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2 診断の日

 春の空は、驚くほど澄んでいた。

 校門の上には新しい校章の旗がはためき、桜の花びらが風に乗って舞っている。真新しい制服に袖を通した生徒たちが、少し緊張した顔で行き交っていた。ざわざわとした人いきれと、どこか浮き立つような空気。それが、この日だけの特別な匂いになっていた。


 中学校の入学式。

 体育館の中では校長の話が続いているが、誰も真面目に聞いてはいない。生徒たちは、前を向きながらも落ち着かずにそわそわしている。理由は簡単だった。

 ――このあと、魔力診断があるからだ。


 それは、この国のほとんどの学校で毎年行われる恒例行事だった。

 入学式が終わるとすぐに、各学年ごとに一人ずつ、体育館裏の診断棟に呼ばれていく。そこで、生徒一人ひとりの「魔力適性」が測定されるのだ。診断の結果はそのまま進路や将来を決定づける。誰もが一生に一度だけ受ける、大きな節目。

 言い換えれば――今日、人生の“色”が決まる。


 僕は、三組の列の中ほどに座っていた。新しい制服の襟が少し硬くて落ち着かない。周りを見れば、同じクラスになった見知らぬ顔たちが、口々に未来の話をしているのが見える。

 「うちの兄貴、火属性だったんだよ」

 「私、風がいいな〜。飛べるかもしれないし」

 そんな声が、あちこちから自然に聞こえてきた。冗談めかした声もあれば、緊張に隠れた本音も混じっている。


 僕は黙って、それを聞いていた。

 手のひらの汗を制服のズボンでこっそり拭う。診断なんて、どうせ誰でも何かしらの属性が出る。ゼロなんて、ニュースの中の遠い話。

 ――そう、思っていた。


 ふと、壇上の時計を見ると、式の残り時間はあとわずかだった。先生が閉会の挨拶に入り、周囲の空気が一段と浮き立つ。

 体育館の扉の向こうには、診断棟へと続く渡り廊下が見える。春の光を反射して、白い壁がまぶしく輝いていた。


 胸の奥で、言葉にならないざわめきが小さく揺れる。

 それは不安というより、もっと曖昧な――ほんの少しだけ、期待にも似た感覚だった。









 入学式が終わると、列ごとにぞろぞろと体育館の外へと流れ出した。

 桜の花びらが渡り廊下に吹き込んで、床の上に薄いピンク色の筋を描いている。ざわめきはますます大きくなり、誰もが口を開けば診断の話ばかりだった。


 「おい、ヨル!」


 振り向くと、ケンが人混みをかき分けてこちらへ手を振っていた。

 丸刈りに近い短髪で、声が無駄にでかい。中学に上がっても相変わらずの勢いだ。その隣には、少し背の高いユウが歩いている。彼は逆に口数が少なくて、いつもケンの隣で苦笑いしているタイプだ。


 「おまえ、顔かてーぞ。そんなビビんなって」

 「……別に、ビビってないし」

 「どうせ土とかだろ? 運動苦手だしさ」


 ケンは何の根拠もなく僕の背中を叩いてきた。

 その勢いに、少しだけ力が抜ける。昔からこういう調子なのだ。言葉に根拠はないけれど、なぜかその能天気さに救われる瞬間がある。


 「ユウは?」

 「……たぶん、水かな」

 「おお〜、氷の剣士か! かっけー!」


 ケンが大げさに腕を振り回すと、ユウは困ったように肩をすくめた。

 彼は昔から成績も運動もそつがなく、クールな見た目も相まって、クラスではちょっとした人気者だった。本人はその手の話があまり得意ではないのだが、ケンが勝手に盛り上げるので、だいたいいつもこうなる。


 「ヨルはさ、どの属性がいい?」

 不意にケンがこちらを向いて言った。

 「……べつに、どれでもいいよ」

 「出たよ〜その冷めたやつ! 無属性だったりして」


 冗談めかしたその一言が、なぜか胸の奥に小さな棘のように残った。

 無属性――ニュースでは、何年かに一度だけ、そんな生徒が話題になる。

 けれどそれは、遠い世界の話で、自分には関係ないと思っていた


 「ま、なんでもいいけどさ! オレら三人、クラス一の最強トリオになるってことで!」

 ケンが勝手に拳を突き上げ、ユウが苦笑いしながら軽く合わせる。僕も遅れて手を出し、三人の拳が小さくぶつかった。


 その瞬間、胸の奥にわずかな熱が灯ったような気がした。

 今日、このあと何が起こるのかなんて、まだ何も知らなかった。ただ、友達と笑い合っているこの時間だけは、確かにまぶしかった。








 診断棟は、体育館の裏手に建っている。

 白い石造りの壁と高い天井。外から見れば小ぢんまりとした建物なのに、中へ足を踏み入れた瞬間、空気が一変した。

 薄暗い室内に、魔法陣を模した青白い光が幾重にも浮かび上がっている。まるで教会か神殿のような荘厳さだ。ざわめいていた生徒たちの声が、自然と小さくなるのが分かった。


 床の中央には、巨大な水晶柱が立っている。

 高さは天井まで届き、内部では淡い光が静かに脈動していた。まるで生き物のように、一定のリズムで鼓動している。これが、魔力診断装置――通称〈クリスタル・ゲート〉。生徒たちは一人ずつこの前に立ち、両手を水晶に添えて診断を受ける。


 壁際には教師たちが控え、順番を待つ生徒たちはクラスごとに列を作っていた。廊下からは次々と新入生が流れ込み、会場の空気が少しずつ熱を帯びていく。


 「すっげー……」

 ケンが思わず声を漏らす。

 ユウも珍しく小さく頷いていた。僕も胸の奥に、何とも言えないざわめきを覚えた。これほどの空間を目にするのは初めてだった。


 最初の生徒が水晶柱の前に立った。

 会場全体が一瞬、息を呑むように静まり返る。

 両手が触れた瞬間、水晶の奥で光が大きく揺らめいた。青い波紋が幾重にも広がり、やがて鮮やかな緑色の光が柱全体を満たす。

 「風属性!」

 教師の声が響いた途端、周囲から歓声が上がった。

 生徒本人は顔を真っ赤にして振り返り、クラスメイトに背中を叩かれている。


 次の生徒は火属性。その次は水。

 水晶の光はそのたびに色と形を変え、生徒たちの未来を映し出していった。誰もが、その瞬間を固唾を呑んで見守っている。


 列は少しずつ前に進む。

 僕たち三人も診断室の中央に近づいていった。ケンはずっと落ち着きなく、前の生徒たちの診断結果にいちいち声を上げていた。

 「お、火だ! いいなー!」

 「水きたー! ユウ、おまえの番も近いぞ!」

 ユウは苦笑しながらも、手のひらを何度か擦り合わせていた。緊張しているのが分かる。


 僕はといえば、ただ前を見つめていた。

 水晶の光は次々と生徒を飲み込み、色を変えていく。それは見ていて飽きないほど美しく、同時に、どこか遠い世界の出来事のようにも感じられた。


 列の先頭では、教師が淡々と生徒の名前を読み上げている。

 「――次、二組、ナカジマ・ユウ」

 ユウの番が来た。

 彼は一瞬だけ振り返って僕たちに小さく頷き、それから水晶の前に立った。両手が触れると、光がふっと沈み込み……次の瞬間、柱全体が深い青に染まった。

 「水属性!」

 教師の声が響くと、会場中からどよめきが起こる。

 青い光は波打つ水面のように揺らぎ、ユウの身体を淡く包み込んでいた。彼は少し照れくさそうにしながら列に戻ってきた。

 「やるじゃん、水の剣士!」

 ケンが肩を叩く。ユウは苦笑いしつつも、わずかに口元をほころばせていた。


 そして、次はケンの番だ。

 「――次、一組、タカハシ・ケン」

 ケンは胸を張って水晶の前に立ち、両手を勢いよく当てた。

 一拍の静寂ののち、真紅の光が柱の内部を駆け巡る。炎の舌がうねるように上へと伸び、天井の紋様を照らし出した。

 「火属性!」

 歓声が一段と大きくなる。ケンは振り返りざまに両手を突き上げ、クラスの仲間たちと派手にハイタッチを交わした。


 ユウは水、ケンは火。

 どちらも人気のある属性で、周囲の視線が二人に集まる。僕は少し後ろでその光景を見つめていた。胸の奥が、不思議とざわざわしている。

 焦りではない。嫉妬でもない。

 ただ、何か――形にならないざらついた感情が、心の底で小さく音を立てていた。




 「――次、三組、キリシマ・ヨル」

 名前を呼ばれた瞬間、空気が少しだけ変わった気がした。

 ざわめいていた列の背後が、ふっと遠のく。心臓が一拍遅れて脈を打ち、手のひらがじっとりと湿っているのに気づいた。

 足が勝手に前へと動き出す。視線の先には、巨大な水晶柱――〈クリスタル・ゲート〉。光が脈打つたびに、胸の奥で不思議な高鳴りがした。


 会場の中央に進むと、教師が無言で手振りを示した。

 水晶柱の前に立つ。透明な表面には、さっきケンやユウが触れたときの光の残滓がまだ薄く揺らめいている。

 天井の高い診断室は、相変わらずひんやりと静かだった。周囲の視線が、背中にじわじわと突き刺さるのが分かる。


 (大丈夫……だよな)

 心の中で、誰に向けるでもなく呟く。

 この場で何の属性も出ないなんて、ほとんど聞いたことがない。たとえごくわずかでも、何かしらの反応はあるはずだ。

 僕は深呼吸をして、両手を水晶柱にそっと添えた。


 ――冷たい。


 指先から、氷のような冷たさが一気に腕へと這い上がってきた。

 水晶が反応し始めたとき特有の、あの細やかな震えが……来ない。

 時間が一瞬、止まったような気がした。


 (……え?)


 会場は静まり返っている。

 ふだんなら触れた瞬間に光が波打ち、色が変わるはずだった。誰の診断でも、最初の一拍目で何らかの兆しは見える。

 けれど、水晶は――何の反応も示さなかった。


 「……落ち着いて、もう一度深呼吸を」

 教師が淡々と声をかける。

 僕は言われるままに息を整え、もう一度、掌を強く押し当てた。今度は意識を集中させる。血管の中を流れる何かを、掌へと送り込むようなイメージで。


 ……それでも、光らなかった。


 ざわ……

 誰かの小さな声が聞こえた気がした。

 僕は振り返らなかった。振り返る余裕がなかった。目の前の水晶柱だけが、異様に大きく感じられる。触れているのに、まるで分厚い壁を隔てているような、遠い感触。


 (どうして……)


 胸の鼓動が早くなる。

 汗が首筋を伝い、制服の襟を湿らせていく。

 周囲の視線が、先ほどまでの好奇と期待から、わずかに違う温度を帯び始めたのが背中越しに分かった。


 教師が少し眉をひそめた。

 「……一度、手を離してみてください」

 僕は言われた通り手を離す。冷たい空気が指先に絡みついたまま離れないような、奇妙な感覚が残る。


 教師が水晶柱の表面を軽くなぞり、淡い光の膜が一瞬だけ走った。異常はないらしい。

 「もう一度、お願いします」

 三度目の挑戦。

 僕は無意識のうちに奥歯を噛みしめ、両手を当てた。


 ……沈黙。


 今度は、会場全体が本当に静かになった。

 何十人もの生徒と教師たちが見守る中、水晶は微動だにしない。

 誰かが小さく息を呑む音、遠くで椅子がきしむ音――それらが妙に大きく響く。


 「……っ」

 喉の奥が勝手に鳴った。

 指先に力を込めても、冷たい壁はびくともしない。何度心の中で「光れ」と念じても、結果は変わらなかった。


 「……ここまで反応がないのは、珍しいですね」

 教師の声は静かだが、どこか緊張が混じっていた。

 すぐ横では、別の教師が記録用の魔導板に何かを書き込んでいる。


 その様子を見た瞬間、胸の奥がざわざわと波打った。

 今、何が起きているのか――理解が追いつかない。ただ、何かが決定的に違う、ということだけが、嫌でも伝わってくる。



 教師が魔導板を見つめたまま、しばし沈黙した。

 診断棟の空気が、ぴたりと止まる。

 あの青白い光も、まるで呼吸をやめたみたいに静まり返っていた。


 「――キリシマ・ヨル。……魔力適性値、ゼロ」


 その言葉は、淡々とした声で読み上げられた。

 なのに、それは雷鳴のように会場全体へと響き渡った。


 一拍、誰も動かなかった。

 次の瞬間、ざわ……という低い波が広がる。

 最初は一人二人の囁きだったものが、すぐに十人、二十人と増えていった。

 「ゼロ……?」

 「今、ゼロって言った……?」

 「ウソだろ……?」


 ざわめきは波紋のように広がり、会場全体がざらついた空気に包まれていく。

 僕はその中心に立ちながら、自分の名前が他人のもののように響くのを聞いていた。


 前の方で、ユウがわずかに目を見開いていた。

 ケンは口を半開きにして、信じられないという顔をしている。

 彼らの表情が、妙に遠くにあるように見えた。音も、色も、すべてがぼやけていく。


 「記録に間違いはありませんか?」

 別の教師が念のため確認する。

 「三回診断し、いずれも反応なし。数値はゼロです」

 淡々とした報告の声が重なった。


 「ゼロなんて……何年ぶりだ?」

 「十年近く出てなかったはずだ」

 教師たちの囁きが、はっきりと聞こえるほど会場は静まり返っていた。

 誰も笑わない。誰も近づかない。ただ、距離を置いて眺めるだけ。

 まるで、そこに突然“異物”が現れたかのように。


 誰かが小さく息を呑んだ。

 次の瞬間、列の後ろからわずかに笑い声が漏れた。

 「……マジかよ、ゼロって」

 それは冗談半分の軽口だったはずなのに、刃物のように鋭く胸に突き刺さった。

 僕は反射的に肩をすくめる。視線が一斉にこちらに向けられ、どこにも逃げ場がない。


 ユウが一歩踏み出しかけて、しかしその足が止まった。

 ケンは眉をひそめ、何か言いたげに僕を見た。

 でも、何も言葉は出てこなかった。

 その沈黙が、歓声よりも重く響く。


 教師が無表情のまま告げた。

 「診断を終了します。列は次へ進んでください」


 周囲の列が、少し距離を置きながら横にずれていく。

 誰も僕に話しかけない。すれ違いざまの小声だけが、耳の奥に残った。

 「ゼロだって……」

 「かわいそうに……」

 「マジで? 信じらんない……」


 僕は、ただそこに立ち尽くしていた。

 水晶柱の冷気が、まだ掌にこびりついている。

 「ゼロ」という二文字が、何度も何度も、頭の中で反響していた。








 診断が終わったあと、僕は別室に呼び出された。

 そこは会場横の小さな応接室のような場所で、壁には古びた掲示板と、魔力適性の基準表が貼られている。

 長机の向こう側に座ったのは、診断担当の教師と生活指導の先生だった。二人とも事務的な顔をしている。


 「キリシマ君、驚いたでしょう。こういうケースは非常に稀なんです」

 生活指導の先生が柔らかい声で切り出した。

 「まず、健康面に異常はありません。魔力ゼロというのは病気ではないので、心配しなくて大丈夫ですよ」


 その声を、僕はまるで遠くのラジオでも聞いているかのようにぼんやりと聞いていた。

 テーブルの上の木目が、やけに鮮明に目に映る。

 ゼロ、という言葉だけが、頭の奥で鈍く響き続けていた。


 「一応、後日再診の案内は出しますが……過去の例では数値が変わったケースはほとんどありません」

 診断担当の教師は、淡々と魔導板に何かを書き込んでいた。

 「今後の授業や進路については、追って担任の方から説明があります」


 (進路……)

 その言葉がやけに引っかかった。

 進路、つまり、僕の未来のことだ。

 さっきまで何の疑いもなく「ある」と思っていた未来が、あっけなく“書き換えられる側”になっている。


 話はそれで終わった。

 僕は小さく頷いて部屋を出る。

 扉を閉めると、外の廊下は昼下がりの光に満ちていた。


 他の生徒たちはすでに診断を終え、昇降口へと向かっている。

 階段を下りるとき、あちこちから歓声が聞こえてきた。

 「火だった!」「見たか? めっちゃ光ったぞ!」

 窓から差し込む春の光が廊下を照らし、制服のボタンに反射してきらめいている。


 僕の耳には、そのすべてが遠くの出来事のように聞こえた。

 靴箱で靴を履き替えるとき、後ろを通り過ぎる生徒たちの視線が、ほんの一瞬だけこちらに向けられる。

 誰も話しかけない。けれど、その沈黙が雄弁だった。


 昇降口を出ると、空はすっかり晴れていた。

 桜の花びらが風に乗って舞い、陽の光がアスファルトの上にまだらな影を落としている。

 その眩しさに、思わず目を細めた。


 正門の前では、友人たちの集団が診断結果を見せ合ってはしゃいでいる。

 ケンとユウもいた。

 ユウは僕に気づいて一瞬だけ目を合わせたが、何も言わなかった。

 ケンは隣で何かを言いかけたようだったが、そのまま口を閉じる。

 二人の間にある、説明しようのない距離感だけが、はっきりと伝わってきた。


 駅までの道は、春の午後らしい穏やかさに満ちていた。

 道端の花壇には色とりどりの花が咲き、子どもたちの笑い声が遠くから聞こえる。

 それでも、僕の足取りは妙に重かった。

 一歩進むごとに、自分だけが別の世界に取り残されているような気分になる。


 電車に乗ると、窓ガラスに自分の顔が映った。

 制服の襟が少しよれていて、額には診断のときの汗が乾いた跡が残っている。

 その表情は、自分のものとは思えないくらい無機質だった。


 家に着くと、玄関には母の靴があった。

 ドアを開けると、リビングから声がする。

 「おかえり。診断、どうだった?」


 一瞬、答えに詰まった。

 喉の奥に何かが引っかかって、声が出ない。

 「……ゼロだった」

 自分の口からその言葉が出た瞬間、空気がわずかに揺れた。


 母は目を瞬かせ、次の瞬間、作り笑いのような表情を浮かべた。

 「……そう。ゼロ、ね……」

 それ以上、何も言わなかった。

 その沈黙が、どんな言葉よりも重く響いた。


 食卓の上には、朝のままの皿が置きっぱなしになっていた。

 リビングの時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。

 僕は靴を脱いで、そのまま自室へと向かった。








 夜になった。

 部屋の電気はつけなかった。

 薄暗い中、ベッドに仰向けになって天井を見つめていると、昼間の光景が勝手に浮かび上がってくる。


 水晶柱の前。

 冷たい表面。

 反応しない光。

 教師の沈黙。

 「ゼロ」という、乾いた声。


 まぶたを閉じても、それらは消えてくれなかった。

 むしろ暗闇の中の方が、鮮明に響いてくる。

 鼓膜の奥で、「ゼロ」という言葉が何度も何度も反響した。

 静かな夜の空気に、その残響だけが延々とこだまする。


 呼吸が浅くなる。

 胸の奥に冷たい塊が沈み込んでいて、深く息を吸っても空気が入ってこないような感覚があった。

 手のひらには、まだ水晶の冷たさが残っている気がする。

 まるであの瞬間が、身体の奥に焼き付いたみたいだった。


 「……なんで」

 声にならない声が漏れた。

 問いかけではなく、反射的な音。

 それはすぐに部屋の静けさに吸い込まれて消えた。


 頭の中で、未来の光景が次々と崩れていく。

 授業に参加している自分。

 進路指導で笑っている自分。

 友人たちと肩を並べている自分。

 それらが薄いガラス細工のようにひび割れ、音もなく砕け散っていく。


 思考がうまく繋がらない。

 何かを考えようとするたびに、「ゼロ」の二文字が邪魔をする。

 どこにも進めない。

 胸の奥の冷たさだけが、じわじわと全身に広がっていく。


 気づけば、両手で顔を覆っていた。

 爪が額に食い込み、目の奥が熱くなる。

 けれど、涙は出なかった。

 泣き方を忘れてしまったみたいだった。


 時計の秒針の音が、やけに大きく響いていた。

 それ以外の音は何もなかった。

 夜の静けさが、僕の中に深く沈み込んでいく。


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