘だ」吉良次郎は、この世で最も楽しい宴を眺めるようにクロヒメを視線で愛でた。
「それについては同意するよ、吉良次郎くん」
「同意してほしくはない」
「そうなのかい?」
「ヒメで遊んでいいのは、俺だけだ」
吉良次郎くんは大真面目にクロヒメを見つめ、手の甲で彼女の白い頬を撫ぜた。クロヒメがすぐに口もとをゆがめ、鼻に皴を寄せた。
「そういうことか。それなら大丈夫。僕は、からかいがいのない女の子はそれほど好きじゃないんだ」
「ずいぶんと、ぜいたくな人だな」吉良次郎くんは目を細める。長いまつげが見えた。
「総じて、人には向き不向きがある」
「そしてこいつは俺のヒメだ」
それならなぜ、呪いなどかけて苦しませているのだ? 猫が人間などになっても、適応力がそなわるとは思えない。現に、クロヒメは猫と人間の中間に位置するような生物になっている。
「ところで、吉良次郎くん」
「なんだい」
「来たからには、呪いを解いてくれるんだよね?」
「魔法をかけるとき、同時に魔法が解ける条件をつけたのは俺だ。でも、解くのは俺ではないぜ。その条件をヒメが果たすことだ」
「そうか。どんな条件だろう」私は想像力を働かせた。貧相な脳では、ひとつしか思いつかない。
「ベタだけど、きみのキスとかかい?」
「ノン」吉良次郎はやけに長く細いきれいな手を、血色のいい自分の上唇に当てた。
「もっと簡単なことだよ。それに、たとえそうならとっくに解決している」
それはそうか、と私はすんなり納得した。
「でも、それ以上簡単なことなんて、あるのかな」
「少なくとも俺から見ればね」
「できるだけ協力するから、方法を教えてもらいたい」
息子さんらしき人物も来ているんだ、と私は胸中で付け足した。
「そうだねぇ」
吉良次郎くんが形のいいとがったアゴを撫でて思考をはじめたとき、色を失って今にも気絶しそうに座っていたクロヒメが、手を床について、床を這うように一歩をあゆみだした。脚が不自由な演劇の役者を思わせる、おおげさなほど希望を失った光のない真っ黒な目で、てのひらを何度も前に出して腰を引きずった。腰が抜けて動けないなら、じっとしていればいいのに、クロヒメはスカートをずるずるとざらついた床にこすりつけながら動いた。
「ご主人さま。わたしです。クロヒメですよ。あなたが名前、つけてくれた、クロヒメです。わかりますか? おぼえていますか。お返事してください」
クロヒメは、かつての飼い主であるネコマさんに――今はもうずいぶんとその繋がりも失ってしまった――始めて、言語を介してコミュニケーションを自ら計った。白い頬には、いく筋かの涙を頬にこぼした。分厚い手袋をした手を伸ばし、ネコマさんの額に触れた。ネコマさんはもう、どんな音声にも興味を持たないと言わんばかりに、眠そうに、首をくくって体制を変えると、またテンマくんの太腿にもたれて、眠りに落ちた。
「ご主人さま……」
テンマくんは突然のことに、全身を硬直させて、冷気を放つクロヒメの長い黒髪を見下ろしていた。テンマくんはきょろきょろと目だけ動かして、私を見た。
私は、テンマくんから離れようとしないネコマさんを、少しも責める気もしないし、ネコマさんを離してクロヒメに譲ろうともしないテンマくんのことを、少しも意地悪だとは思わなかった。
これでいい。なんの不可思議もない。
クロヒメは、テンマくんの腕にいだかれている猫に向かって、きちんと脚をそろえ、スカートの皴を直し、正座をして膝に両手をそろえた。
「わたし、昔のことは、ほとんど憶えていません。人間のあなたが、どんな顔だったかも。忘れてしまいました。どんなふうに過ごしていたかも。気がつくと猫のご主人さまがいて、このホテルでメイドとして働いていました。だから以前、わたしは猫だったのかもしれない。でも、そんなことはどうでもいいのです。もう、猫のあなたでもいい。たとえ記憶がないのだとしても、言葉をしゃべれなくても、わたしは、あなたをお慕いしています」
クロヒメは両手を三角にして、ふかぶかと頭を垂れた。
絶対忠誠を、猫の主人にむかって誓った。
ネコマさんはずるっと腕からすべりおちそうになりながら、細い目でクロヒメを見つめていた。けれど、やはりその目はなにも見ていない目だった。
ふかぶかと頭を下げているクロヒメは、すべてが黒く見えた。
長い髪が垂れて、耳や首を覆い、丸い背中は、すこしずつ、しなやかに小さくなっていった。
私は数度まばたきをした。
次にクロヒメを見たとき、彼女は黒い小さな塊になっていた。
テンマくんは、むっつりと口をつぐんで鼻腔をふくらませた。驚いて息を止めているようだ。
黒猫がいた。
クロヒメが黒猫になったのではない、と私は思った。ただ黒猫がそこに在るようになったのだ。全身の力を失ったように、目をつむったまま、黒猫はコテンと横に倒れた。ゆっくりと小刻みに脚を動かしながら、睡眠に突入した。
吉良次郎が不満げに鼻を鳴らした。
「最初から、そうしていればよかった。まだ、やつの頭がしっかりしている頃に」
「これが、〈呪い〉を解く鍵だったの?」
「言葉が通じるようにしてやったのに、なぜこいつはいつまでもその言葉を口にしなかったんだ」
吉良次郎は、みずから身を引くことを考えて、クロヒメに一度きりのチャンスを与えたのだろうが(告白をした瞬間に猫になるという問題点もあるが、私は種を超えた恋愛というものも在りうると判断した)、クロヒメはその機会を投げ打った。タオルでも投げるように。
私が考えたのは、その言葉をたとえ喋ってネコマさんが聞いたとしてもなんの意味もなかったのではないかということだ。
時間がかかるのかは知らないが、ネコマさんは猫のままでこんこんとテンマくんの腕で眠りつづけた。テンマくんはななめから私を見てきた。
「ねえ、メシまだ?」
「僕は客だよ」
「知っている」
私は肩で息をついた。
吉良次郎は黒猫を抱え上げ屋根裏部屋へと運び、三十分ほど経ってから夕食をとりに降りてきた。
私は鈴木さんたちに猫缶を開けて、さて、と腕を組んで冷蔵庫を開け、なにをつくろうかと、もう夜も更けているのに熟考した。
黒猫は、もう私の知っているクロヒメではなくなり、以前猫だった頃の黒猫でもなくなっている。
光の射さない屋根裏で眠りにつき、何も知らない子どもに戻っている。おしゃれをするおとなの女性になることの夢など、もう見ることもない。
明日になったらネコマさんや鈴木さんたちが人間に戻るかもしれないから、そうなる前に、ここを出て行こう、と私は決めた。
荷造りを済ませてから、夜明け前に、部屋のベランダに出て、屋根に登った。
雪は止み、雲もなかった。真っ暗の闇のなかにかすかに湿る臭いだけが生の実感を引き起こした。
数え切れないほどの星を数えた。
黒姫。と私は名を呼んだ。
彼女はいまごろ、黒姫館の屋根の上から部屋に戻り、眠りに着く頃だろう。
星の数が多すぎて、くらくらしてきた。
私は東京までの帰り道を考えた。
もう一度、黒姫の物語を創ったあの女の子と、偶然に電車にのりあわせて、話がしたかった。始発から最端の駅まで隣りあわせで座って、いつまでも、どんなことでも話してみたかった。黒姫を探しにここまで来てしまった、ばかな大人がいたこと。
腰を上げると、反動で屋根の雪がぱらりと、かすかに光って落ちていった。
(終)
2007年くらいに書いたものです。記憶があいまいですが、主人公が電車のなかで黒姫という単語を聞いて一気に妄想を膨らませた辺りは、実話だったと思います。
書き終わったその後、実際に長野県の黒姫童話館に行きました。
とてもいい美術館でした。