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4 ゼロの教室②

 午後の二時間目は、魔力実技だった。

 校舎裏の実技場は、白線で区切られた訓練レーンと、属性ごとの簡易器具が整然と並んでいる。火属性の着火台、水属性の循環槽、風のターゲット輪、土の浮遊石。どの器具にも安全結界が張られていて、失敗しても大事には至らないようになっていた。

 春の空気がすっかり薄くなって、教室の窓から入る風には、少し湿った初夏の匂いが混ざり始めていた遠くから運動部の掛け声が聞こえ、実技場だけが別の時間を刻んでいるように静かだった。


 担当の実技教員は、整った口調で説明を始めた。

 「今日のメニューは基礎三種。着火・微細制御・浮遊。各自、診断属性に合わせて器具のところへ移動」

 号令と同時に、クラスは色ごとに自然に分かれていく。赤い着火台の前にはケンが真っ先に立ち、青い循環槽の前にはユウが静かに並ぶ。

 僕は――どこにも並ばなかった。並べなかった。


 「霧島」

 名前を呼ばれて顔を上げると、教員が手元の名簿から視線を上げずに言った。

 「後ろの安全柵の外で見学」

 「……わかりました」

 声は自分のものなのに、少し遠くから聞こえた。


 見学用のベンチは、実技レーンから半歩分だけ外れたところに設置されている。安全のため、という建前だけれど、実際には“輪の外”を視覚化するための線に思えた。

 僕はベンチに腰を下ろし、胸の前で手を組む。指先に、診断の日の冷たさが微かに蘇る。手のひらを開いても、そこには何も宿らない。ただの皮膚と骨だけだ。


 「火、着火――三秒維持」

 教員の号令と同時に、ケンの掌に小さな炎が灯った。オレンジ色の火舌が、春の風に揺れている。彼は得意げに顎を上げ、次の瞬間には炎を細く伸ばして着火台の芯へ送った。

 「よし、安定」

 教員の短い評価。周囲から小さな拍手が起こる。

 水の循環槽では、ユウが両手で水脈を操っていた。表面張力の糸のような水が輪を描き、指先のわずかな角度で速度を変える。彼は視線を落とし、口元だけ薄く動かしている。成功したときの合図だ。


 風のターゲットでは、輪が宙に浮き、上下に穏やかに揺れている。土のレーンでは、掌大の浮遊石がふわりと持ち上がって、また落ちた。

 どのレーンにも、誰かの「できた」が灯っては消え、灯っては消える。

 僕は、ベンチの上で呼吸だけを繰り返していた。吸う、吐く。それ以外の動きは、与えられていない。


 「次、微細制御。火は火力の段階、三段階。水は滴の数。風は渦の安定。土は浮遊高さを一刻み」

 教員は淡々と進める。

 僕の耳元で、別の音がした。

 「なあ、ゼロは見学でも記録つくのかな」

 「カードの欄、空白のままじゃね」

 小さな声が背中に触れて、すぐ離れていく。悪意の温度はない。ただ、好奇心の指先で軽くつつかれる。それだけで、十分だった。


 ユウが滴の数を整えているのが見えた。水面から持ち上がった透明な球が、空中で七つ、等間隔に並ぶ。光を受けて、淡い青が震える。

 ケンは火力を弱から強へと滑らかに変え、最後にわざと火花を散らして周囲を笑わせた。教員は注意し、ケンは「すみません」と大きく返事をする。

 この教室のルールは簡単だ。できることを示す者が、空気の中心に立つ。

 できない者は――そこにいない。


 「ペアでの補助制御。相手の流れに合わせて、出力を上下」

 教員が手を叩いた。二人一組になって、互いの掌の間に薄い膜のような光を作り、押し合い、引き合う。火は熱の、風は圧の、水は流れの、土は重さの――それぞれの“手触り”を他者と共有する訓練だ。

 僕の前には、誰も来なかった。

 いや、正確には、誰も「来られなかった」。出力ゼロに合わせる練習は、ここには組まれていない。


 教員がこちらを見て、短く言った。

 「霧島、見ておくだけでいい」

 「……はい」

 返事はできたが、喉が乾いていた。

 近くで他のペアが始める。掌と掌の間に薄い膜が張り、その膜が押されて凹み、引かれて撓む。目に見えないものの輪郭が、確かにそこに立ち上がっている。

 僕は無意識に自分の掌を重ねてみた。指と指を合わせても、何も生まれない。皮膚の温度だけが行き来して、すぐに消えた。


 最後のメニューは、全体課題だった。

 「一分間、集中。出力は最小でよい。乱さないこと」

 クラスが一斉に静かになった。

 それぞれが自分の内部に降りていき、音が消え、風の揺れさえ遠のく。

 僕は目を閉じた。

 胸の中に、空洞のようなものがある。そこに手を伸ばしても、何も触れない。

 かつては期待と呼ばれていたもの。今はただの空気になって、出入りするだけの場所。


 風のレーンで、誰かが息を吐く音がした。

 水の表面で、さざ波が一本だけ走った。

 火の芯が、一瞬だけ色を変える。

 土の石が、わずかに沈んで戻る。

 世界のいたるところで、小さな反応が生まれては消え、また生まれては消えていく。

 僕の周囲だけが、はじめから最後まで、何も動かなかった。


 「終了」

 教員の声で、空気が戻る。ざわめきが広がり、器具の魔力供給が止まる音がした。

 「記録カード、提出」

 生徒たちが列を作る。カードの記録欄には、今日の日付と、着火・微細・浮遊の達成度が朱で塗られていく。

 僕はカードを取り出し、空白の欄を見た。


 「補助具の仮配布については、今週中に連絡がある。対象者は配布前に使用説明の講義を受けること」

教員の声が、空気を一段硬くした。

 数人が振り返って、僕の方をちらりと見た。

 補助魔具――ゼロや低数値の生徒に支給される、代替の触媒。属性の流れを擬似的に発生させ、術式の“かたち”だけをなぞれるようにする装置。

 「持っていれば参加できる」けれど、「持っていても何も生まれない」のだと、事前に渡されたパンフレットに書いてあった。

 参加のための道具。結果のない授業のための入場券。


 「霧島」

 教員がカードを受け取り、ちらりと目を落とす。

 「補助具の配布が来るまで、見学でいい。……体調は?」

 「大丈夫です」

 「無理はしないこと」

 それだけ。カードは、何も書かれないまま返ってきた。


 解散の合図で、クラスがばらける。

 「ケン、火花すごかったじゃん」

 「ユウ、七滴ちょうどは反則」

 明るい声が飛び交い、笑いが重なっていく。

 僕はベンチから立ち上がり、器具の列に背を向けた。歩き出すと、靴底が砂を踏む感触が鈍く膝に上がってきた。

 背後で誰かが、わずかに声を潜めた。

 「……補助、だって」

 「配られるまで、ずっと見学?」

 「しゃーないっしょ」

 声の温度は、冷たくはなかった。むしろ、同情に近い。

 でも、その同情の温度が、空気から僕を切り離す境界線にもなるのだと、最近ようやく分かってきた。


 実技場を出る前、振り返ってみる。

 空になったレーンに、薄い魔力の残滓が漂っている。見えない潮の流れのように、そこかしこで空気が揺れ、すぐ消える。

 僕の足跡だけが、砂の上にまっすぐ残っていた。誰とも交わらず、どのレーンにも触れずに、入口から出口へ向かう一本の線。

 風が吹いて、足跡の端を崩した。

 線は、すぐに曖昧になって、見えなくなった。


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