2.凛夏島に降り立つ
大学一年生の夏季休暇、新生活もまだぎこちない十八歳の僕はこの夏の二か月を彼女に約束した小説を集中して書き上げるために費やそうと決意して、避暑地としてひそかに有名な、白々とした波間の反射がまぶしい太平洋に囲まれた凛夏島の船着き場にフェリーから降り立った。左手には講談社文芸文庫の『新しい人よ眼ざめよ』をたずさえていた。見知らぬ土地でのある長さの滞在には、異文化との摩擦で疲弊する心を励まし得るように————この小説の言葉を借りて言えば、「見知らぬ風土で根なし草となる自分が、ありうべき危機になんとか対処しうるように」————携行する本のなかに幾度となく読み返して馴れ親しんだ一冊の本を選ぶようにしている。とはいえ、その土地は僕にとって全くなじみがないというのでもなかった。記憶がさかのぼるのも覚束ないほど幼いころに一度祖父母とともに湯治に来たことがあるらしく、私がこの土地を今夏の地に選んだのも、六月に亡くなった祖父との思い出を懐かしく思ってのことだった。
ホテルに着くと、僕は荷物をおろしてすぐ、ノートPCと原稿用紙、それから万年筆を取り出して、机に向かった。昨夜寝る間もおろそかに取り組んだ小説の第一章を原稿用紙に清書するためだった。万年筆のペン先を青のインク瓶に浸しながら、僕はきのう読んだ『新しい人よ』の一節を無性に確かめたくなって、机の上に置いていた白と水色のグラデーションのその本を手にとって、ページを繰った。私が惹かれたのは、作者が最も美しいとするマルカム・ラウリーの中編『泉への森の道』から一節を引用しているところだった。————《私は、罪に満ちておりますゆえに、誤った様ざまな考えから逃れることができません。しかしこの仕事を偉大な美しいものとする営為において、真にあなたの召使いとさせてください。そしてもし私の動機があいまいであり、楽音がばらばらで意味をなさぬことしばしばでありますなら、どうかそれを私が秩序づけうるようお助けください、or I am lost……》————作者はこの後、この一節の最後“Or I am lost”がウィリアム・ブレイクの『無垢の歌』「失われた少年」の一節“Or else I shall be lost.”と結ばれたことを告白している。作者はこの後、ラウリーに導かれるようにブレイクの詩の世界に踏み入っていくわけだが、しかし僕はおなじところに注目させられつつも、新しい作品世界に入っていくというのではなくて、そうではなくこの一節をいささかの傲慢を自覚しつつも自らの言葉として語りなおすことを希っていた。僕にはこの引用部のとくに最後が僕のこれからの運命を導く予言のように感じられたのだ。僕はすぐさま便箋を取り出して、この一節を書き写すと、彼女に原稿用紙を送るための封筒の奥に入れた、“Or I am lost”を僕からの一言めの遺言、あるいは救難信号のように感じ取りながら。
清書を終えると、僕はあらかじめ宛名などを書いておいた封筒に原稿用紙を入れ、それをたずさえて郵便局へ向かった。僕はそこで数百円を払って郵便物を発送し、その足で近くの浜辺へと向かった。
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