1 崖の上の少年
――夜の崖は、思っていたよりも静かだった。
風も虫の声も、僕の足音を邪魔しないように、少しずつ消えていった。
森を抜けてここまで来るあいだは、枝が擦れる音や、遠くの街のざわめきがかすかに耳に残っていた。けれど、崖の端に立った瞬間、それらは一斉に遠のいて、まるでこの場所だけが世界から切り離されたみたいだった。
見上げると、雲ひとつない空に丸い月が浮かんでいた。白い光が制服の肩をぼんやりと照らし、細かい埃まで青白く浮かび上がる。夜気は冷たく、頬を撫でるたびに体温が削がれていくようだった。指先はすでに少し冷えていて、ポケットの中に突っ込んだ手の感覚も鈍い。
崖の下は闇に沈み、どこまで続いているのか分からない。ただ、真っ黒な空洞が口を開けて待っている――そんな印象だけがあった。
僕は一歩、また一歩と縁へ近づいた。靴底が小石を踏み、乾いた音が夜に吸い込まれる。その音がやけに大きく響いて、反射的に息を止める。心臓の音だけが、自分の内側でかすかに鳴っていた。
風が崖の下から吹き上げ、前髪を揺らした。制服の裾がふわりと浮いて、まるで僕を後ろへ押し戻そうとするかのようだった。けれど、足は止まらなかった。
月明かりに照らされた崖の端は、滑らかで、光の境界がはっきりしていた。その一線を越えれば、もう二度と戻れない。――それを分かっていても、不思議と恐怖はなかった。ただ、夜の静けさだけが、僕を包んでいた。
ここに来るのは、初めてじゃなかった。
何度か、夜の散歩のついでみたいな顔をして、ふらりとこの場所まで来たことがある。けれど、そのたびに何となく帰ってしまっていた。理由は……別にない。ただ、踏み切るほどの気力もなかっただけだ。
今日も同じだろう、そう思っていた。
でも、今夜は違った。何か特別なことがあったわけじゃない。ただ、いつもより少しだけ静かで、少しだけ冷たくて、そして……少しだけ疲れていた。
……もういいだろ、って思った。
誰も気づかないまま、朝が来て、夕方になって、夜になる。
教室では誰とも話さず、廊下ですれ違っても目を合わせない。
家に帰っても、誰も待っていない。
そんな日々を、何年も繰り返してきた。最初のうちは、きっと何か変わると信じていたはずだ。でも、そのうち「何も起きない」ということ自体が、当たり前になっていった。
あの日から、ずっとそうだった。
それ以来、僕は何かを期待することをやめた。
驚くことも、怒ることも、悲しむことも、だんだん減っていった。感情が薄くなっていくというより、使い古した紙が擦り切れていくみたいに、少しずつ形が崩れていった感じだった。
「死にたい」と思ったのは、ずっと前だ。けれど、その感情も時間と一緒に風化していった。ただの“選択肢”のひとつになっただけ。
この場所に立っていても、怖くはなかった。
涙も出なかったし、声を上げることもなかった。
心のどこかで「終わりにしたい」と思いながら、もうひとつのどこかで「どうでもいい」と呟いていた。
夜の空気は、そんな僕の気持ちを映すように、静かだった。
風が吹いても、心は動かなかった。
ただ、疲れていた。それだけだった。
ポケットの中に、ずっと入れっぱなしにしていた紙を取り出した。
二つに折られたまま、端が擦れて少し丸まっている。指でなぞると、ざらついた感触が爪に引っかかった。
月明かりの下で広げると、薄い紙の上に朱色の判子がくっきりと浮かび上がった。その中央――大きく記されている文字を、僕はしばらく無言で見つめた。
《魔力:0》
その四文字だけが、夜の冷気よりも鋭く、胸の奥を突き刺す。見慣れたはずの文字なのに、何度見ても、視界が一瞬だけ遠のくような感覚になる。
……あの時は、ただ信じられなかっただけだ。
紙を握る手に、じわりと力がこもった。途端に、記憶の奥から、あの日の光景が断片的に浮かんでくる。
――ざわめく教室の一角。
――白い壁、整列した机。
――封筒を手渡した先生の、無表情な目。
《……“ゼロ”だそうです》
淡々とした声が、今でも耳の奥にこびりついている。
周囲の空気が少し変わったのを、はっきりと覚えている。椅子の脚がきしむ音、誰かが息を呑む音、そして……
――遠くで上がった、小さな笑い声。
あれから、何かが決定的に変わった。
でも、それが何なのか、はっきりとは言葉にできなかった。ただ、「ゼロ」という一語が、僕の中の未来を静かに削り取っていった。
診断カードは、あの日からずっと僕のポケットにある。捨てようと思ったことは何度もあった。でも、結局、どんなにぐしゃぐしゃに丸めても、また元に戻してしまう。
それは、忘れないためなのか。
それとも、忘れられないからなのか――自分でも分からなかった。
月の光がカードを透かして、薄い紙の繊維が淡く浮かび上がる。それを見ていると、あの日の息苦しさと、足元が崩れていくような感覚が、ゆっくりと胸の奥に蘇ってきた。
診断カードを折りたたみ、ゆっくりとポケットに戻した。
夜の風が少し強くなって、髪と制服の裾を揺らす。冷たい空気が喉を通り、肺の奥にまで沁みていくのが分かった。
僕は崖の端へと一歩、踏み出した。
靴底が土を踏みしめる音が、夜に溶けるように消えていく。もう一歩進めば、足元の線はなくなる。そこから先は、闇しかない。
下を覗き込んでも、何も見えなかった。
真っ暗な森が口を開けているだけで、深さも形も分からない。ただ、吸い込まれるような黒が広がっている。
……でも、それでいい。
未来なんて、あの日からもうとっくに消えていた。
誰も気づかないまま、僕はここにたどり着いた。
夜の風が背中を押したような気がした。
僕は、ゆっくりと目を閉じる。
――そうして、僕は静かに、一歩を踏み出した。




