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嫌な予感

 少年を背に乗せたグレイの二番目の息子(ヒューゴ)は、必死に息を切らしながらナミナン村へ駆け戻った。

 村長の家の前にたどり着くと、声の代わりにガウガウと大きく吠える。


 その鳴き声に驚いて、村長ガイルが慌てて戸を開ける。

 そこにいたのは――パシナ国へ商売を広げるために村を出ていたジュド。

 だが今は、顔も衣も血に染められ、ぐったりと狼の背に横たわっていた。


「ジュド! いったいどうしたんだ!」


 ガイルの声が震える。

 奥の部屋からザインが駆け寄り慎重に抱え上げると、ジュドの体は氷のように冷たい。

 それでもわずかな呼吸があるのを確かめ、村長の家の奥にある寝室のベッドへと運び込んだ。 


「あなた! これを!」

 ローラが急いで回復ポーションを差し出す。


 ザインが受け取ると、慎重にジュドの口元へ傾けた。

 ゆっくりと喉が動き、青ざめていた体に少しずつ血の気が戻っていく。

 開いたままの深い傷口も、じわじわとふさがっていった。


 それでも、流れすぎた血のせいで意識は戻らない。

「……まずは一安心だな」

 ザインが額の汗をぬぐいながら小さくつぶやく。


「いったい何があったの……?」

 ローラが震える声で問いかけるが、ジュドは答えられない。


 代わりにヒューゴが鼻を鳴らし、左右に大きく首を振った。

「そうか……。ここまで運んでくれてありがとう。ジュドはもう大丈夫だ。リセリの作ったポーションを飲ませたからな。お前も飲んでいけ」


 ガイルが小皿にポーションを移し、床にことりと置と、ヒューゴは一気にがぶがぶと飲み干した。

 そして満足げに喉を鳴らすと、静かに一声だけ吠え、踵を返して森の方へ帰っていった。




 ――その頃

 グレイのもとへ駆けつけた長男エニックは、荒い息を吐きながら父に報告した。


「父ちゃん! ヒューゴが村にケガ人を運んだんだ!」

 ゲホゲホと咽ながらも、必死に言葉をつなぐ。

「それで……その子が言ってたんだ。ルーシィ様に……伝えてくれって!」


 グレイの目が鋭く細められる。

 エニックはまだ幼さを残す声で、それでも必死に伝えようとしていた。


 グレイは短く息を吐くと、使い魔の黒いカラスへと鋭い視線を送った。

「……ルーシィ様のもとへ」

 低く囁くと同時に、カラスは羽音を立てて宙へ舞い上がり、森の上空を一直線に飛んでいく。


「エニック、お前は休め」

 長男の肩に手を置いてそう告げると、グレイの声が鋭く響く。

「皆を集めろ! 村の周囲を固めろ! 警戒を強化するんだ!」


 命を受けたオオカミたちは次々と駆け出し、低く唸り声を響かせながら森の影へ散っていった。




 * * *



 ルーシィは、かつてアロ族の里があった場所に立っていた。

 1000年前、紅蓮の炎で焼き尽くしたその大地は、いまでは一面の緑に覆われ、柔らかな草原へと姿を変えている。


 静かに風が吹くなか、一羽の黒いカラスが舞い降りてきた。

「……グレイの使い魔ね。何があったの?」


 カラスは濁った声で告げる。

「パシナ国に異変。ジュド、深い傷。」


 ルーシィの瞳が鋭く細まる。

「……そう。知らせてくれてありがとう。私がパシナ国へ向かうと、グレイに伝えて」


 短く鳴いて羽ばたくと、カラスは森の彼方へと消えていった。


「嫌な予感がする……」

 小さく呟いたルーシィは、ほうきを取り出してまたがると、夜気を裂くように空高く舞い上がり、パシナ国の方角へと飛び去った。



 生ぬるい風が頬を撫でる。だがそれは心地よさとはほど遠く、肌に纏わりつくような、重たく気持ちの悪い空気だった。

 パシナ国が近づくにつれ、空一面に黒い靄がじわじわと広がっていく。


 ルーシィは上空から城下町を見下ろした。

 家々の間を歩く人々の体から、細く淡い黒煙のような靄が漏れ出し、まるで糸のように空へと昇っている。それが集まり、町全体を黒く染め上げようとしていた。


「……魔力の漏出? いいえ……これは、何かに吸い上げられている……?」

 ルーシィは眉をひそめる。異様な景色は、ただの病でも呪いでも説明できなかった。


 胸の奥に冷たいものが走る。

 何かが、この国の人々そのものを喰らっている。


 根源を突き止めるため、ルーシィは深く息を吐き、気配を消す魔法を自らにかけた。

 ふっと存在が薄れたかのように、彼女の姿は風に溶け込み、音すらも遮断される。


 ゆっくりと高度を下げ、靄に覆われた街の中心部へと降り立った。

(この街には、ジュドのほかにもナミナン村から働きに来ている子たちがいたはず……無事でいてくれるといいけれど)


 ルーシィは通りを歩く人々の顔を一人ひとり確かめていく。

 だが彼らの表情はどれも虚ろで、目の焦点は合わず、魂が少しずつ削られていくかのようだ。


 警戒しつつ、町はずれの小さな教会を目指す。

 そこには澄んだ水を湛える噴水があり、そこから立ちのぼる清らかな水しぶきが、周囲の淀んだ空気を押し返している。

 教会ならば、あの靄から逃れた人々もいるだろう。

 ルーシィが中へ足を踏み入れると、祈りを捧げるシスターと、数人の子どもたちの姿があった。ここだけが別世界のように穏やかだった。


 その中に――見知った顔を見つけ、ルーシィの胸が熱くなる。

 ナミナン村から働きに出ていたラニだ。


 ルーシィの姿を見つけた瞬間、ラニは堪えきれずに泣き崩れ、駆け寄ってきた。

「ルーシィ様……!」

「無事でよかった。何があったのか話せる?」


 嗚咽まじりに、ラニは震える声でこの街に起こった異変を説明し始めた。


「ひと月ほど前です……。汚れたローブをまとった人が、街をうろつくようになりました。旅人でも商人でもなくて……みんな警戒して、なるべく距離を取っていたんです」


 ラニの小さな拳が膝の上でぎゅっと握られる。


「その人は、いつからか“無料で”ハンカチを配るようになって……。『このハンカチが、あなたの邪気を吸い取ってくれます。これでもう安心ですよ』って、にこにこと……気味の悪い笑顔で」


 ――ハンカチ

 ルーシィの脳裏にアナベルが握っていたあのハンカチが頭をよぎる。


 聞いていた子どもたちの表情もこわばり、教会の空気がひんやりと冷える。

 ラニは震える声で続けた。


「最初は、みんな疑っていました……。でも、あまりにも何度も勧めてくるから、つい受け取ってしまう人もいて……。すると、その人たちは翌日から、まるで人が変わったようになったんです。無表情で、何を話しかけても心ここにあらずで……」


 思い出したかのように泣き出す小さな子どもたちの代わりに、シスターがゆっくりと口を開く。

「この子たちの両親も、そのハンカチを手に取ってしまい、翌日から何も話さず、何も食さず……ただ何かをずっとつぶやいていると……」


 ラニの目には涙が滲んでいた。

「けど、わたしやジュド、それに村から来ていた何人かは……リセリ様が作ってくださったお守りを持っていたから、何も起こらなかったんです」


 ルーシィの胸に、ほんの少し安堵が広がる。だがすぐに、次の言葉がそれを打ち砕いた。


「ハンカチが怪しいと気づいたジュド兄さんは、思い切ってその人から直接ハンカチをもらおうとしたんです。そしたら……ジュド兄さんのお守りが突然まぶしく光って……ハンカチが勝手に燃えちゃって……!」


 ラニは声を詰まらせる。


「その人は激怒して、ジュド兄さんに魔法を……! その時……その人のフードが風でめくれて、顔が見えたんです」


 ルーシィの耳がぴくりと動く。


「こげ茶色の、肩まで伸びたくせ毛……そして、瞳は真っ黒でした」


 その瞬間、ルーシィの胸に鋭い電流のような感覚が走る。

 ――まさか……ミザリー!!


 押し殺したはずの記憶が脳裏に浮かび上がり、ルーシィの表情が固まった。

「話してくれてありがとう。ジュドは無事よ」

 ルーシィの言葉に、ラニは胸のつかえがほどけたように泣きじゃくる。シスターがそっとその肩を抱き寄せ、他の子どもたちも心配そうに寄り添いながら慰めていた。


 ルーシィは小さな包みを取り出し、シスターの手にそっと載せる。

「シスター、これを持っていて」

「これは……?」


 掌の中には淡い光を放つ小石があった。


「守り石よ。この町全体を覆うほどの力はないけれど、この教会を守るくらいなら十分だから」

「……ありがとう」


 シスターの声は涙に濡れ、礼拝堂の中に柔らかく響いた。




 教会から外へ出たルーシィは、夜空のように淀む黒い邪気を見上げ杖を握り直した。

「……この規模だと、無詠唱では無理ね」

 小さく息を吐き、決意を込めてつぶやく。


 赤い髪をたなびかせながら、彼女は翼のように魔力を広げ、国の中心部へとゆっくり降り立つ。そこで静かに目を閉じ、吟詠を始めた。


 澄み渡る歌声が空へと響き渡り、魂の底から湧き上がるような光が彼女の全身を包む。光はやがて流れとなり、鼻先から、指先から、空気に染み込むように広がっていく。


 黒い靄は、歌と光に押し流されるように揺らぎ、街の影の中へと退いていった。

 だが完全に消えたわけではない――まるで深い森の奥に獣が潜んでいるように、なお重苦しい気配が残っている。


 ルーシィは額の汗を拭い、息を整える。

「……私の腕も落ちたものね。一度で蹴散らせないなんて。早く根を断たなければ」


 決意を宿した瞳で街の奥を見つめ、ほうきを握り直す。


 舞い散った黒い靄は、ただ消えるのではなく、まるで意志を持つかのように細かな塵となって集まり、街の奥――さらに奥へと吸い込まれていった。


 ルーシィはそれを見逃さぬよう、ほうきを操り追いかける。

 辿り着いた先は、街の外れに広がる南の森へとつながっていた。


「……やっぱり、おかしい」

 胸の奥にざわりとした不安が走る。だが、このまま見過ごせば、黒い邪気は再び人々を蝕むだろう。根を絶たなければ何も終わらない。


 一瞬、ルーシィの脳裏にナミナン村の仲間たちの顔が浮かんだ。

 ――リセリがいる。ミーニャも、グレイも。

 きっと守ってくれる。だから今は、信じて任せよう。


 決意を固めると、ルーシィは黒い塵の流れを追って森の奥へ飛び込んでいった。

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