3.寿命とサマーアイス
五月の春は精液の匂いがする。世界がみんな陽だまりの色になる。風が起って、残りわずかになった花の命をくゆらす。
初夏。放課後。夏の虫。僕と柚希は街の小さな神社の石段に腰かけて並んで座っていた、さんさんと降り注ぐ陽光に片手のソフトクリームを溶かされながら。柚希は僕の左にいて、僕は柚希の右にいた。僕は左利きで、柚希は右利き。ソフトクリームをくっつけて乾杯したのはついさっきのこと。
葉叢。薫風。木漏れの日。体操服の中学生ふたり。柚希の足は白い。僕のみたいな黄色っぽい白さじゃない、本物の白さだ。柚希の足を見ているとこのソフトクリームの白ささえも偽物のように思えてくる。柚希の足は白くて細い、そして綺麗だ。けれど、ところどころ痣とあざの痕が目立つ。痣と言えば腕と頬も。ところで、それでもなお愛おしいと思う僕は悪魔的だろうか。
柚希は教室でいじめられている。そして自殺を考えている。隣に座る僕はそんな柚希にかける言葉を考えあぐねている。柚希の考えを変えることはできなくても、せめてあと一言だけ、気の利いたことを言えたら。そして、せめてあと少しだけ、彼と時をともにすることができたら。そんなことをぐるぐる考えている僕に、柚希は突然、自分のことをいじめてほしい、と言った。嫌いなやつにいじめて死ぬよりも、好きな人に殺されたい、と。
僕はもちろん拒否した。柚希は、せめて、人間らしく、という言葉を使った。僕の中で何かが大きく揺らいだ。愛、という言葉が何度も胸に浮かんでは、僕はそれをかき消した。
そうして、沈黙。
風が通り過ぎていった。すでに夕方の風が混じりはじめていた。
「ねえ、葉ちゃん」
僕らは幼馴染だ。
「どうかした?」
「もうすぐ蜉蝣の季節だね」
「そういえば、そうだね」
五月八日。すこし気が早い。
「毎年、蜉蝣の季節が近くなると、僕はなんだか無性に命について考えたくなるんだ。命、寿命、生と死、あるいは存在について、さらには永遠と虚無について……」
「また、そういうことを言う」 僕は水を差した。柚希がこういう手段をとるのは再三だったから。
「ねえ、待って。でも、聞いてほしいんだ。ほら、知っての通り、僕には君以外友達と呼べるような存在はいないし、こういうことを少しずつ打ち明けていないと僕は生きていけないから」
「ふむ」 こうしていつも僕にしわ寄せがくる。
「ほら、蜉蝣って一日で死んじゃうから、儚いいのちの象徴みたいな感じになっているでしょ?」
僕は首を横に振った。話の進め方に同意しかねたのだ。
「一日しか生きられないというのは誤解だよ。たしかに僕らがよく見る成虫の姿で生きるのは一日しかないけど、その前に一日を亜成虫という状態で過ごして、さらにその前に三年間を水の中の幼虫で過ごすんだから」
「でも、たった三年だよ」
「まあ、虫だからね」
「それに、僕が言いたいのはこういうことなんだ。たしかに蜉蝣には幼虫として過ごす三年間が与えられている。でもその三年間もたった一日を成虫として飛び回り交接するのに費やすためにあるとしたらどうだろう? もしかしたら、こう考えることもできるかもしれない。蜉蝣の幼虫は成虫の一日に、ただ一日に思いをはせながら三年間を生きる、つまり、蜉蝣はただ一日を生き続けるんだ、あるいは、交接のあとの夕暮の死を思い描き、その死のみを幾度となく生き続ける……」
「つまり、何が言いたいの?」
柚希は照れくさそうに言った。
「蜉蝣は僕によく似ているってこと」
やれやれ、という風に僕はため息をついた。
柚希は手をつたうソフトクリームを舐めとって言った。
「僕にはもう時間がないんだ。でも、いつまでも君と一緒にいたいんだ」
「それは、味方が少なくて絶望的な形勢だから、ということ?」
「ううん。たしかにそれもあるけど、問題はたぶんもっと深く、広く、太く根を張っている」
僕はソフトクリームを一口食べて言った。
「すなわち、心の問題」
「そう。あるいは脳神経」
「いじめはもうどうしようもないだろうな。先生も手に負えなくなってるし」
言い終えてから、しまった、と思ったが、後の祭りだった。
「それから、家族。どうしようもないね」
いじめの主犯格。いじめを盛り上げる取り巻き。いじめに加担する教師。見て見ぬふりする傍観者。理解のない親。それから、僕。
柚希がソフトクリームをほおばるたびに、溶けだしてコーンにたまったソフトクリームがあふれて手に垂れる。そのたびに、柚希は手についたソフトクリームを舐める。いたちごっこだ。
「でも、最後くらいはせめて人間らしく振舞いたいよね」
「せめてあと少しだけ生きてみようよ」
そのときの僕にはこれくらいしかかける言葉が見つからなかった。けれど柚希はただおいしそうにソフトクリームをほおばって言った。
「せめてこのアイスが融けるまで、ね。それに、————」
水に卵うむ蜉蝣よわれにまだ悪なさむための半生がある。
柚希はそう吟じ終えると、溶けるようにやさしくほほえんだ。その笑顔は初夏の石段の上に置いておくのがはばかられるほど、いとおしく思えた。
「あ、————」
柚希のコーンから、半分くらいになったソフトクリームが滑り落ちた。ソフトクリームは地面にぶつかってひしゃげて、白い液体を飛び散らせた。
柚希と僕は顔を見合わせて、それから吹き出した。
柚希がふざけて僕のソフトクリームを一口ほおばった。僕が柚希を肘で小突くと、そのはずみに僕のコーンに乗っていたソフトクリームが落ちた。僕のソフトクリームは柚希の近くに落ちて潰れた。
今度は柚希も僕も抑えられなくて大笑いした。杜に響く少年たちの笑い声、と僕は考えた。
柚希がふたたびいじめの話を持ち出した。僕は過激なことはしないという留保をつけて、承諾した、そうしなければ、彼がこの朗らかな笑い声だけを残して、とおく消えてしまいそうな気がしたから。
東風。葉桜。緑の匂い。
ふたつのソフトクリームは、アスファルトの熱ですぐにも溶けだし、見分けられなくなった。》